9.大変です。
最悪だ。
発注書類を大量に処理していて、一枚だけ……ミスをした。
『0』が一個多かった。お陰で営業課は大量の行先のない在庫を抱える事に……。
亀田課長の怒号が響いた後、課内が鎮まった。
周りの人間はシーンと息を詰めて気配を殺している。
課長は一度怒って、私が頭を下げて反省を示すのを見ると―――その後は何事も無いように、別の仕事の話に切り替えいつも通りのコワモテで淡々と書類の修正指示や、新しい資料の作成について私に説明した。
でも頭に全然入って来ない。
私のミスで営業課に多大な迷惑を掛けてしまった。
派遣社員なのに。書類づくりの実力で雇われたのに。
課長にガツンと怒られた所を見た課の人達が同情の目を向け、優しく接してくれるのが痛い。もっと詰って欲しい……うう、針のむしろってこういう事?初めて実感したよ。
『おおざっぱなO型だから』なんて言い訳していた自分を殴ってやりたい。
ちょっと見直せば良かったのに。朝提出する前に、再度見直していれば直した後差し替えた筈の書類が古い物だって気が付いたのに。
昼休みの休憩時間、弁当に箸を付けようとして―――蓋を閉めた。
食欲が湧かない。
だけどお弁当を食べないでボーっと席に座っていたら、怪し過ぎる。気を使って慰めの言葉なんか掛けられたら、もっといたたまれない。ミスした上に同情まで得ようとしているみたいで厚かましい感じがして……なんかヤダ。
私はトボトボと廊下の端にある自販機前の休憩コーナーまで足を運んだ。
おあつらえ向きに人がいなくて、ホッと胸を撫で下ろす。そのままストンとベンチに腰を下ろして、ボーっと足を投げ出した。床をボンヤリと眺めていると、視界に黒い靴の先が現れた。
恐る恐る顔を上げると―――目の前には亀田課長が。
温度の無い表情で私を見下ろしている。
説教の続きかしら。
落ち込み過ぎて投げやりになってしまったのか、声も発せず彼を見上げていると「コーヒーと紅茶、どっちがいい」と聞かれた。「え?」思わず聞き返すと「コーヒーで良いか」と念を押されコクリと思わず頷いてしまう。
ガコンと、自販機から音がして、背の高い亀田課長が膝を折って取り出し口からコーヒーを二つ取り出した。無表情の銀縁眼鏡から目の前に差し出されたコーヒーを受け取ると……冷たかった。その冷たさで冷静さがやっとぶり返す。
「有難うございます。……あの、課長」
「ん?」
「すみません、私のミスで課の皆さまにご迷惑を……」
「ああ」
亀田課長はプシッとプルタブを起こして、私の隣に一人分の距離を取って腰掛けた。一口飲んで、前をまっすぐ見たまま缶を下ろす。私は気まずくて視線を俯かせた。また課長の靴の先だけが目に入る。
「それはもう終わった話だろ」
確かに課長は怒鳴った後、引き摺る様子を見せなったけど―――大変なのはこれからなのでは。
「でも……」
「俺も新人の頃、お前と同じミスをした」
「え?」
「しかもお前のミスった商品の二倍の単価のヤツ」
「げ……」
思わず俯き加減になってしまった顔を上げて、隣に座る怖いくらい整った瞳を覗き込む。
あり得ない。ミスなんか無縁に見える課長が?私と同じミスを?
「俺も落ち込んだ。でも樋口さんと、その時の上司が結構苦労して尻拭いしてくれたんだ。二度とやるなよって言ってくれて。で、恩返ししたいって思うなら、お前も部下がミスした時尻拭いしてやれって言われた」
「……」
「だからお前はもうこの事を気に病む必要は無い。お前が気にしなきゃならないのは―――次にどうやったら同じミスを防げるのかって事だ。それと仲間がミスした時、ちゃんとフォローして恩返しする事」
「……はい……」
「落ち着いたら、戻って来いよ。休憩時間過ぎても有休出せなんて今日は言わないから」
笑いを含んだ声でそう言って、頭をポンっと叩かれた。
それから立ち上がる気配がして、私は自分の膝の上に両手で包み込んだコーヒー缶を見つめる事しか出来なかった。ぽたりぽたりと涙が缶に当たって……自分が泣いているのだと漸く気が付いたのだった。




