39.見送ります。
一分の隙も無くスーツを纏い髪型を整えた丈さん。その出で立ちはもうすっかりいつもの『亀田部長』だ。
カッチリ仕事モードに変身した彼を目にすると『丈さん、カッコいい~!』なんて、普段の私なら内心惚れ直したり身悶えているところだけれど……今は仕事着の丈さんを遠く感じてしまう。さっきまでの無防備な丈さんの方がずっと良い! だってあの丈さんは確実に全部、私の『丈さん』だから。
玄関に向かう丈さんの後から付いて行く。いつもは笑顔で送り出せるのに―――今日はそんな些細なことさえ、ちゃんと出来ないような気がする。
革靴を履く丈さんの背中に何か言わなきゃ、と思いつつも躊躇っていると、靴を履き終わったばかりの彼が体を伸ばしてこちらを振り向いた。
「行ってらっしゃ……」
顔を上げて言い掛けた所で言葉が塞がれた。
丈さんのスーツの胸に、顔を押し付けるようにギュッと抱き締められていたのだ。
「本当に仕事だから」
抱き締められている、スーツ越しに胸の奥から直接響いて来る低い声。
胸の奥がキュウッと苦しくなった。
「浮気なんかじゃない」
「……!……」
心の奥を読まれたような台詞に、言葉を失ってしまう。応えられないままの私に、丈さんは噛んで含めるように、こう付け足した。
「今日一旦、仕事にカタがつく筈だ。終わったら、ちゃんと説明するから」
そこで初めて思考が動いた。……そんなに私って表情が読み易いのだろうか?
仕事ならともかく、普段からこういう恋愛がらみのことには鈍過ぎる丈さん。彼から、こんな風に私が浮気を心配している、などと言い当てられるなんて、と改めて驚いてしまったのだ。浮気を疑ったり嫉妬したりしてみたけれど―――つまり本当の深い所で、丈さんがそう言うことが出来る人だって、私はやっぱり考えてはいなかったのだ。
動揺したけれども、心のどこかで腑に落ちる。
そうか、そうだよね。
「うん。あの……分かってる、よ」
胸の奥から響く、丈さんの声を聴いて。ストンと何かが嵌る音がしたのだ。抱き締められる腕の力で、彼の声の響きで……理由は上手く言えないけれど、そんなことで合点が行ってしまった。
大きな背中に手を回すと、応えるようにギュッと私に回った腕に力が込められる。それからつむじに温かいものが押し付けられた。キスされたのかな、と思う。それからゆっくりと腕が解かれて、体が離れる。
今度はしっかりと、向き合って丈さんを見上げた。私を見下ろす彼の顔。その瞳に温かさを見つけて、ホッと肩の力が抜けるのを感じる。
だからちゃんと、しっかり送り出そう。
「行ってらっしゃい」
「行って来る」
丈さんが出て行った後の玄関扉を見ながら、改めて自分に確認する。
うん。私は『疑っては』いない。
『心配では』……あったけど。
でも本当は―――直ぐに丈さんと会って話せれば、ちょっとギュッとして貰って愛情を確認できれば、それだけで済むような話だったんだ。だからこんな、短い些細な遣り取りで気が済んでしまう。
もちろん、ちゃんと理由は後で確認するつもりだ。でも実際問題、ひとつも解決していることなど何もないのに、現金なことにモヤモヤはすっかり私の胸の中から消し飛んでしまっている。
つまり私は―――ただ単に『寂しかった』と言うこと?
丈さんに対して気に入らないことがあって。言い訳もしてくれない、飛んで来てもくれない。例え仕事があったって電話するとか、何か手段はあるでしょう?―――と、私を一番にしてくれない彼に、拗ねていたんだ。大事にされていることを知っているのに、構ってくれないことにイライラして。自分からは正面切って何か言う勇気はないくせに。
改めて残念に思う。
私って、相変わらず考え方がまるでコドモだ……!
はぁあ……これじゃあ『大人の女になる!』なんて、まだまだ先の夢物語だよ。
少し短めですが、キリの良いところで収めました。
卯月視点は次話で最後になります。(…の、予定です)




