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第1話 目覚めは混乱と共に

 どうやら、私は死んでしまったらしい。


 *


 辺りの騒がしさに目が醒め、起きてすぐの気怠さに、軽く伸びをして抗っていると、自分を見下ろすいくつもの視線に気付いた。黒っぽいスーツを着た二人の男たちが、寝そべっている彼女の様子を窺いながら、何やらぼそぼそと話している。そればかりか、青い制服に身を包み、濃紺の帽子を被った陰気そうな黒縁眼鏡の男は、あろうことか彼女の寝ている写真を何枚も撮っているではないか。


「ちょっと何、何なんですか!?」


 がばりと起き上がり、声を張り上げる。眠りを妨げられた不快さに、寝顔を撮られた不快さが合わさり、身を退けながら嫌悪感を顔全体で表現したような顰めっ面になった。だが、そこにいる誰一人として、彼女に言葉を返そうともしない。

 それどころか彼女は、更なるおかしなことに気づいてしまった。


 ここ、私の部屋じゃない。っていうか、部屋の中ですらない。周り中、鬱蒼とした草に背の高い木にごつごつした岩。完全に山の中だ。

 それに何、この音。せせらぎみたいな……。


 それで立ち上がって足許を見てみて、彼女は心底びっくりした。

 どうやら彼女は、川の中で寝入っていたらしいのだ。

 ローファーの足首のあたりまで水に浸かっている。しかし不思議なことに、その冷たさをまるで感じない。着ている制服も濡れてはいないし、そもそも、足が水に包まれている、その感触さえも存在していないのだ。靴下がぐっしょりと濡れ、肌に纏わり付く、あの気持ちの悪い感覚さえも。まるで3D映像の中に手を突っ込んでいるような、あんな感じ。

 あまりの非現実さに、まだ彼女は夢の中にいるんじゃないかと錯覚したが、頬を抓っても痛いばかり。この妙な夢からは覚めてくれない。

 すっかり混乱の渦中にいた彼女に、さらに追い討ちをかけるように、黒スーツの片割れが手帳を見ながら淡々と言った。


「パスケースの中の学生証から、遺体の身元が判明しました。牡丹灯ぼたんあかり、都立四谷高校二年生。現住所は東京都――市。死因は頭部外傷による失血死だと思われます」


 黒スーツの放ったその言葉を聞いた瞬間、があんと金槌で頭をぶん殴られたような未曾有のショックを受けた。

 その衝撃に、脳は暫くの間思考を停止し、五感までもが職務を放棄した。全身の感覚が麻痺し、身体の動かし方を忘れてしまったかのように、身じろぎひとつできない。黒スーツの二人の姿はぼんやりとして背景と混じり合い、彼らの話す言葉は意味のないただの雑音に成り果てた。呼吸さえも、もしかすると止まっていたかもしれなかった。

 それは、時間にしたら僅か一分にも満たない短い間だっただろう。

 しかしそのショックは、彼女のようなただの平々凡々な一介の女子高生にとっては、あまりにも大きすぎるものだった。

 ようやく脳が活動を再開しても、彼女の頭中には黒スーツの発した単語が、ぐるぐると旋回を続けるばかりである。


 遺体。頭部外傷、失血死。身元、牡丹灯、四谷高校二年生。


 牡丹灯は私の名前。そして私は四谷高校の二年生。都内に同じ名前の高校は二つとないし、あの高校に私と同姓同名の人物なんていない。つまりこれは、間違いなく、私のことを言っている。

 ――でも、そんなのってありえない。

 現に私は、こうしてここに立って、息をしているじゃないの。

 きっとこれは、何かの悪い冗談。ほら、テレビでもよくあるじゃない。一般人をターゲットにしたドッキリ番組が。

 そうよ。きっとそうに違いない。

 灯は全てを自分に都合の良いように解釈して、自らを奮い立たせた。


「冗談やめてくださいよ。どこから撮影してるんですか?」


 灯は刑事と思しき黒スーツに歩み寄った。早くこの茶番から抜け出したい一心で。

 その声は不自然な程に明るく、しかし小刻みに震えていた。

 だが、彼女の放った言葉は、誰が受け取ることもせず、空気中に拡散して消失した。相も変わらず、彼らのうちの誰一人として、彼女の事を見向きもしない。敢えて見ていない、という様子でもない。その態度は、まるでそこには誰もいないかのように、平然と振舞っているというものだ。

 きっと、彼らは仕掛け人の役者だろう。だから、こんな風に、全く自然に私を無視できるんだ。

 そうだ。流石に身体に触れられたら、無視し続けるわけにもいかないはず。

 彼女がそう思って、刑事の肩に手を掛けようとした、その時だった。


「死亡推定時刻はいつ頃ですか?」


 刑事は灯のそばをすり抜けて、背後へと向かった。


「難しい質問ですねえ。何しろ死体は、この冷水の中に長時間浸かっていたわけですから」


 刑事の質問に答えたのは、さっき彼女の寝顔を撮影していた帽子にメガネの男だ。さしずめ鑑識役というところか。未だに川に向かって何かをカメラに収めているが、彼の身体の陰になって、その何かが彼女の目にはっきりとは映らない。


「そうですか。まあ仕方ないですね」


 さして残念という風でもなく、刑事は無感動的に手帳にメモを認めていく。


「現段階では、およそ半日前くらいとしか言えないですよ。つまり今日、八月二十二日正午の前後数時間といったところです。解剖すればもう少し絞れるでしょうが、まあそうは言っても、正確な導出は期待できそうにないでしょうね。何しろ、この有様なんですから」


 鑑識が身体をどけて、刑事にそれを見せた。

 その瞬間――、灯は再び愕然に突き落とされてしまった。

 死刑台の足元の穴が開き、その禍々しい奈落の底へと延々落下していくような、そんな心象風景が自然と湧き上がる。

 刑事だけでなく、彼女の視界にも、その姿形がはっきりと見て取れたからだ。

 冷水に浸って、さながら長風呂に入った後の指のように、真っ白にぶよぶよとふやけた弾力性のある皮膚。元々色の薄い唇は、血液が抜けきって、毒々しげな青紫になっている。そのお陰で、風貌は平生より一段と醜怪になってしまっているが、あの水にたなびく長い艶やかな黒髪に、母親譲りの細めの眉と右目の下の泣き黒子、少し大きめな瞳。

 それは紛れもなく、鏡の中で見慣れた自分自身の顔に他ならなかったのだ。


 嘘。こんなの嘘。嘘嘘嘘。


 灯は口元を抑えて、狂った機械人形のように首を横に振り続けた。


 あれは私そっくりに精巧に作られた、趣味が悪くて質の悪い人形だ。そうに違いない。

 だってそうじゃない。あそこに倒れているのが私だとしたら、今ここに立っている私は何だっていうの?


「格好から見るに、おそらくあの山道を登っている最中に、足を滑らしたかして転落し、川へと落下。頭を岩か何かに打ち付けて、死亡した。というところだろう」


 刑事の一人が、崖上を指差した。この谷底からでは角度的に見えないが、そこに道があるのだろう。


「でしょうね。今のところは事故の可能性が高いです」


「まあ、この辺りではさして珍しいことではないがな」


 水分を含んで膨張した灯の醜い肢体を見下ろしながら、刑事たちは抑揚もなくそんなことを言っている。まるでテレビ画面を通して見ているかのように、そこには感情が込もっておらず、あまりにも他人事めいていた。というより、どこか面白くなさそうにも見える。殺人ならともかく、ただの事故なら早々に引き上げたい、とでも言いたげに。

 彼女はいよいよ堪らず、刑事の一人に大声で叫びながら、肩を叩いた。


「いい加減にその趣味の悪い冗談をやめてください! 本気で訴え……ます……よ……」


 しかしその声は、途中から完全に勢いを欠き、後には喉から発しているのか、心の中で発しているのかさえも、灯にはわからなくなってしまった。

 なぜなら刑事の肩を捉えたはずの自分の右手には、驚くほど何の手応えもなかったのだから。まるで霧に投影された映像へ手を突っ込んだように、彼女の右手はするりと彼の肩口を通り抜けてしまっていた。刑事はそのことに気付きもしない。未だに鑑識と何やら話し込んでいるが、それはもう彼女の耳には届いていなかった。

 い、今のはただの幻覚。私は確かに生きている。

 それを確かめたいがために、焦燥に駆られながら、灯は四方八方に無我夢中で腕を回した。

 しかし、それは虚しくも、刑事の身体をするりと貫通するだけ。どれだけ勢いよく触れようと思っても、彼女の指先は彼らの実像に届かなかった。無論、写真を撮っている鑑識にも、周りの警備を固めている制服警官にも、同様の試みを行った。だがそれも、必死になる彼女を嘲笑うかのように、無駄足に終わっただけだった。

 皮肉なことに、この不可思議な一連の出来事を悪夢やドッキリだと証明しようとすればするほど、今の彼女の置かれた状況は、図らずもある一点へと収束していってしまう。揺るぎないその一点へと。


 私――、私、本当に、死んだの?


 信じたくないその現実を、既に灯は心のどこかで認め始めていた。そうでなければ、この異常な現象には説明がつけられない。

 しかしそうかと言って、自己の死という存在の否定ともいうべき事柄を、ああ、私死んじゃったのかあ、などとおいそれと受け入れられるものでもなかった。

 警察が彼女の死体と共にぞろぞろと撤収し始めても、灯は未だに呆然としたまま、そこで立ち竦んでいた。

 ほとんど放心状態に違いなかった。

 これまでのことが、不意に頭の中を駆け巡り始める。

 これが走馬灯というものか。

 想起しようと努力せずとも、勝手に脳内で再生される自分の半生。

 幼稚園の頃の記憶。小学生の頃の記憶。中学生の頃の記憶。そして、今いる高校の記憶。

 少ないながらも友達と共有した、あの楽しかった時間。昨日のテレビ番組の内容だとか、恋バナだとか、何のとりとめもないような、くだらない話ではしゃぎあっていた光景が、眼前に現れては尾を引きながら消失した。

 そして何より、母親のことが何度も何度も浮かんだ。


 物心つく前にお父さんが死に、それからずっと一人で育ててくれたお母さん。仕事で忙しくて、家にはいないことが多かった。それでも、たまの休みは自分の休息を投げ打って、私に付き合ってくれていたっけ。

 私が死んだこと、お母さんはもう知ってるんだろうか。未だ知らなくとも、いずれ警察から連絡が行くはず。そしたらお母さん、きっと悲しむだろうな。もしかしたら、また精神的にやられてしまうかもしれない。お父さんの時にもそうだったように。


 空虚だった灯の心は、じわじわとセンチメンタルに占領されていく。熱いものが込み上げてきていた。膝が微かに震える。

 眦に力を込めて、空を見上げる。もう陽は沈んだらしいが、未だに燃えるような紅が空を染めていた。その哀愁を帯びた色が、余計に灯を感傷的にさせる。


 私、お母さんより早く死んじゃったんだね。こんな親不孝者で、ごめん。ごめんなさい、お母さん。


 目尻から垂れた生暖かな雫が頬を伝った。一滴流れ出始めると、まるで堰を切ったように、ぶわっと止め処なく塩水が溢れ出てくる。それが唇の中にまで入ってきて、舌に塩辛い刺激が伝わった。

 気づけば灯は、空が黒くなり、点々と星が輝き出すまで、その場で嗚咽を上げて駄々児のように泣きじゃくっていた。

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