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その後は案外あっさりとしたものだった。
早朝、俺とメリーの街の間にある大きな都市の警察署に駆け込み、俺は事情を一部始終話した。
数時間に渡って調書を取り終えると、警察は各方面への手続きと調査に乗り出した。
当たり前の話だ。何せ証言だけなどではなく、実際に虐待を受けたメリー自身がその場にいたのだから。
メリーは警察署から病院に搬送されると、手厚い保護を受けたようだった。
唯一肝を冷やしたのは、屋敷の裏口から出た後、あの仁王のような警備員と鉢合わせしたことだ。
しかし、蛇に睨まれた蛙のように固まる俺に、警備員は毛布とパンを差し出してきた。
どうやら、最初から家政婦と通謀していたらしい。
一言だけぶっきらぼうに、『風邪ひくなよ』と言っていたのが印象的だった。
今回の件はその内容の異常さだけでなく、地方自治体にまで発言力のあるメリーの家柄もあって、ちょっとしたニュースにもなった。もっとも、多くの政治ネタやスキャンダル問題などにすぐに埋もれてしまったが。
世間からその話題が忘れ去られた後も、事態が完全に収束するまでは時間がかかるらしく、おばさんを始めあの家の人間が裁かれるのも幾つかの裁判を経てからのことらしい。
俺は何度も事情聴取で警察に呼び出され、母親には詰問され、大学で幾つかの単位を落とすことは最早確定的だった。
メリーもメリーで大変だったらしく、新しい後見人のことや、怪我の療養、事件の顛末の調査など、しばらくはバタバタとしていた。
――後から聞いた話だが、メリーの身体の傷は、打撲や骨折などが多くを占め、裂傷などはほとんどなく、大人になっても残るような傷跡は極々一部とのことだった。俺が見たあの数々の大きなアザも、次第に消えると聞かされた。
俺はその報告を聞いて胸を撫で下ろすような気持ちになったが、僅かとはいえ傷跡は残ってしまうことと、メリーが受けてきた精神的外傷を考え、頭を振った。
不謹慎で、他人事のような考えだなと、自己嫌悪に陥った。
事態の収束に時間がかかるのは、何も対外的なことだけじゃない。
あいつが味わってきた経験は、あまりにも辛く、重い。もしかしたら死ぬまで付き纏う問題なのかも知れない。
メリーと再会したのは、俺があの家から連れ出して一カ月近くが経った頃だった。
久しぶりに話したメリーは俺の緊張などを吹き飛ばすぐらいに明るく、いつも通りだった。俺が知っているメリーのままだった。
その後、メリーと共にあの屋敷へと再び訪ねた。
入口には相変わらず仁王のような警備員が立っており、強ばる俺を他所にメリーは明るい調子で話しかけた。
「おじさん、久しぶり!」
「……ええ、お久しぶりです」
「ずっと立ってるの疲れない? 大丈夫?」
「……今は昼間だけなので大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「なら良かった!」
メリーが一点の曇りもない笑顔でそう喜んでみせる。
俺は、そのメリーと仁王様の距離感を不思議に思いつつ、軽い会釈をした。
警備員はその会釈には何の反応もしなかったが、敷地に入るとき、すれ違い様にボソッと呟いた。
「……学校に通われてるときも、同じように毎日心配してくれていたんだ」
メリーにはその声が聞こえていなかったらしく、俺だけが振り返る。
言葉を溜めるような話し方をする警備員が、振り返った俺にさらに言葉を溜めて一言だけこう言った。
「…………ありがとな」
俺はその言葉を聞いて、先ほどの会釈と違い、深々と頭を下げた。
門をくぐると、家の人間はもうその屋敷には住んでいないそうで、代わりに使用人達が勢ぞろいで迎えてくれた。以前来た時は気付かなかったが、結構な人数がいるように思えた。
その中には当然、あの仏頂面の家政婦の姿もあった。
メリーはその姿を確認すると、すぐに家政婦の元へと駆けて行き、思い切り抱きついた。まるで、じゃれる子犬のように嬉しそうにしていた。
――今回の件で、家政婦が俺を手引きしたことは、彼女のたっての希望でメリーには内緒にすることにした。
何故かと俺が尋ねると、彼女は少しだけ暗い表情をした。
「お嬢様は、ただでさえ辛い思いをし、ご自身の遺産についてなど、人間の汚い部分をたくさん見てこられました。これ以上、私のしがらみや画策など、大人のくだらない事情などを知ってほしくないのです。それに、あなたはああ言って下さいましたが、やはり私はお嬢様が辛い思いをされていたとき、それを止めることが出来なかったのですから」
そう言った彼女は、やはりまだ自分を責めているのだろう。
メリーがじゃれてくることに対しても、どことなく遠慮がちというか、どう接していいか困っている節があるように見えた。
真面目すぎる人なんだろうな、と素直に思った。
最初の機械的印象と違い、単純に不器用で真っ直ぐなだけなのだと、少し気の毒になりそうなほどだった。
しかし、そんな彼女に、屋敷から帰るとき、メリーはお礼を言った。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「何がでしょうか?」
「ふふふ、色々だよ」
「はあ。いまいち理解しかねますが」
彼女は、メリーが何を言っているのか分からない様子だったが、俺は何となくそれが分かった。
メリーはおそらく知っているのだ。それこそ色々と。
「お姉ちゃんは優しいね。私、大好きだよ」
「め、滅相もありません。勿体ないお言葉です」
珍しく、家政婦の頬が桜色に染まる。メリーと一緒で色白だから分かりやすいことこの上なかった。
そしてメリーは俺と彼女の手を取って間に立つと、交互に俺達の顔を見比べながら言った。
「私メリーさん、今大好きなお兄ちゃんとお姉ちゃんに囲まれてるの!」
ご機嫌といった様子で繋いだ手を前後に振るメリー。
正直、俺も相当恥ずかしかったが、家政婦が赤い顔をしながら戸惑っている様が面白かったので、しばらくそのままメリーに付き合った。
結局、屋敷を後にするときまで家政婦は顔を赤らめていて、俺は終始それを笑うのを我慢していた。
帰りの車の中で、俺は気になっていたことをメリーに聞いた。
「この屋敷に来るの、嫌じゃなかったのか?」
「えっと、あんまり好きな場所じゃないけど、お姉ちゃんにどうしてもお礼が言いたかったから」
誰かから聞いたのか、それとも察したのか、そう言うメリーは、やはり今回の件で家政婦が助力したことを知っているようだった。
「それに、お兄ちゃんが付いてきてくれたから」
そうこっちを向きながら、パッと笑った。
俺も薄く笑顔作って返し、メリーの頭を撫でた。
あの屋敷は、数か月の後、売却することが決まっているらしい。メリーの新しい後見人が付けた弁護士がそう提案してきたのだ。
あの地下室も、家の者が建てた新しい建物ごと壊される予定だ。
使用人達は、メリーのお爺さんの知り合いなどの計らいで、新しい就職先が決まっている。
あの家政婦はというと、どうやら大学に進むことを考えているらしい。
どこの大学とは教えてくれなかったが、メリーに進んで勉強を教えていたぐらいだ、頭はいいのだろう。
それぞれの行く末が決まり、現実は動き始めていた。
俺といえば、特に変わることはなく、バイトと大学生活に勤しみ、あの古いアパートでいつも通りの生活に戻っていた。
――そして、メリーは、新しい後見人である祖父と共に、母親の祖国へと帰ることになった。