第2話 決意は怒りと共に
泣き疲れた灯の目から、ようやっと涙が止まった。
泣いていても、何の解決にもならない。納得いかないことだらけではあるが、昂ぶっていた気持ちがようやく落ち着いてきた。
そうして冷静な思考を取り戻すと、それまですっかり頭の片隅に追いやられていた、幾つかの疑問が再び議題の中心に上り始める。
私は死んだ。そして幽霊になった。あまりに非科学的で荒唐無稽で、正直とても信じられないけれど。
それが事実だとして、ではどうしてこんなところで死んでいるのか。
そもそも、ここは一体どこなのか。
周りを見渡したところ、灯の目に入ってきていたのは峻厳な自然ばかりだった。普段、無機質なコンクリートのひしめき合う街で暮らしている彼女にとっては、縁もゆかりもない場所だ。きっと東京ではないのだろう、と灯は思った。
おまけに川に浸された灯の死体は、何故か山登り真っ最中というような格好で事切れていた。蛍光色の赤い登山服に、それを覆い隠してしまいそうなほどの大きな黒いリュック。どちらも彼女の趣味でもなければ、彼女の持ち物でもなかった。
だいたい、彼女にはここ最近で登山なんてした記憶はないし、趣味やら部活やらでやっているとか、そういうわけでもない。
それに、幽霊と化した灯が着ているのは、彼女の死体が身に着けているような登山服ではなく、着慣れた高校の制服だ。
幾つかの可能性を否定しつつ、推論を重ねていくと、自ずと答えはひとつに絞られる。
……もしかして、誰かに着せられた? それも、おそらくは私が意識を失ってから。
仮にそうだとしたら、その人が私にそんなことをする理由なんて、一つしかないのではないか。
灯の頭の中にぽっと閃いた単語は、平和な日常においては、テレビか本の中でしか見ない物騒な代物だった。しかし同時にそれは、彼女の抱えている疑問を、ものの見事に解決する言葉でもあった。
殺されたんだ――。
私は、殺された。その人に。
一旦その考えに及ぶと、もはや灯にはそれが真実だとしか思えなくなっていた。もしそうなら、自分がこの見知らぬ場所にいることにも納得できる。
警察が先刻言っていたように、灯は登山中に崖から滑り落ちて事故死した。犯人はそんな風に見せかけたのだ。
でも、いったい誰が、どうして私なんかを殺す必要があったのか。
彼女の思い出す限り、これまでの自分が誰かに殺されるほど恨まれるようなことをした記憶はない。悪目立ちしないように、ずっとしずしずと平穏な日々を過ごしてきた。大会社の令嬢などならともかく、彼女の場合はむしろ貧しい分類に位置付けられる家庭の娘だ。金目当てという線も考え難い。
殺人というキーワードによって、灯の疑問は一挙に解決されたように見えたが、そこに動機という新たな疑問符が生まれ、またしても彼女は自問自答を始める必要があった。
灯はより注意して、自分の残留思念から記憶を引きずり出そうとした。
もしかしたら、どこかで犯人の顔を見ているかもしれない。そしてそれが誰かわかれば、何かしらの動機も自ずと見えてくるのかもしれない。
――そういえば、私が覚えている最後の記憶って何だろう。
解れてしまった記憶の糸を手繰り寄せ、それを撚り始める。
次第に彼女の精神は、過去へと遡っていった。
学校が夏休みに入って、特に部活やアルバイトをしていない灯は、基本的には家にいて家事か読書をするか、あるいは気まぐれに図書館や学校の図書室に行って、やっぱり読書の毎日だった。
彼女は幼い頃から、外へ出て身体を動かすのより、家に置いてある本を静かに読んでいる方が好きだった。学校でもそうだ。休み時間は騒がしい教室にも構うことなく本に目を走らせていた。それだから、友達もそれほど多くなく、正直言えば親しい付き合いをしているのは、同じクラスになったうちのたった二、三人程度。高校になった今も変わらず、クラスの数人の女子とだけ、仲良くしているくらいだ。
それはさて置き、あれは……八月の第四週頃だっただろうか。
彼女は思い出せる限りの記憶を、海馬の奥底から引っ張り出した。
灯はいつものように、母と共に昼食を摂ってから学校の図書室へ行こうとしていた。その時、リビングにあった時計を見ていたから、時刻ははっきり覚えている。午後一時十分前だ。
その時彼女は、学校へ行くということもあって、今のように制服を着ていた。当然ながら、登山の格好などしていない。
学校へと向かう道すがら、彼女はやはりいつも通り、何の気なしに近道である裏路地を通った。路地というよりは、ほとんどビルとビルの隙間ともいうべき場所だ。しかし、ここを通るか通らないかで、学校までの道のりは五分ほど変わる。だから、昼間でも薄暗くて人通りの少ない場所だが、よく使っていた。さすがに、陽も暮れた帰り道に使うのは躊躇われたが。
そこを歩いている最中に――、
彼女の後頭部に、電流のような刺激が走る。
……そうだ。思い出した。
その路地を歩いている、まさにその時。頭に衝撃が走って、それで私は……。
その時の疼痛が、まるで今また記憶とともに復活したように、彼女の頭部に襲いかかった。
それで私は、意識を失って、気付いたらもうここにいたのだ。幽霊と成り果てて。
灯の記憶と今の状況、そして警察の所見を総合すれば、彼女は今日の昼間にあの路地裏で後ろから誰かに頭を殴られ、それで殺されたということになる。
犯人は彼女の死体を、この人里離れた山奥へと運び出し、カムフラージュのために登山の格好をさせて、崖から投げ棄て、事故死に見せかけたというわけだ。
覚醒した時の混乱は、既に彼女の中からは霧散していた。現状と経緯とが次々に明らかになり、少なくとも彼女は幽霊ながら、地に足がついていた。
しかしそうなってくると今度は、悔しさや悲しみよりも、こんなことをしでかした犯人への憤懣と怨念が胸の内にむらむらと湧き出てきて、どす黒いとぐろを巻き始めた。
許せない。私を殺して、あまつさえその罪から逃れるために、偽装工作までするなんて。
それが誰であろうと、私は金輪際、許す気などない。図らずも幽霊になったのだ。せっかくだから一生祟ってやる。
怒気に任せて歯を強く噛み締める灯。
激しい恨み辛みが、幽霊としての彼女の活力となったらしい。気のせいか、さっきよりも彼女の身体は、より明瞭に鮮明になった。
そうと決まれば、いつまでもこうしてただ突っ立っているわけにもいかない。
まずは家に帰らなければ。
だが、今はすっかり真夜中だ。覚醒してからというもの、混乱に驚愕に絶望に悲嘆。さらには遡行に憤怒と、まさに様々な状態に目まぐるしく遷移していた灯にとっては、時流など既に忘却の彼方。今やっと、辺りが人工的な光の一筋もないような、真っ暗闇に覆われた谷の底で、一人取り残されていることに思い至ったのだった。晴れてはいるのだろうが、空は蜘蛛の巣のように張り巡らされた梢と、それにしがみつくようにして密集している深緑の木の葉で斑模様のように隠されている。
しまった。こんなことなら、泣いてなんかいないで警察と一緒に引き上げておくべきだった。
だが、今更そう悔やんでも、後悔先に立たずである。
急に言い知れぬ孤独感がせり上がってきて、それに圧倒された。
風が吹くたびに、背後でガサリと葉の擦れる音が聞こえ、灯は身を竦ませた。冷や汗がつうと背中を流れる。
今にもどこからか不気味な獣の咆哮でも聞こえて、涎を垂らしたそれが、空腹に耐えかねて藪の中から飛びかかってくる妄想に駆られる。
が、今の彼女は幽霊。
肉体がなければ襲われる心配などない。しかしそう思ったところで、割り切ることができない。人間として持っている本能的な感情は、幽体へと変貌してもなお、理屈などでは到底抑制できないまま。
全く、幽霊の癖して、暗闇の恐ろしさに震えているだなんて。
呆れと気恥ずかしさを覚えながらも、そこから動く気にもなれず、結局灯はここで一晩明かすことにした。
行動を始めるのは、明日、陽が昇ってから。
そう決めて、嫌々ながらも地べたの上に横になったが、ぬちゃぬちゃした泥の感触や、ごつごつした岩角の尖頭の刺激はない。注視してみると、どうやら彼女の身体は、地面から少しばかり浮遊しているようだ。これなら、気持ち悪さもなく、土の上ということも意識せずに眠れるだろう。
実際、彼女はついさっき夕刻頃に目を覚ましたばかりだというのに、目を瞑った途端に再びの睡魔に誘われていったのだった。