2.出会いました。
久し振りに早く帰れたある日、ふと駅ビルのフロアマップに目を向けるとペットショップが入っているのに気が付いた。
『犬でも飼えば?』
篠岡の言葉に触発されたのかもしれない。俺はそのままフラフラとエスカレーターに足を向けていた。
ガラスケースでできたマンションみたいな場所に、茶色いのや黒いのや、クルクルした毛の子犬が収まっている。面倒臭そうにお腹を出して寝ているのもあれば、目いっぱい愛想振りまいて尻尾を千切れんばかりに振っているのや、大人しくこちらを見て鼻をヒクヒクさせているのや、色々だ。
何となくオランダの『飾り窓』を思い浮かべてしまう。
オランダでは売春は合法なんだっけ。しかし徐々に営業できる区域が縮小されていると聞いた事がある。そのうちこういうペットショップも動物愛護の関係で縮小したりして。と冷静に考える。
独身男が犬を飼ったら終わり、と誰かが言っていた事を思い出す。
犬ねぇ、犬……篠岡が言っていたとおり、犬と触れ合ってストレスが軽減されるなら、女性と付き合う気にならなくなってしまう気持ちも分からないでもない。女性はご機嫌を取らなければ去ってしまうが、飼い犬には逃げ場がない。条件の良い飼い主を求めて目移りしたり、飼い主に愛想を尽かして去ったりしない。
『一方通行は疲れるの、愛するより愛される人を選ぶわ』
『嫉妬もしないなんて、私の事好きじゃ無いのね』
『私より仕事の方が好きなんでしょ』
と言って相手に一太刀でも浴びせて鬱憤を晴らそうなんて考えないだろう。口のきけない動物相手はそりゃあ気楽だろうな、裏切られる事も、点数を付けられて落ち込む事も無い。
これまで付き合って来た相手には俺なりに好意を示していたつもりだったが―――どうやら全く足りなかったらしい。付き合う相手は皆不満を抱いて離れていく。自分は傷ついたと喚いて時には泣いてみせたりもするが、俺が傷ついているとは全く考えていない。大抵彼女達は次の相手らしき者を確保して、俺を悪者にして去っていく。
きっと俺には結婚なんか一生無理なんだ。
結婚したとしても、『思いやりが無い』『仕事ばかりして』と詰られるに違いない。あっちもこっちも要領良く立ち回れない俺には仕事と家庭の両立なんて芸当、できっこない。
もういっそ、本当に犬でも飼った方がいいのかもしれない。
なんて自棄になって考える。
しかし散歩がなぁ……犬を朝晩連れて散歩する時間なんて無い。自分の睡眠時間さえ危ういと言うのに。―――となると、猫か?
本気半分、冗談半分でフラフラ猫ブースへ移動する。何より心が疲弊していて正常な判断力が失われていたように思う。
猫のブースを見る。パタンパタンと尻尾が動く様子を目で追う。オモチャに飛びつく仔猫、元気が良い。バリバリと段ボールのような物で爪を研いでいる。
あー、ダメだな。壁紙ビリビリにされそう。
まあペットなんか飼えるわきゃ無いよな。
ただでさえ忙しいのに。
周りを見るとスーツ姿のサラリーマンは俺一人。
何をとち狂ってるんだ、と自嘲気味に頭を振る。
疲れてるんだな、篠岡の冗談に唆されてペットショップに足を運ぶくらいには。
そう思いスタスタとその場所を立ち去ろうとした時、ケージの中にあった黒い毛皮の塊みたいな物がむっくりと起き上がったのが目に入った。
何となく―――目が合ってしまう。
それは黒いつぶらな瞳で俺をジッと見上げていた。
何故か目を離す事が出来ずに、俺はケージの前に進み出る。
指を差し出すと、ヒクヒクと鼻を近づけ匂いを嗅ごうとした。
「今その子、とってもお買い得なんですよ」
店員がタイミングよく踏み込んで来る。
値札を見ると『大特価 6,980円→2,980円!』と手書きで書かれている。他のウサギと比べると随分安い。
「安すぎませんか?」
「少し大人になりかけなので。あとミックスですから」
「ミックス?」
「掛け合わせ―――雑種って事です」
ここで売り切ってしまいたい、と言う事か。
周りを見ると子ウサギばかりだった。きっと大人のウサギを飼いたいと言う客は殆どいないのだろう。じゃあこの子が育ちきったらどうなってしまうのだろうか。
分かってる、この子を買ったからって何かが変わる訳じゃ無い。ケージに新しい子ウサギが収められ、売れなければこの子のように値札を変えてセール品として売られるだけだ。
しかし俺は既に、黒い瞳から―――ヒクヒクする鼻から目が離せなくなってしまった。
いつの間にか勝手に口が動いていた。
「この子、買います」
こうして俺はその日、意図せずしてそのウサギの飼い主になってしまったのだった。