Flight
僕は、亡霊。
それが土間蔵馬の口癖だ。
この世に生まれて十数年。たったのわずかの時間だが、色々あったのだ。
もう、疲れた。疲れきってしまって、どうしようもない。僕は終わっている。終わってしまったのに、まだ動いている。だから亡霊──。
そんな思いが、この一言に詰まっている。
今自分がこうして空港に立っているのも、神妙な顔で両隣に居る両親の顔も、いっそ夢ではないかと思うぐらい現実味がない。
自ら着込んだはずの高校の制服は、これからの成長を見越して採寸をやや大きくとってあるが、果たしてそう上手く行くかどうか。
大体、心の方は『亡霊』となったあの時から、全くといっていいほど成長していない。
そんな様子で身体だけ大きくなっても、かえってみっともないだけでは無いか──。
空虚な妄想に思考が流れていくのを遮るように、抑えめのアナウンスがロビー内に響き渡る。
『日本フライトシステムから、羽田空港発“こうぎしま”行き778便をご利用のお客様にご案内致します。“こうぎしま”行き 15時10分発 778便は、14時50分頃よりお客様を機内にご案内出来る予
定です。ご案内に先立ちまして、幾つかのご注意していただきたい点が──』
「……この飛行機ね。蔵馬、準備はいい?」
ソファの傍らに座っていた母の和水が所作美しく立ち上がり、蔵馬を促す。蔵馬は頷き返してボストンバッグを肩にかける。それから身なりの最終チェック。概ね、よし。
チケットはブレザーの内ポケットにしっかりと収まっているし、大半の荷物はあっちに送ってしまっているから身軽なものだ。
父母に背中を押されるようにして入場手続きを済ませると、列から離れて二人に向き直った。
「時々でいいから連絡頂戴ね。それから神楽ちゃんの言う事、ちゃんと聞きなさいね。あとそれから、っ……それから……」
もう何度となく聞いた文言が、少し震えたかと思うと、リノリウムの床に雫が数滴こぼれ落ちた。
今の今まで見たことのない母の涙。いつも朗らかに笑っていた母のその姿に、にわかに動揺する。なんと声をかけていいのかさえ分からない。
「蔵馬」
それまで黙っていた父・英彦が口を開いた。蔵馬より頭ひとつ高いところから、穏やかな声がかかる。
「父さんも母さんも、忙しさにかまけてあまりお前の力になれなかった。それは本当に、済まないと思ってる」
何だ、それは。別に、両親をそんな風に思った事はない。むしろ、自分のような息子で申し訳なくさえ思う。
だがそれを伝えても、きっと上手く届かないだろう。二人にとっては今までの自身の行動が答えだ。とてもそうは見えなかったに違いない。
喉奥までせり上がってきた否定の言葉を結局言わずに飲み込んで、曖昧に頷き返す。
「本当なら父さん達もそっちに行きたいし、行くべきだとも思う。…本当にすまない」
「──わかってるよ、父さん」
本当に、痛いほど解っている。
二人共、本当に惜しみない愛情を注いでここまで育ててくれた。その事に感謝の念はつきない。
時折重荷にも感じる事もあったが、大事にされている事は特にここ一年、受験シーズンで身にしみた。
大企業の研究員という忙しい仕事の合間を縫って何度も学校に足を運んでくれたし、家の中では蔵馬を気遣って殆ど口出しらしい口出しはして来なかった。
これ以上ないほど甘えさせてもらった──。その自覚があるからこそ、出立の時ぐらいは生きているふりをしなければ。
「大丈夫、今度はうまくやるよ。父さんも母さんも、仕事頑張り過ぎないようにね。折角二人きりになるんだから、少しは二人でくつろぎなよ」
そんな軽口に父は苦笑し、頭を掻きながら頷いた。
母も蔵馬からを離れ、父の傍に寄り添って涙を拭う。
背の高い父が母の肩に手をやると、まるで包まれているようにも見える。似合いの二人だ、などと生意気な感慨が浮かんできた。
ようやくこの二人を開放してあげられる。そう思えば、この決断も、それを促してくれた恩師の言葉も悪くない判断だったのではないだろうか。
別れの間際、入場ゲートを潜る段になって、ようやくそう思えた。
「二人共、見送りありがと。……あっちについたら、連絡する」
せめて、カタチだけでも。
餞に笑ってみせたが、きっとこの顔も二人が見たい笑顔ではないのだろう。
◆◆◆
窓際の席だったのは幸いだ。息苦しい機内の景色を意識しないで済む。
頬杖をついて滑走路の風景をぼんやりと眺める。門出の空は灰色。荒れもしないし晴れ晴れしい気持ちにもなれないが、自分には相応しい色だと思う。
きっとこの先、どこまで行っても自分の人生はこんな色なのだ。曖昧で茫洋で、平坦な未来を思い描く。
ちっとも楽しくはなさそうだが、悪いコトばかりではない。平坦とは即ち穏やかであると言う事だ。心安んじて日々を送れるのなら、むしろ進んでその未来を選択しよう。
そんな、ややカブれた物思いに耽りながら離陸を待っている間もどんどん乗客は増えていき、にわかに機内が騒がしくなってくる。
近頃は業績が芳しくないという航空業界だが、とてもそうは思えないほどの埋まり具合。春休みも終わるというのに家族連れやカップルの客が目立つ。
皆一様に、笑顔。これから蔵馬が向かう地は、そういう表情が似合う場所なのだ。
蔵馬のようにアンニュイな空気を醸している方が珍しい。隣席に座る人が気の毒である。
かと言って殊更に空元気を取り繕えるほど器用ではないので、出来る事なら隣席に誰も来ないことを祈るばかりだ。
が、祈りも虚しくその相手はすぐに現れた。
「ああ、ここだ。どうもねェ、お姉さん」
一人の老人が、客室乗務員に付き添われて蔵馬の隣席に視線を落としている。
座っている蔵馬と然程変わらない身長の禿頭の老人は、蔵馬の視線に気づいて黄ばんだ歯をむいて笑った。
「隣、失礼しますよ」
「あ、はい。どうぞ」
軽く会釈をして促すと、皺で埋め尽くされた表情をさらにしわめさせ、老爺は震える身体を席に沈めた。
何が楽しいのか笑みを絶やさず機内の様子を眺め回し、蔵馬に向き直ると歯をむいて再び呵々と笑う。
「旅行、ですかな」
「…いえ、引越しです。あちらの高校に通うんです」
「おぉ、それはそれは。おめでとうございます」
「……どうも」
「あっちは景気良さそうですからのォ、お若い人にはさぞ刺激になるでしょう」
「はぁ」
「私はもうずっと、本土と島を行き来してましてなァ」
どうも相当に話し好きらしいが、生憎と蔵馬の方はそんな気分になれない。
曖昧に頷き返して目を瞑る。寝たふりでもしていればその内飽きるだろう。
そうでなかったとしても別に構うものか。亡霊に話しかける老人の絵が出来上がるだけだ。
やや失礼な感想を浮かべながら、リクライニングを軽く倒して離陸を待った。
フライト予定時間は55分。
一眠りしていれば、あっという間に着く距離だ。
◆◆◆
いつの間にやら機内客のさざめき声が、どよめきに変わっていた。その声に蔵馬は眼を開いた。
既に機体は飛びだって居たらしく、耳の奥に綿が詰まったような感覚を覚える。
かなり深くに寝入っていたようだ。目の端に濡れた感触。それを強く拭う。
夢を見た覚えはないのだが、やはり少し感傷的になっているのだろうか。
「起きましたかの」
笑みを浮かべた老爺がからかうように笑う。寝顔を見られていたかと思うと、少し恥ずかしい。
「ああこりゃ失礼。しかしお兄さん、寝顔は随分可愛らしいですなぁ。私がオナゴならこう、キュンキュンしちゃうところでしたわ」
いきなり何を言い出すのだ──不躾な物言いに眉をしかめる蔵馬に老爺は眼を丸くして、一層破顔した。
「カカッ、ま、そんな顔せんと。そろそろ見えて来ますでな……ほれ」
顎をしゃくって窓外をさす老爺につられ、蔵馬もそちらに目を向ける──そのまま、奪われた。
遮るものが殆ど無い夕空に、今日一日の役目を終えた太陽が煮えたぎるような赤光を放って水平線の彼方へと沈んでいく。
雲はまばらで、海鳥たちが編隊を組んで向かってくる。まるで蔵馬たちの到着を歓迎しているかのような優雅な動きで、橙に染まった小さな羽根がいくつもいくつも眼下を潜り抜けていった。
その更に向こう、紺碧と赤銅の間に色合いを変えた大海原に見える、一つの塊──。
写真や映像でその姿は知っているはずなのに、それは蔵馬の想像をはるかに凌ぐほど勇壮で雄大だった。
蔵馬から見て下手、長く長く突き出た縦長の半島と、上手に広がる広大な台形の半島。それぞれの輪郭が白波を跳ね散らしているのが分かる。
2つの半島に抱かれるようにして広がる楕円状の内湾は、澄んだ色の中に陽光をとり込み、暮れゆく日差しとともに色合いを刻一刻と変えていく。夢幻の色彩がそこにはあった。
その内湾を隔てるように伸びた一本の刀のような島に、人工の光が等間隔に瞬いている。機体が僅かに傾き、徐々に高度を落としつつ旋回に入る。
傾いた景色の中に、島の全貌が視界いっぱいに広がった。
大きな2つの半島と、内湾の一つの半島の根を辿った先、扇状に広がった広大な大地が色とりどりの数多の地上の星を抱いて横たわっている。
扇の骨のように伸びる何本もの大きな道路を、大小様々な車が忙しなく走り回り、そのさまは川を遡行する魚のようにも見えた。
その道路をたどってゆくと、徐々に人工の明かりが増えてゆく──。
ところが中央に走る最も広い大通りの終点にほど近いただ一点、まるで虫食いのようにポッカリと光が抜け落ちた区画がある。
全体から見ればそれほど大きくはなかったが、微かにそれが気になった。
が──その目はやはり光に引きつけられる。
扇の両端から、幾つもの架け橋を渡して繋ぎ止められた丸とも四角とも付かない形状の2つの島も、負けじとその身に光を宿し、競うかのようにして己が姿を誇示して人々の目を楽しませていた。
しかしやはりというべきか、最も人目を引くのは中心部だ。
扇の付け根の部分に高くつきだした幾つもの高層ビル群、とりわけ中央に聳える一棟は西日の力をも跳ね返すような力強さで総身を輝かせ、自らが太陽に取って代わろうとするかのような力強い光を放っていた。
まるで乗客に魅せつけるかのような旋回軌道は島の全貌をくまなく映しだす。視点を移動させずとも、ゆっくりと流れる景色はまだ終わりがない。
蔵馬は息を呑んで眼下の光景を食い入る様に見つめ続けた。
そして全ての島の最奥、扇で言えば要にあたる、最も小さな島──。
前方をささやかな砂浜に、後方をなだらかな山に囲まれた、のどかな風景。海辺から伸びた細い道を辿って行くと、いくつか家屋や畑なども広がっている。
それらが小さな集落になる頃にはやはり一個の地上の星になっていたが、それでもなお他の光よりは弱々しい様子であった。
集落さらに奥、鬱蒼と表現するのが最も適切であろう木々が群れをなし、まるでここだけは沈んだように暗い。
その森林に走る糸のように細い道が唐突に開け、3つの社殿がコの字を描くようにして佇んでいた。相当に古い建物のようだ。
森の只中にあって篝火も焚かず、夕闇に抱かれていく社。これこそが、この島本来の姿なのかもしれない。
そしていよいよ島の縁起を司る社、その深奥に目を凝らす。
周囲の高層ビル群には叶うべくもないが、巨大な建造物が社殿の奥、森の木々より尚高く、人の子の営みを見守るように佇んでいる。
独特な形状をしており、一体どのようにして、あるいはどのような意図があっての事とかは分からないが、その姿は日本人には馴染み深い門構え──いや、門そのものだった。
2つの巨大な柱の頂きに橋渡された、やはり巨大な2つの柱。頭頂部の両端が雅な曲線を描いて沿っている。
──鳥居、である。ただし、とてつもなく大きな。
本来神社の入り口にあるべきそれは、社殿の最奥で、もうじき完全に沈む太陽を見送るようにして佇んでいた。
神社という領域は神域であり、鳥居は本来、くぐり抜けた先が『神の住まう土地』であることを指し示す。つまりは社殿も神域に数えられるはずなのだが、あの鳥居はその真逆、いっそう深くなる森
と稜線を描く山に向かって屹立している。
つまりこの島の本当の神域は、あの鳥居のさらに奥──。そして鳥居は、偉大な何かが、こちらとあちらを行き来するために建てられたのではないか。
根拠など全くないが、蔵馬はそんなことを考えた。
上空から見下ろしているにも関わらず、畏敬の念を抱かずには居られない。
それほどまでに別格の、静謐で気高く、侵し難い存在感。
絶対の威容を誇示する神の門は、紅く朱く、広大な島の領土の最奥にて、ひたすらに静かに夜の訪れを待っていた。
「ええ眺めでしょう?」
「……はい。本当に凄いや」
我知らず振り返り、素直に老人の言葉に頷いてしまう。
「ああ、よかったよかった」
「何がですか?」
「お兄さん、張り詰めた顔してましたからねぇ。ちょっと怖いぐらいに」
「……すいません」
せっかくの旅路に、不景気顔の若造というのはやはり面白くなかっただろうと頭を下げる。が、老人は首を振ってそれを流した。
皺くちゃの笑顔は、蔵馬のちっぽけな罪悪感など吹き飛ばすかのように明るい。
「いやいや、折角こんなバカと冗談で出来た島に来たんだ。楽しまにゃあ損でしょう」
カカッ、と再び笑う老人は全く奇妙な事に、先ほどまでの四肢の震えを一切感じさせない矍鑠とした様子で笑いかけて来る。
「やっぱりこっちはええの。年甲斐もなくハッスルしちまうわい」
事実、震えは止んでいた。それどころか瞳に炯々とした歓喜の炎を灯し、年齢に似合わぬはしゃぎ振りであった。
すっかり若返ったと言わんばかりの様子に驚きを隠せずにいると、機内アナウンスが流れだす。
『大変長らくおまたせいたしました、NFS“こうぎしま”行き778便 まもなく『新都』こうぎしま空港に到着致します。着陸の祭、機体の状態が不安定になる場合がございますので、必ずシートベルト着用の上──』
老人がアナウンスに従いシートベルトを締め直す。蔵馬もそれに倣いながら、奇異な現象を目の当たりに狐につままれた気持ちでいると、再び老人が口を開いた。
「なあ、お兄さん」
「はい」
「アンタ、本土でさぞ色々あったんでしょうがね、この島なら大丈夫。やり直せる。受け止めてくれる」
力強い声音はそれまでの砕けた口調とは異なった、年長者の諭すような言葉だった。
「やり直す……」
口に出してその言葉を転がしてみる。
果たして自分に、そんな事が出来るのだろうか?
亡霊には相応しくない言葉のはずなのに、その一言ににわかに心が沸き立つのを感じる。
でも、しかし──
「なぁーんぞまた、小難しく考えとるようだがの。出来るさ。必ず出来る。この島はなんといっても──」
自らの手荷物の中からパンフレットを差し出す。丸めたそれを蔵馬につきだし、暖かな笑顔をたたえて頷く。
手渡されたパンフレットの序文には、島の様々なロケーションの写真とともに、こう書かれていた。
ようこそ、『願いの叶う島』こうぎしまへ──。