春風と共に
「それでね、崇史君がね」
「はいはい」
通学路ではチラホラと気の早い桜の蕾が顔を覗かせている。肌に突き刺さるような寒さは遠のき、吐く息ももう白く染まる事はない。もうすっかり季節は春一色だ。
「…もう、悠ってば!ちゃんと聞いてるの?」
「へいへい」
「もう!」
胡桃はこちらの態度に怒り心頭のようだ。地団太を踏む様子からは、とても高校生だとは思えない。もしこの場に精神年齢計測器なんてものがあれば、今すぐテストしたくなる位には痛々し…もとい、愛らしい。
「惚気なんてマトモに聞いてられるか」
「の、のろけじゃないもん!」
「どこがだよ」
というか佐伯の下の名前って崇史だったのか。今初めて知ったわ。多分明日には忘れてるけど。
「明日から春休みだね!ねえ、悠。いーっぱいいーっぱい遊ぼうね?」
「ほいほい」
「ちゃんと返事する!」
「はーい」
欠伸を噛み殺しながらヒラヒラと手を振って答えた。歩道の真ん中でエキサイトしている胡桃は、現在進行系で通行人の邪魔をしている。僅かながら私の中にも羞恥心が残っていたので、興奮している様子の胡桃と少し距離をあけて他人の振りをした。
「む、無視しちゃ嫌よ?泣くわよ?」
「ちっ…ほら、さっさと帰るよ」
数メートル距離をあけただけなのに目敏く気付き、涙目になりながら胡桃が縋ってきた。仕方なく腕に引っ付かれるのを許す。
それにしても今日は天気が良い。春らしく穏やかな空気で、お別れするにはピッタリだ。
「胡桃」
「なあに?」
「幸せ?」
胡桃は唐突な問いにキョトンと目を丸くして、一瞬後に満面の笑みを零す。
「しあわせよ!」
ふわりと春風が吹いて胡桃の長い髪を揺らす。虚ろな影はもう何処にも見当たらず、ただただ恋に浮き立つ乙女の姿を見せていた。光り輝く程に美しい美少女にピッタリの微笑みだ。うん、やっぱり女の子は笑ってる方が可愛いな。どうせこの美しい笑顔も、すぐに忘れてしまうんだろうけど。
「そう」
「…悠は?幸せ?」
さあ、と曖昧に言葉を濁した。死人の幸せなんて、安らかに眠る事位じゃなかろうか。もはや永遠に叶いはしないが。
「んじゃ、バイバイ胡桃」
「…うん」
そうこうしている内に私のマンションに辿り着く。胡桃はどこか名残惜しそうな素振りを見せていたが、何も言わずに立ち去ろうとする。
その背中を、じっと見つめていた。
「…幸せ、か」
恋とはそんなに素晴らしいものなのだろうか。たとえ最悪の結末を迎えるとしても、溺れる価値のあるものなのだろうか。
ぼんやり考えている内に気づくと真横に黒い扉が現れていた。溜息を一つ零すとそのまま扉を開ける。さよなら、お姫様。いつか悪魔の腹に収まるその日まで、末永くお幸せに。




