10
空港は多くの人波が行き交い、複数のアナウンスが流れ、ガヤガヤと騒がしい空気だった。
ビジネスマンや海外への旅行者、外国人などが溢れ、国内から出たことのない俺からすればそれは新鮮な光景だった。
というか、恥ずかしい話し、飛行機に乗ったこともなかったので、滑走路で待機する飛行機を見て少なからず感動を覚えた。
あれだけ大きな鉄の塊が実際に飛ぶというのは、かなり現実感がないように思えた。非科学的なものは信じないと言っておきながら、科学的なものまで信じられないとなれば、俺はこの世の中の何を信じて生きていけばいいのだろうか。
そんなくだらないことを、空港のロビーから外を眺めてはぼんやりと考えていた。軽い逃避なのかも知れない。本気で考え込んでいるわけじゃなく、ただ、何か別のことを考えることで紛らわせているだけに過ぎなかった。
――先ほど、メリーの母方の祖父に初めて会った。
話しには聞いていたが、日本語がほとんど分からないらしく、会話は通訳と弁護士を通してだった。
しかし、なんというか、よく分からない爺さんだった。
寡黙なように見えるが、時折子供のように笑うナイスミドルといった感じで、かなり若く見え、年齢は不詳だ。しかし、その笑顔に、どことなくメリーの母親の面影がある気がした。
実のところ、メリーの母親は家出同然で祖国の家を飛び出したらしく、それ以来ずっと一度も会うことはなかったらしい。たまに送られてくる手紙が、唯一娘との繋がりだったとのことだった。
そして、驚くことに、自分の娘、メリーの母親が亡くなったことを知ったのはつい先日のことらしい。
今回の件で、メリーの母親の身元を警察が調べ連絡が入り、事の顛末を聞き初めて知ったというのだ。
その話しを俺が通訳から聞いているとき、メリーの祖父は寂しそうな、後悔しているような、何とも言えない顔をしていた。
メリーと同じ藍色の瞳が遠くを見つめ、俯いて深いため息を吐いていた。
メリーと同じように、明るく、天真爛漫だったその母親のことを思い出す。俺にも、いつだって優しくしてくれた。メリーに手を焼かせている俺を見て笑っていた。いつもありがとうと、幼い俺にも丁寧にお礼をしていた、メリーの母親。
十数年会っていない一人娘を亡くしたこの老人の心中は、俺なんかには想像も付かなかった。
話しによると、あの墓地へも訪れ、花を添えてきたらしい。
俺は話しを聞いたあとは、どんな顔をしていいか分からず、ジッとメリーの祖父を見つめてしまった。
そんな俺の気持ちを察したのか、目が合うと気遣うように屈託なく笑った。
メリーのことは手紙で知っていたらしく、今回の話を聞いて、すぐに日本へ来ると、引き取ることに尽力を尽してくれたそうだ。
外国籍の後見人問題はかなり面倒な問題があったらしいが、そこは今目の前にいる顧問の弁護士が手を回したらしい。莫大な遺産については、国内の金融機関に信託されるということで当面はケリが付いたと聞いた。
出会って僅かな時間しか経っていないが、メリーはよく祖父に懐いており、俺はそれが何よりもの救いだった。
メリーの祖父は、今回の件のことで俺に何度も頭を下げた。
若輩の俺に老紳士が深々と頭を下げる様は居心地が悪く、その度に俺は恐縮してしまった。しかし、その真剣な姿勢からは、たとえ通訳がなくとも誠意が伝わってきた。
同じように見送りに来ていた家政婦が、その光景を見ていたのか、メリーの祖父が俺から離れた後に悪態を突いてきた。
「またそうやってすぐに人を信じるんですね」
いつの間にか側へと立ち、俺の顔も見ずにそう吐き捨てる。
「アンタだって、あの人が悪い人じゃないって思ったから反対しなかったんじゃないのか?」
「あなたと一緒にしないで下さい。私は、お嬢様のお爺様と膝を突き合わせ、一昼夜話しこんだ上で判断したまでです」
「一昼夜ってあんた……」
この女なら本当にやりそうだと、俺は通訳とメリーの爺さんが気の毒になった。
あの、俺も通された立派な応接室で、爺さんと通訳が何時間も淡々と詰問されている姿が目に浮かぶ。
「しかし、確かに信用に足る人物ではありそうです」
「ずいぶんと上からだな。あんたとても同じ年とは思えないぞ」
「あら、そうでしょうか。今日などは、年相応の格好をしてきたつもりですが」
そう言われて、改めてその姿を見ると、確かに以前見た和メイドのような格好や白装束と違い、鮮やかなフレアスカートとブラウス姿で、垢ぬけたように見える。
もともとビジュアルはかなりのものなので、道行く人が時折振り返るぐらいには目立っていた。いや、その他にもメリーやメリーの祖父など、他にも目立つ要素のある集団ではあるのだが。
しかし、俺はこの女の中身を知っているし、相変わらずの仏頂面はそのままなので、印象はそう変わることはなかった。
ただ、俺が、『確かに似合ってると思うよ』と言うと、家政婦は少しだけ機嫌を良くしたような素振りを見せた。
「ありがとうございます」
そう、端的に礼を述べると、そのままメリーの方へと歩いていき、その足取りは軽いように見えた。彼女の中でも、何か変化が起きているのかも知れない。おそらく、良い方へと。
少し離れた場所で、メリーや家政婦、メリーの祖父と通訳などが談笑している。
俺は、いまいちその輪に入ることが出来ず、こうして窓の外を眺めながら、時折その輪の方へと視線を投げた。
……メリーは、よく笑っている。
俺といるときと、同じ笑顔だった。
俺は、それを見て心底安心しながらも、少しだけ、本当に少しだけ、寂しさのようなものも感じていた。
俺に出来ることはもうないのだなと、俺はあの子にはもう必要ないのだなと、そう、身勝手でおこがましい考えを抱いていた。
メリーにとって、迎えに来た祖父と、母親の祖国で待つ祖母と暮らすことは良いことなのだろう。見た目も母親似のメリーはきっとあっちの方が馴染むだろうし、嫌な思い出ばかりのこの国にいるよりは、新しいスタートを切りやすいはずだ。それは十分に分かる。
ただ、俺はまだ整理を付けられないでいた。
自分が何をしたいのかは分からない。
もしかしたら、偽善的で自己満足な親切の押し売りをしたいだけなのかも知れない。
それでも、まだ何かを伝え切れていないような、何かをやり残したような気がしていた。
まだ、何か、出来ることがあるのではないかと思っていた。
まだ、メリー自身が何かを望んでいるのではないかと思った。
何故なら、あいつはいつも笑っていたから。
笑ってしかいなかったから。
――しかし、そんなことを考えているうちに、搭乗の時間はやってきた。
メリーたちが乗る予定の便のアナウンスが流れ、ゲートの方が慌ただしくなっていく。
そして、それに合わせて、俺達の集団もゲートの方へと移動する。
俺は集団の少し後ろを歩きながら、このまま会えなくなるメリーに、最後になんと声をかけるべきか、先ほどと同じように悩んでいた。
家政婦はそんな俺に気付いているのか、チラチラとこちらを振り向きながら進んでいた。
メリーといえば、爺さんにベッタリだ。母親の母国語を拙いながらも使い、一生懸命話している。
別れの時は、文字通り眼前まで迫っていた。
今生の別れというわけではあるまいが、少し先に見えるゲートをメリー達がくぐれば、その長い長い距離を考えると、もうほとんど会うこともないのだろう。
それは、やはり寂しいことだった。
あのアパートでメリーと過ごした数日間は、面倒で、余計な出費もして、騒がしくて、自分の時間もなかったけれど、どこか居心地が良くて、嫌いではなかった。
家に帰ると、メリーがたどたどしく『おかえり』と言ってくれることが嬉しかった。
それも、もう二度とないのだなと思うと、メリーが外国に行ってしまうことを心から喜べない自分がいた。心の準備が出来ていないというのはこういうことをいうのだろうか。
しかし、気付けば、ゲートはもう目の前だった。
メリーの爺さんが、改まって俺に礼を言い、それを通訳さんが訳した。
爺さんの後ろで、メリーはおずおずとこちらを覗いている。
俺は、無理やり、出来る限りの笑顔をつくってメリーへと近づいた。
メリーは少し顔を赤く染めながら、爺さんの後ろから出てきた。
その小さな頭へと手を乗せ、短い別れを告げる。
「向こう行って、爺さん達に迷惑かけるなよ」
「は、はい!」
「ちゃんと、向こう行ってもやってけるか?」
「だ、大丈夫! 私メリーさん、今、異文化交流のスタート地点にいるの!」
「いや、半分はお前も同じ血が流れてるんだけどな」
「う、うん!」
何か緊張してるのか、メリーの返答はいつも以上にぎこちないものだった。まるで、何かを期待しているような、そんな目で俺を見上げてくる。
でも、俺は、それ以上、何の言葉も出てこなかった。
無言で見上げてくるメリーの視線が、痛かった。
こんなとき、分かりやすく励ましたり気遣った言葉をかけてやれればいいのだろうけど、生憎と俺はそんな器用な性格はしていないらしい。
「お嬢様、お爺様、そろそろお時間です」
「そうですね、そろそろ搭乗しないと」
そんな俺達を余所に、家政婦と通訳が搭乗を促してきた。
爺さんとメリーはそれに促されるまま、俺達に最後に頭を下げると背を向けて歩き始めた。
結局別れなんていうのは、こんなものなのかも知れない。
別にドラマチックなこともなく、何かモヤモヤとしたものが心に残るだけで、思った以上にあっさりとしていて。
きっと、数日もすれば日常に紛れていって、思い出してもそんなことあったなってぐらいで、取るに足らない記憶の一つとなるんだろう。
別にそれでも構わない。結局メリーはあの屋敷から解放されたわけだし、新しいスタートを切るわけだし、結果オーライだ。やるだけのことはやったんだ。そう思おう。
俺は、メリーと爺さんの後ろ姿を眺めながら、そう、心の中で呟いた。
――すると、メリーが最後に、俺の方へと振り向き、手を振って、再び背を向けた。
一瞬だけ見えたその顔は、いつも通り笑顔で、だけれどどこか寂しそうで、そして、残念そうな顔をしていた。
俺はそれを見て、思わずその後ろ姿へ叫んだ。
「メリー!!」
俺の声にビクつくと、メリーはゆっくりと戸惑うようにこちらを振り向いた。
そのまま固まったままのメリーへと、ゲートの方へと歩いていく。
側に立っていた爺さんが、空気を読む様に少しだけ離れた。
立ちつくし俺を見上げるメリーは、瞬き一つせず、こちらを見つめていた。
別に、これ以上かける言葉なんてない。でも、何となく最後に言いたかった。あんな顔をさせたまま別れたくなかった。
「お前といた数日間、楽しかったよ」
「……」
「ワガママで、甘えたで、バカで、礼儀知らずで、行儀も悪かったけど、それがお前なんだよな」
屋敷に尋ねたとき、あのオバサンは言っていた。メリーは行儀が良く手のかからない子だと。でもそれは、虐待されて強いられていたものだった。
本当のメリーは、こんなにも手がかかる。
こちらから聞き出さなければ、自分の思っていることすら言えないぐらいに。
しかし、メリーは、何故か呆けたように固まったままだ。俺の言葉が届いているのかどうかも怪しい。しかし、俺は構わずに言葉を続けた。
「素直なのに不器用で、いつだって笑ってて。でもな、これからはそんな必要ないんだ」
こちらを見上げるメリーと視線を合わせるように腰を落とす。
「辛いときは辛いって言えばいいし、腹が立ったら怒ればいいし、哀しいときは泣いていいんだよ」
そう、いつだって、メリーは笑っていた。
自分から助けを求めることはなく、色んなことを呑みこんでいた。
それが、俺は気がかりだったのだ。
無邪気に笑うだけじゃなく、年相応に、泣いて怒って、そして笑ってほしかった。
ふと爺さんの方へと視線を移すと、そんな俺達を見て、優しそうに微笑んでいた。
この人なら、メリーを大切にしてくれることだろう。きっと、健やかに育ててくれることだろう。
俺はそれを見て、安心して別れを告げることが出来た。
先ほどと同じようにメリーの頭に手を置き、言葉をかける。
「元気でな、メリー」
そう告げると、呆けたままだったメリーの唇が微かに動いた。
「……っと……」
「ん?」
「……やっと」
その瞳に涙を溜め、震える声で俺に伝える。
「やっと……、呼んで、くれた」
そう言うと、大粒の雫が白い頬を流れていった。
そして、そのまま、屈んだ俺へと力強く抱きつく。
耳元で、しゃくりあげるメリーの声が響いた。
「わ……、私、メリーさん、ここに、いるよ……。ちゃんと、ここにいるんだよ……」
涙で詰まりながら、必死でそう俺に訴える。
俺の頭へと回した細い腕が、精一杯抱きしめてきた。
――あぁ、そうか。俺は馬鹿だった。
頭を撫でていた手で、俺もメリーを抱きしめた。
折れそうなほど細い肩が震えていた。
メリーと過ごした数日間が走馬灯のように頭を過ぎる。
もっと、わがままに付き合ってやれば良かった。
もっと、可愛い格好をさせてやれば良かった。
もっと、美味いものを食べさせてやれば良かった。
そして、もっと早く、気付いてやれば良かった。
俺は本当に大馬鹿野郎だ。
何で、メリーがあんな話し方をしているのか、俺は深く考えていなかった。
こいつは、メリーは、繰り返し、自分がここにいるんだと、自分を見てほしいんだと、そう訴えていたんだ。
誰にも名前も呼ばれず、ずっとずっといないものとされて、居場所さえなかったんだ。
だから、こいつは、執拗に、自分の名前を、その場所を、俺に伝えていたんだ。
俺に名前を呼んでもらいたかったんだ。
存在を、認めてほしかったんだ。
気付いてやれなかったことが悔しくて、情けなくて、だけど、それでも抱きしめてくる小さな身体が、許してくれるようで、いつの間にか俺も泣いていた。
切なくて、どうしようもなくメリーが愛しくて、涙が溢れた。
噛み締めるように、その名前を呼ぶ。
特別な言葉を口にするように、心を込めて。
「……メリー」
「お兄ちゃん、……ちゃんと私、ここにいるよ……」
「……あぁ、分かってるよ、メリー」
「うん……」
「お前がここにいてくれて、良かった」
「うん……、うん……」
そして、何度も、何度も、その名前を呼んだ。
その度、メリーは涙声で頷いていた。
搭乗の時間ギリギリまで、メリーはそうやって、子供らしく、素直に泣いていた。
――――。
あれから2年が過ぎた。
冬になると、必ずあいつのことを思い出す。
もしかしたら、あの都市伝説の少女も自分の場所を告げるのは同じ想いがあったからなのかも知れない。
自分を見付けてほしくて、でも、誰も迎えには来てくれなくて、だから、少しずつ少しずつ、近付こうとしたのかも知れない。
そう考えると、やり切れない話だ。
――思えば、俺は結局、あの孤独な少女に何一つしてやれなかったのかも知れない。
彼女は今、元気でやっているのだろうか。
寂しい想いはしていないだろうか。
自分のことを大事に出来ているだろうか。
もう何もすることの出来ない歯痒さと、当時の自分の不甲斐なさがこうしてたまに襲ってくる。
俺は、あの時、ちゃんとあいつを見付けだすことが出来たのだろうか。
近付いて、その心を少しだけでも救ってやることが出来たのだろうか。
いくら考えても、それは、あいつだけにしか分からない。
ただ、時折送られてくる手紙に同封された写真の中で、あいつは、無邪気に笑っていた。
その顔はまるで、「私メリーさん、今ここにいるよ!」と、言っているような気がした。
それを見るたびに、俺もまた、自然と笑みがこぼれる。
せめて願わずにはいられない。
どうかメリーが、幸せでありますように、と。