愛し愛しといふ心
火の勢いは凄まじく、屋敷の崩れる音が聞こえてくる。
もう少しすれば、この部屋も崩れて燃え尽きるだろう。
床は既に火の海と化しているのに、どういう訳か燃えやすいであろう寝台にはまるで火が移る様子がない。
巫女達が立ち去り、後に残るは狐と狐に抱かれた女の骸のみ。
轟轟と火の燃え盛る音だけが響くなか、ふいに動かぬ筈の骸が口を開く。
「…もう魅了は解けているだろう?何故まだ此処に居る?…ああ、そっか、そういや散々お前を顎で使っていたな。最後に意趣返しでもするつもりか?」
「…いいえ」
では何故、と骸が視線で問う。
狐は表情を動かさぬまま口を開いた。
「蓮華様と心中したく」
「はい?」
予想外の答えに骸の声が裏返る。
「え、いや、魅了、解けてんだよね?手違いでまだかかったままとかじゃないよね?」
「はい。先程まであった胸の高鳴りは幻のように消え失せております」
全くもって理屈が通らない話だ。
もはや既に消え失せた偽りの想い人と心中がしたいなど。
「もう好きじゃないのに?」
「はい」
「好きになったのも魅了効果で操られただけなのに?」
「はい」
「…『蓮華』なんて、名前も性格も全部造られた偽物なのに?」
「はい」
それでも、
「たとえ偽物でも、確かに私は蓮華様と共にあれて幸せでした」
失った偽りの恋心をまるで宝物のように狐は謳う。
「ずっとずっと長い間、私は感情を知らぬまま生きてきました」
数多の妖怪、数多の人間を屠り喰らい踏み躙った大妖怪が笑う。
「生まれて初めて、私は喜びを知ったのです」
「その喜びを教えて下さった蓮華様がもういらっしゃらないのであれば、どうして私に生きる意味がありましょう?」
何千年もの間、ただ無為に生きてきた化け狐が笑う。
人を慕う喜びを、人を妬む憎しみを、人を恋う寂しさを、人を憂う慈しみを。
そしてそれら全ての感情を感じられる幸福を、どれだけ尊いものだと感じたのか。
たとえ全てが偽りの、儚い幻だとしても。
その恋心には殉じる価値がある、と狐は静かに微笑んだ。
「…そう。好きにすれば」
「はい」
骸は狐の独白を無言で噛み締め、何かに耐えるような表情で視線を逸らした。
狐はただ、微笑んでいた。
「…ああ、残念。朔夜の願い、叶えてやっても良かったんだけどな」
炎の中に音も立てず前触れなく室内に黒い扉が現れた。
ゴシック調のデザインでなんとも重苦しい雰囲気を漂わせている。
「まあ、正確には私は『蓮華』の残骸のようなもので、本人じゃないしな。悪いが、お前の思い出の中の『蓮華』と仲良く心中してくれ」
スルリと一番上に羽織っていた紅の着物を狐に投げて寄越すと、骸は立ち上がり扉へと歩み寄った。
骸がドアノブに手を掛け、扉を開けようとする寸前にふいに狐が問い掛ける。
「最期に、貴女の名前をお伺いしてもよろしいですか?」
骸は口を開いたものの、言葉を発する前に口を噤み、振り返らずに首を横に振った。
「…申し訳ありません。出すぎた真似を」
「…誰でもない誰かの名前なんて記憶する必要ないよ。お前はただ、たった一人だけを想っていればいい」
「仰せのままに」
それ以上の言葉を重ねる事はなく、骸は扉の向こうへと姿を消した。
狐は座したまま深く礼をし、扉が消えるとゆっくりと頭を上げた。
そのまま着物を抱き締め、寝台に施していた術式を解くと狐は静かに炎の海に溶けていった。




