第10話 鍵は映像と共に
「全く、訳がわからんよ。すんなり送検できると思ってたのに。桂川の言ってることは急に支離滅裂になるし、アリバイ証人は出てくるし。こりゃもう俺の手には負えんわ」
翌二十七日の日暮れ時、灯と雷馬は再び警察署に赴き、その応接室で松凪警部の捜査報告を聞かされていた。
もっとも、報告していたのは最初のうちだけで、あとは殆ど愚痴のようなもの。灯は辟易して生欠伸を繰り返し、話の七割は受け流していた。
「そうやってすぐ諦めるの、まっちゃんの悪い癖ですよ。刑事なんだから、もっとよく考えないと」
進展することのない不毛な愚痴が繰り広げられることは予想していたのか、雷馬は松凪に注意を向けることなく、テーブルの下に隠したスマートフォンを眺めている。
いいご身分ね、と灯は羨ましくその様子を見つめた。物体を透過してしまう彼女は、もう携帯端末を使うことができない。そればかりか、大好きだった読書さえも、今は他人が読んでいるのを傍から盗み見ることしかできないのである。退屈を紛らわせる方法が、何一つまともにできないもどかしさに、灯は溜息を漏らした。
「松凪さんて、いつもこんな愚痴零してるんですか?」
灯が雷馬に耳打ちすると、彼は黙ったまま小さく頷いた。その動作にすら気付かず、松凪は両手を挙げて、まさしくお手上げのポーズをとった。
「俺はそういうんじゃなくて、足で解決するタイプなんだよ。考え事は性に合わねえ。それにだ、今回ばかりはどう脳味噌捏ねくり回してもわかんねえよ。
監視カメラに映っていた殺人犯、桂川佑を逮捕したっていうのに、証人が出てくるなんてよ。午後三時半に栃木にいたってことは、殺害してすぐにそっちに向かったってことだろ。んで、それから奥多摩まで行くとさらに三時間半で、もうこれで午後七時になっちまう」
腕時計を見ながら、彼は時間を勘定しているようだ。これくらいの計算が暗算できないのを見ると、本当に頭で考えるのが苦手なようである。
「先に死体を棄てに行ったとしたら、奥多摩に着くのが二時頃。そこから栃木のスタンドまで行くと、プラス三時間半で午後五時半。三時半には絶対間に合わない。どうやっても、死体をあそこに捨てに行くなんて、どだい無理な話ってこった。警察として色々なルートを検証してみたが、どう頑張ってもそれより早く移動するのは無理ってもんだぜ」
計算に骨を折っても、最終的には桂川のアリバイを示してしまうだけで、松凪はうんざりしていた。
「それに、桂川には協力してくれそうな関係者もいないですからね。殺害だけして死体遺棄を他の人間に任せた、というわけでもない……。う~ん」
などと思案しているような言い方ではあるが、視線は机の下のスマートフォンから一向離さない雷馬。
松凪は単純に、聞く相手がそこにいればいいだけなようで、不快感を微塵も見せずに応じている。
「ほらな、結局行き詰まっちまうだろ。とにかく、どうやって桂川は死体を奥多摩に棄てたのか、そのトリックがわからないことには、とても送検できないな」
「ところで、桂川のストーカー行動については裏取れたんですか?」
「ああ、それはもうやったよ。牡丹真子の家には、何度も無言電話の類や脅迫文めいた手紙が届いていたらしい」
無言電話。
そういえば――、
と、灯にも心当たりがあった。
普段は携帯の電話しか使わないが、時折母がいない時に、家の電話にも出ることがある。大抵は怪しい勧誘や母の知り合いから。
しかしその中に、確かに何回か無言で切られた気味の悪い電話があった。
間違い電話だろうと解釈していたが、あれが桂川だったということか。
そうとわかっていたら、一言怒鳴っておくべきだった。
灯の腹の虫がまたむしゃくしゃと活発になり始めたが、松凪は無論何も知らずに報告を続ける。
「手紙は証拠品として既に押収してきた。電話については、電話会社の通話記録を調べて、事実だったことも確認したよ」
「そりゃあまた、随分と早いですね」
「まあ、考えるのが苦手な分、そういうところでは本領発揮しないとな。で、これがまた随分偏執な奴でな。携帯も固定も、殆どが牡丹真子への嫌がらせ電話。まあ通話時間はほとんどが十秒程度だったがな。メールなんかもかなりの量だったよ。私は貴女の運命の人だから、もう一度やり直そうとか、気色悪い文章ばかりだったな」
松凪は唇を引き攣らせて、苦々しい顔つきになり、嫌悪感を露わにした。やだやだと顔の前で片手を振る。
しかし相変わらず、雷馬は無表情で画面に食い入っている。
「桂川が電話番号を頻繁に変えていたとかいうことはありませんでしたか?」
「いや、そういう事実はなかったな。何か気になることでもあったか?」
「いえ、残念ながら」
残念という割に、まるで残念感がない。心ここに在らずである。
「そうか……」
松凪はそこでふうと大きく肺を満たしていた二酸化炭素を排出して、背凭れに身体を預けた。そのまま壁の時計にふいと視線を投げる。
すると、急にあたふたとなって、帰り支度をし始めた。
「じゃあ、俺はそろそろ行くわ。他にも色々と案件が溜まってるんだ。そもそも、これは俺のヤマじゃないし、あんまりこのヤマばかりにかまけてる暇はないんだ」
そう言って上着を抱えて、慌ただしく応接室を出て行った。
松凪がいなくなり、気を遣う必要もなくなった雷馬は、スマートフォンをテーブルの上に持って行って、堂々と映像を見始める。と同時に、灯に向かって静かに文句を言った。
「全くもう、どうしてくれるんだよ。桂川をあんな状態にさせちまって……」
「ごめんなさい……」
こればっかりは、自分の責任だと理解していた。怒りに振り回され、思ってもみなかった結果を産出してしまったのである。
灯には、ただ平謝りすることしかできなかった。
「そりゃあね、恨みを晴らしたい気持ちはわかるよ。でもあんなことやられると、捜査にも支障が出るんだ。あれじゃあ、まともな処罰を下すこともできなくなるかもしれないんだぞ?」
幼子に言って聞かせるような、静かではあるが有無を言わせないその口調に、灯は手を前に組んで、只管申し訳なさげに俯くばかり。
「はい……」
「まあ、もうやっちまったことはしゃあないから、この話はこれっきりにしとくけど。頼むから、これからは勝手にこう言うことしないでくれよ」
「わかりました……」
まだぐちぐち言われるだろうと思っていたが、意外にも雷馬はそれですんなりと引き下がった。
スマートフォンの画面に集中しているのか、身じろぎひとつせずに食い入っている。
「それ、さっきから何してるんですか?」
灯がおずおずと尋ねてみると、本当にもう怒っていないらしく、雷馬は平生と同じ調子でスマートフォンを彼女に見せた。
「ああ、これ? あの電気店から貰ってきた犯行日のカメラ映像だよ。桂川がトリックを仕掛けていたんなら、ここに何か映ってたりしないかなと思ってね」
いつの間にやら、自分のスマートフォンにデータを転送していたらしい。てっきりゲームか何かに興じていたものと灯は思っていたが、液晶に映っていたのは、あの日の殺人の光景だった。
丁度、彼女が路地の奥に向かって歩いていく映像が映し出されている。とぼとぼと前のめりに歩くその姿には、どことなく物寂しさのようなものが映っている気がする。
もう灯はそれを見たくなかった。見ているだけで、また桂川への怨みが募ってきてしまう。それに何よりも、自分が痛めつけられている光景など、見たがるような人間はいない。
「で、どうだったの?」
視線を逸らしてそう訊いてみたが、
「これが全く、皆目見当がつかないよ」
うんざりしたような雷馬の返事が返ってくるだけであった。
「名探偵なんて言われる快藤君でも、わからないことなんてあるんだ」
煽ってみたものの、彼は乗ってこない。
「あのね、俺だって人間だから、わからないことなんていっぱいあるよ。全てを見通す千里眼の持ち主ってわけじゃないの」
先日に見た自信家の彼は何処へやら、まるで達観したような口ぶりである。
「ふうん、そんなもんなんだ」
灯はつまらなさそうに雷馬を見下ろした。相変わらず、人殺しの映像を飽きるほど見返している。
しかしどうやら、突破口をそこから見出すことはできないでいるようだ。険しい顔つきは和らぐことがない。
「あのさ、死体の移動の話だけど、桂川って男が、もっと早く移動できるルートを使ったっていうだけなんじゃないの?」
灯は不意に、自分の考えを話してみた。もしかしたら、それが解決の糸口になるかもしれない。
そんな思いからだった。
しかし灯の意見は、雷馬にあっさりと棄却される。
「いや、それはないよ。電車では間違いなく、死体発見現場から栃木のガソリンスタンドまで三時間半かかるし、かといって、バスだともっとかかる。車の場合は、高速を使って三時間半。下道だけだと絶対に間に合わない」
「高速でかっ飛ばせば、もっと早く着くんじゃない?」
「そんなに飛ばしたらオービスに引っ掛かってるはずさ。まっちゃんの話だと、今日の昼間に警察が調べたけど、それも何もなかったらしい」
「あ、じゃあ、ヘリとか」
咄嗟に思いついたアイディアだったが、これは灯には自信があった。
ヘリコプターを使えば、奥多摩から栃木だって、ものの一時間くらいで行き来できるのではないか。
だが、雷馬は無下に否定する。
「そんなの使ったら、余計に悪目立ちするだけだろう。ヘリのチャーターなんてやる人間限られるから、ちょっと調べればすぐに足がつく」
「じゃあ、やっぱり証言が嘘だったとか?」
「それもないだろうな。スタンドの従業員も店主も、桂川なんて男とは、その時に初めて会ったくらいだし。そもそも、殺人の映像が見つかっていて、自分でも犯行を認めていたんだぞ。わざわざこのタイミングで証言させて、死体遺棄の罪だけ逃れようとする。その意味がわからない」
「それなら、殺人と死体を棄てたのは別人ってことじゃないの? 桂川はその罪を両方被っただけで」
「そんな深い関係にある人間が、桂川にはいないんだよ。両親や親戚は殆どが亡くなっている上に、残りの全員は今も彼の故郷である北海道に住んでいる。桂川は都内のマンションに一人暮らしだし、職場でも殆ど他人と関わろうとしてなかったそうで、酒の席なんかに誘っても断るのが常だったそうだ。マンションの人の話だと、近所付き合いもないし、休日は殆ど一人でずっと部屋に篭っているような生活だったらしい。偶に出かけても、せいぜいがコンビニだとかレンタルDVD店に行くくらい。本当に殺人だとか、死体遺棄だとかを協力するような人間なんか、全くいないんだ」
「お金で誰かを雇ったとかは?」
「それなら、どうしてその誰かさんに殺人も任せなかったんだ? せっかく金を使って雇ったのに、遺棄だけ任せるなんて不自然だ。それに金で雇ってたってことは、事前に殺人を計画していたことになる。だとしたら、桂川が路地の監視カメラに気を配ってないのはおかしいじゃないか」
自分の提案してみたアイディアが、ことごとく否定され、灯はすっかり勢いを失ってしまった。
やはり自分には探偵は向いていないか。
でも仕方ないね。推理小説はあまり読まないし。
肩を落として大きく息を吐く。
灯が主に読むのは、明るくてほのぼのとしたファンタジーや、共に泣き笑いながら、成長していく主人公を見守るような冒険小説。それか淡くて爽やかな恋愛小説くらい。彼女の読んだことのあるミステリーと言ったら、せいぜい有名どころの黒峰鏡一の代表作のいくつか。それにしたって、彼女の肌には合わず、途中で読むのを諦めたほどである。
そういえば、確か去年の秋辺りに、黒峰鏡一が殺害されたってニュースをやっていたっけ。
長年のファンだという人たちが号泣しているのが報道されていたのは、灯の記憶にも刻まれていた。
ともかく、そこから灯はもう発想が枯渇してしまい、それ以上の口出しはできなくなってしまった。雷馬も黙り通しで、脇目も振らずにスマートフォンにしがみついている。
そのせいで、どことなく張り詰めた空気が応接室の中に充満してきて、息が詰まりそうだった。
斜陽が窓から差し込み、室内に舞う埃が、マリンスノーのように煌びやかにちらついている。陽光はさらに、二人の顔に現れる陰陽のコントラストを強調した。
こちこちと一秒ごとに、時計が秒針を刻む音がする。その単調さと無感情さが神経を逆撫でさせる。皮膚の中がむずむずしているような居心地の悪さ。
「ここにいてずっと動画見てても埒があかないし、また現場に行ってみたほうがいいんじゃない?」
気分転換もあって、そう促してみると、案外雷馬も乗り気だった。
「う~ん、そうかもな」
やはり彼の捜査も警察と同じく、行き詰まりを見せていたようだ。
「じゃあ早く行こうよ」
灯はさっさとこのぴりぴりした空間から抜け出したく、そそくさと応接室から出ようとした。
自然と早足になり、背筋を伸ばすと踵で地面を強く蹴り出す。
――その時だった。
「そ、そうか、もしかして!」
背後で雷馬がはっとした声を上げたのは。
びくっと痙攣して足を止めた灯が振り返ると、雷馬は灯を見返しながら言った。
「わかった……。わかったかもしれない」
次いで、慌ててスマートフォンの映像を見返し始める。その眼には、明るい兆しが覗いていた。
しかし、灯には何のことやらさっぱりわからない。
「何が?」
不可解な顔で雷馬に近づき、肩越しに画面を見下ろしてみると、彼女が路地を奥へと向かって歩いていくシーンだった。
そこをカラスが横切って、配管の上に止まって一鳴き。前かがみに擦り歩いて、気配に気付かず、背後をすっかり疎かにしている彼女の後ろから、凶器を手にした桂川が近づいていき――、殴殺。
既に何度も見た光景だった。灯には目を瞑ってもその映像を再現することができる。
しかし、そこに雷馬は、いきなり何を見出したのか。
灯にはまるで理解不能だったが、彼は手に入れた鍵にある程度の確信を得ているらしい。
「犯人のトリックだよ。どうやってアリバイを持ちながら死体を奥多摩にまで運んだのか。それがもしかしたらわかったかもしれないんだ」
そう言っていたが、ちょっとぶつぶつと考え込んでいると、今度は急に灯に問い詰め始める。
「君、この日はどんな気分で学校の図書室に向かっていた?」
突拍子もなく訊かれたものだから、灯にはもはや何が何だかわからない。当惑しながらも、雷馬の至極真剣な調子に、息を整え心を落ち着かせ、その時を思い出して答える。
「は? どんなって言われても、別にいつもと同じ感じだったけど」
「普通に歩いていて、それで襲われたんだな?」
「そうだよ。てか、それ以外に何があるわけ」
「じゃあ、後ろで何か物音がしたとか、他に覚えてることないか?」
「特になかったと思うけど……」
雷馬の質問の意図がわからない。しかし彼は灯を置いてきぼりにしたまま、また一人で念仏を唱え始める。
灯が耳を寄せていくと、今度は唐突に声を張り上げた。
「……ってことは、早くしないとまずい!」
お陰で灯の鼓膜がじんと痺れてしまった。
耳を押さえる灯を心配する暇もなく、雷馬は、
「俺はまたあの電気店に行ってくるから、君は家に戻ってて」
などと急に慌て始めて、応接室を飛び出していった。
「電気店……って、何しに行くの?」
そのあとを追いかけ、廊下に飛び出た灯が、疾走する雷馬の背中にそう呼びかけると、彼は顔だけ振り返りながら叫んだ。
「カメラの映像を見せてもらうんだよ。とにかく、急ぎだから、説明は後だ。明日にでも君の家に行って、そこで全部説明する。だから待っててくれ!」
近くを通りかかった署員が、突如誰もいない空間に向かって大声を出した彼に目を丸くしていた。抱きかかえていた書類をばさばさと落っことし、大惨事に発展するというとばっちりを食らっていたが、もはや雷馬は対処する気もなかった。
それ以上何も言わず、振り返りもせず、廊下の角を曲がってその姿を消した。
カメラの映像なら、スマートフォンにもあるじゃない。わざわざ出向いて見直す必要が、どこにあるというのだろう。
残された灯は、雷馬が何に気付いたのか、それを自分でも少し考えてみたが、結局は徒労に終わった。
今の彼女には言われた通り、待っているしか、やれることはない。
明日、きっとすべてが白日の下に晒される。その時が、桂川の終焉だ。
灯はそのまま、自宅へと戻ったが、その日の夜は流石に雷馬のこと、事件のことが気掛かりで、一睡もできる状況ではなかった。




