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第3話 出会いは唐突と共に

 鋭い日差しに苛まれ、寝苦しさに目を覚ました時には、太陽はすっかり中天に昇ってしまっていた。

 昨日は僅かな時間で、一生で味わうであろう剣呑や悲壮といった負の感情を集め合わせたような感覚を体感したため、気付かぬうちに灯の内面にかかっていたストレスは相当のものだったのだろう。死んでもなお夢は見るらしく、彼女はそこで、昨日のショックを嫌というほど再体験した。さらにそれでは飽き足らず、灯の亡骸に縋り付いておいおい泣き喚く母を、夢の中で彼女は何もできずにただ見下ろすばかりだった。


 私はここにいる。気付いて。


 そう声を張り上げても、彼女の母は既に魂の遊離した、空っぽの肉体に抱きつき、何故と返ってはこない問いを投げかけるだけ。どんなにその丸めた背中を揺さぶり、精神が未だこの地上に残存している事実を伝えたかったことか。

 しかしそれさえ、彼女には許されていない行為だった。此岸と彼岸のどっちつかずで彷徨している彼女には、母へ指一本接することさえできなかった。

 これほど近くにいるというのに。微量の痙攣で指頭が動いただけで触れるような、それほどまでの近距離にいるというのに。

 灯だけが母を認め、母は亡霊である灯には一瞥もくれない。灯の叫びは、一方通行の訴えでしかないのだ。

 神という創造主が、もしこの世界にいるというのなら、どうしてこんな惨い仕打ちを与えるのだろう。

 無力さに責め立てられ、灯は爪を掌の肉に食い込ませるほど強く、握り拳を作った。そしてその怒りの矛先は、犯人へと向かい、さらなる憎悪に牽連したのだった。

 眦に違和感を覚えて手で拭ってみると、ぱさぱさした結晶が指に付着していた。寝ている間に、また泣いていたらしい。

 いつまでも悪夢を反芻していては、寝覚めが悪くて敵わない。

 灯は意を決して立ち上がった。


 今日こそは、ここでただ立って沈思黙考しているわけにはいかないのだ。

 明るいうちに、まず家に帰ろう。私の居場所は、あそこにしかないのだから。


 灯は崖を見上げた。角度にしておよそ六十度程度の斜面だろうが、この崖下から見上げてみると、それは恰も垂直に切り立った断崖絶壁のように誇張されて見える。いや、それどころか、上の方はねずみ返しのように、オーバーハングになっているような気さえする。

 それでも彼女は、崖を登り始めた。だがそこで、ある問題に直面することになった。

 昨夜、寝る時には有難かった、宙に僅か浮遊しているという事実が、灯の邪魔をするのだ。地面の上に分厚いガラスが敷かれ、その上を歩いているよう、とでも言えば分かりやすいかもしれない。摩擦が少なく、取っ掛かりもないので、登りにくいことこの上ない。結局、彼女は三、四メートル程登っただけで、抵抗もできず無様にずるずると斜面を滑り落ちてしまった。

 こんなことでへこたれている場合ではない。

 この山の中から脱出し、是が非でも犯人を突き止めるのだ。

 自分を鼓舞して、灯は再度崖を登り始めた。できるだけ姿勢を低くして、脚だけでなく両腕でも身体を支えながら。全身でもって登るように。

 元来、家に引きこもって本を齧るのが趣味の彼女にとっては、運動というものは得意な分野ではなかった。その特性は幽霊になっても変わらないらしく、ちょっと登るだけで、もう息が上がってしまう。

 しかし、疲労は覚えても、不思議と空腹は襲ってこなかった。こんな山の中で遭難めいた状態にあるわけだから、それだけでも、幾分かマシに思える。

 右手を伸ばし、左足を伸ばす。そして今度は左手右足。神経を研ぎ澄まし、まるでヤモリのように斜面に張り付いて必死に登っていたが――、


「あっ」


 一瞬の不覚でつるりと足を滑らせ、灯は急勾配を一直線に滑落してしまった。


「痛っ――」


 おまけに尻をしこたま打って悶絶する羽目になった。

 幽霊になっても痛覚があるなんて。

 彼女は痛みを堪えながら、辺りを転げ回った。が、すぐさま、あっと声を上げ、痛みを忘れて彼女は立ち上がった。

 対岸に、上の道に出る石段があったのを、視界の端に捉えたからだった。

 灯は額をぴしゃっと叩いて自戒した。

 せっかちで周りをちゃんと見ずに行動を始めてしまう、自分の悪癖が出てしまっていたからだ。


 もう、また私ったら。勝手に早とちりして。

 よくよく考えたら、いくらなんでも警察が私の死体を担いで、あんな崖を登れるわけがないじゃない。もっと落ち着かないと。


 灯はローファーと靴下を脱ぎ、スカートをたくし上げて川を渡ろうとしたが、そもそも水を透過するのだから必要ないことを思い出し、苦笑しながら履き直した。

 難なく対岸の石段の前へと辿り着き、顎を突き出して見上げてみると、石段は右に左に九十九折になって上方へと続いている。石の大きさは不揃いな上に、木の陰になって日が当たらないのか苔生していて、平生ならば足を取られてしまう心配もあった。だが、今は関係ない。先程崖登りで妨げになった特性が、今度は活かされた。

 危なげなく楽々と石段を登りきり、ようやく灯はアスファルトの路上へと到達した。久しぶりに見る人工物に、だだっ広い砂漠を彷徨い歩いてやっとオアシスを見つけたような、そんな大袈裟な歓喜を感じていた。

 だがそれも束の間。

 今の彼女は、オアシスより何より、地図を渇望していた。

 普段携帯を入れているスカートのポケットの中には、何も入っていなかった。もちろん、ブラウスのポケットにも中身はない。携帯がなければ、今何時で、ここがどこなのかも見当がつけられない。

 兎に角、道は二つに一つ。下流方面に行くか、上流方面に行くか。どちらにしても、暫くの間は谷底の川に沿って進むようだが……。

 彼女は迷わず下流方面を選んだ。

 上流に向かっても山からは降りられない。ひとまず下流に進んでみて、集落があれば、そこでバスにでもこっそり乗り込めるかもしれない。

 灯は蛇行した山道を下り始めた。登山客はいるにはいるが、彼女のことなど見えていないので、当然道を訊けるわけもない。それにまだ昼だ。登山客は彼女とは真逆の方向に歩みを進めている。

 車も時折通りかかるが、親指を立てて右手を掲げたところで、停まってくれる車などいるわけもない。路肩を歩く彼女のすぐ側を、あるいは完全に身体にめり込みながら、エンジンの唸りを上げ排ガスを撒き散らして通り過ぎていくだけ。

 一体いつまでかかるだろう。歩き通しで流石に彼女も疲れてきた。

 いくら動いてもお腹が空かないのは助かるけど……。生きてるうちに、もっとスポーツをやっておくべきだったかも。

 自分の体力のなさを呪いながらも、彼女は歩を止めることはなかった。


 私にはやることがある。絶対に、やらないといけないことが。

 犯人を見つけ出し、取り憑く。


 再び、彼女は足全体で地面を蹴り出し、力強く身体を前へと推進させる。

 今の彼女を突き動かしているのは、恨みの念だけだった。

 それに気づいて、灯はくつくつと喉の奥からシニカルな笑いを響かせる。


 なんだかんだ言いながら、やっぱり私も幽霊なのね。

 生きている間は、こんな風に人を恨んだり、憎んだりなんてこと、殆どなかった。幽霊になると、皆こんな風に怒りに取り憑かれてしまうのだろうか。それとも、怒りに取り憑かれたからこそ、幽霊に成り果てたのだろうか。


 灯はそのまま道に沿って歩き続けようとしたが、蛇行したこの道に馬鹿正直に従っていては、この亀のような歩みではまだ見ぬ集落に辿り着くまでに、きっとまた日が暮れてしまう。そう危惧して、彼女は焦りの中、森を突っ切ることにしたのだ。

 先程、あれだけせっかちのせいで痛い目を見たというのに、性懲りも無く。しかしそれが、この悪癖が悪癖たる所以なのだろう。

 果たして、やはり彼女は森の中で道に迷うことになった。地図さえない上にコンパスすらない。陽の位置さえもわからなくなるほど鬱蒼とした森の中で、彼女は只管歩き回った。

 ただ真一文字に森を横切るだけで済んだはずなのに。

 自分の浅薄な行為を悔やんでいるうち、又しても山は暗闇に包まれることになった。それでも再び道に――それも、すぐそばに集落があるような場所に出てくることを信じて、暫くの間は歩き続けていたが、疲労は既に限界に達していた。

 足が棒のようになった彼女は、もはや怨恨の力だけでは一歩も前に進めず、その場にへたり込んだ。

 そして翌朝、自然の迷路に四苦八苦しながら、やっとこさ元の道へと戻って来た彼女は、茫然自失に陥った。


「そんな……、冗談でしょ?」


 それは見覚えのある――、灯の倒れていた川へと降りる石段の真ん前だったのだ。


 自分の間抜けさにほとほと呆れ、憮然とした灯はガードレールに寄りかかって、大きな溜息を吐いた。突き抜けるような雲一つない爽快な青が広がる空を仰いで、彼女はまたどんよりとした溜息を吐く。

 視界を何羽もの鳥の影が通り過ぎていく、長閑な時間。

 あんな風に空を自由に飛行することができたら、どれほど楽なことだろう。

 起伏に富んだ地べたを這うこちらの苦労など、知ったことかとばかりに我が物顔で羽ばたく呑気な鳥たちを、恨めしそうに灯は見つめた。

 もはや一歩も歩く気がしなくなって、殊更面白くもないのにそれを眺め続けていた。

 そんな時だった。


「あの……、ちょっといいですか?」


 反射的に声の方を振り向くと、そこには彼女に向かって会釈をする、同年代くらいの青年が立っていた。

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