ノイズ
一日も終わり間近だ。とっくに日は暮れており、眼下では人工的な光が瞬いている。ビルの屋上はなかなかに風が強くて、さっきから煙草に火がつかなくてどうにも苦戦していた。
缶コーヒー片手に一服していると、コートのポケットの中で携帯電話が鈍く振動した。
「…もしもし?」
『ハローキティ!ご機嫌いかが?』
「ハローマスター。着信が鳴るまではなかなかにご機嫌だったかな」
機械越しの音声は相変わらず愉しそうだ。こちらの地を這うようなローテンションはお構いなしに、悪魔は会話を続ける。
『キティ、まだ帰ってこないのかい?僕はキティ不足で死んじゃいそうだよ!』
「よしわかった、死んだら教えてくれ帰るから」
『ひどい!』
深く煙を吸って、また吐き出す。それだけで頭の中身が少しスッキリする気がする。ニコチンだろうがアルコールだろうが、もう全く影響のない身体だがプラシーボ的な何かだろう。
『…なんだか、いつも以上にご機嫌ナナメだねえ、キティ。もしかして君、生理?』
「え、セクハラ?ないわー」
『生理が来たら僕に教えてね!キティにそっくりの可愛い可愛い赤ちゃん、とーっても見てみたいから!』
「サラッと恐ろしい事言わないでねマスター」
百歩譲って人間相手ならまだしも、万が一この悪魔との子供の場合は十中八九私の腹を引き裂いて産まれてくるだろう。…しまった、嫌がった方が喜ぶんだったコイツ。気紛れで孕ませられちゃ堪らない。急いで話を逸らす事にする。
「マスター」
『なんだい?』
「最近ちょっと仕事に飽きてきたんだけど、どうしたらいいと思う?やっぱりここは転職かな?」
『えー』
不満げな声を出されても困る。毎回同じ展開の繰り返しだと、いくら感情の薄っぺらな死人でも流石に飽きてくる。ワンパターンの繰り返しなんて数回やれば十分。レベル上げは嫌いじゃないが、同じゲームを何周もしてるこちらの身にもなれという話だ。なんせ、
?
あれ
『…キティ?』
おかしい。
おか、しい?
何か、がおかしい。
頭の中で虫の羽音のような音がする。
ブブブ、ブブブと不快な音が脳みそにこびり付いていて一向に頭から剥がれない。
「…な、あ。マスター」
『どうしたんだい、キティ?』
「この、仕事、ってさあ。なん、かいめの仕、事だっけ?」
羽音が頭に鳴り響く。返答はない。
おかしい。おかしい。おかしい。おかしい。おかしい。
悪魔と契約を交わした事は覚えている。そこから仕事に携わり出したのも記憶している。だが、それ以降が一向に思い出せない。
確かに過ごした時間があった筈なのに、飽きるくらい同じ展開を知っている筈なのに、詳しく思い出そうとすると頭の中で雑音が走ってまともに考えていられない。
グラリと視界が揺れた直後に悪魔から返答が返ってくる。
『…うーん、8624637回だったかなあ?6993102回だったかなあ?ごめんごめん!ちゃんと数えてなかったよ!』
「え」
『キティが覚えてないのも無理はないねえ。時間が止まっている場所と動いてる場所を何度も行き来してるから、記憶が混濁するのも当然だ』
「…マジ、か。そんなに働いて、たのか私」
『僕の辞書に労働基準法なんて言葉はない!』
「悪魔か」
『その通り!』
「そう、だった…」
揺れる視界に耐えきれず、その場に座り込む。気持ち悪い、なんて感覚は随分と久しぶりだ。
『あんまり深く考えない方がいいよ?君が記憶の齟齬に狂っちゃわないように、あえて頭を鈍らせてるんだから』
「さ、きに…言ってくれよ…」
『てへ☆ごめんね!』
「し、ね」
頭を何度か横に振って、どうにか思考を振り払う。考えたら負け、というやつだ。靄がかかった記憶を追いかけたところで、待つのは発狂、ということさえわかれば十分だ。
『キティ、お疲れみたいだねえ。今の仕事が終わったら暫く休んでてもいいよ?』
「そりゃ、どーも」
吹きすさぶ風は冷たい。寒さは感じないが、今はひどく暖まりたい気分だった。双眼鏡を鞄に仕舞い吸殻を踵で踏み潰すと、空の缶コーヒーを放り投げ屋上を後にした。
ビルの下では見知ったカップルがいちゃついていたが、知った事か。今日のお仕事は終了だ。




