VS(ヴァーサス)
「…ま、ああ言われたら普通は俺を選ぶわな…」
男の挑戦を正面から受けて、『手型』は仕方ないとでも言うようにへらりと笑った。
ついで赤貴族に一瞥をくれて目を閉じる。最後に深呼吸を一つ。再び目を開いた手型は、 それまでの情け無い姿からは考えられない、鋭い視線で男を睨み返し、何か呪言めいた繰り言を呟いている。
異相に相応しい不気味な様子に男の肌が思わず粟立ち、一瞬、選択を誤ったかと怖気が顔を覗かせた。
が、息を飲んでなんとかそれをねじ伏せる。
啖呵を切ってしまった以上、舐められたら終わりだ。ましてや悪役なら尚更。
なけなしの胆力を発揮して恐怖を振り払う姿に、何やら赤貴族が意外そうに眼を丸くしたのを視界に端で捉えたが、それは無視しておく。
アイツの思惑がどこにあろうが関係はない。成すべきことは唯一つ、己をコケにした代償に、お仲間が無残にやられる所を見せつけてやるだけだ。
赤貴族だけにではない、観衆にも、この街にもだ。そうでなければ、収まりがつかない。
(必ずぶっ潰して、堂々と出て行ってやる。吠え面かかせてやるよ…なあ、ヒーロー?)
◆
(…あーあー。ちょー怒ってるよ。怖ぇなあ、もう)
一方、手型男──マノスキアはといえば、男の向ける怒りと憎悪の念を受け止めて、どこか他人事のような感想を心中で呟いた。
恐れがないわけではない。衆人環視の中、凶器を持っていきり立った男を、無手で仕留めろというのだ。簡単なお仕事ですとは言いがたい。
男の手の中にある凶器を見やる。全長にして50センチ、握りの部分を覗いてもなお40センチはあろうかという、えらくごつい代物だ。
あんなモノでぶん殴られたらどうなるか? …考えるまでもないだろう。良くて骨折、悪くてお陀仏。
加えて、自身は正面切ってのガチンコ勝負を得意とするタイプではないのだ。恐れるなという方が無理だ。
目を閉じ、敗北した姿を具体的に想像して見る。──あの太くて硬い棒で一撃。
無様に地に伏した己を見下ろし、『おおマノスキアよ、やられてしまうとは情けない』などと嬲り者にする赤貴族の姿がありありと浮かぶではないか。
よしんば命があったとしても、醜態を晒した挙句、今後もこんな真似を続けようものなら『やだ奥さん、そこに居るのはひったくりに負けた虚弱マドハンドでなくて?』『あらほんと、今度は仲間でも呼ぶのかしら』などと口さがない奥様方の話題の種にしかなりはすまい──…それだけは避けたい。
しかし逃げ場がないのは己もまた同じ。この先も街の守護者たらんとするならば、目の前の敵と闘い、どうにかするしか最早方法はない。
(こりゃ絶体絶命かね──)
自嘲ながらも、しかし再び開いた双眸には決して絶望の色はない。
今度は視線を未だ男の手中にある女物の鞄に移す。
オロオロと慌てふためき、どうしていいのか分からない様子だった老婦人。その顔が忘れられない。
(待ってろよ、名も知れぬ被害者の婆さん。俺が必ずあの鞄と──)
そこで区切って、男自身に視線を移す。
(──アイツを救ってみせる。例えこの手が汚れていても……否、汚れているからこそ)
救えるものが、ある。
そう信じているからこそ、こんな真似を始めたのだ。罪無き民に、咎人にさえ差し伸べる救いの手として。
例えその手が流血に塗れる事になっても──故に名を『汚れた手』。
自ら名付けたその名に誇りこそあれ、恥じ入る必要などどこにもない。胸を張ってそう言える。決めたのだ。
(そう、あれは、俺がこの街にやってきた、冬のある日の事──)
以下、彼の誕生秘話が脳内で再生されているのだが、それはまた別のお話。
時折夜風に乗って運ばれるマノスキアの薄ら寒い自分語りは、何か禍々しい呪文のように観衆と男の耳に届いていた。
◆
とにかく両者の準備は整った。後はただ、ぶつかるのみ。
彼我の距離は目測にして7メートル。リング状に取り囲む観客。それらを全てを睥睨するは赤貴族。
唐突に出現した現代のコロッセオの中で、男とマノスキアが向かい合う。
無責任な歓声と野次が飛び交う中、二人の鼓動は早鐘のように高鳴った。
喧騒を打ち据えるかのごとく、赤貴族が手にした杖でバルコニーの床を叩く。
カツン、と冷たく小さな響きが木霊して、それを機に誰も彼もが口をつぐんだ。
そして訪れるは緊迫と静寂──……。
両者の意思が静かに燃ゆる。キリキリと胃の痛くなるような緊張感。
得物を手に、男が手型の周囲をゆっくりと回り始める───じわり汗がにじむのを感じながら、その足は中々前には進まない。
時折、飛びかからんと踏み出すが、どよめく観衆の声が男の耳朶を叩くたび、焦りと苛立ちが募る。
その一挙手一投足を細大漏らさず見届けんとする視線は、まとわりつくように男の四肢に絡みついた。
(──なんだこれ。おい。ふざけんな。たかが見られてるだけじゃねえか…!)
さもありなん。人間、流れの中で人を傷つけるのは容易でも『今からこいつをぶん殴れ、見ててやっから』と言われても、ハイそうですかとすんなりとは出来ない。
例え当初はそのつもりだったとしても、だ。 良心という物を欠片でも持っていたならば、他者から突きつけられる監視の眼は容赦無くそこに突き刺さる。
それ感じ取れるだけ男は悪党の中では善良なクチと言えたが、この場においてはうまくない。
人の視線の中で振るう暴力にはまた別の覚悟が要るという事に、男今更ながら気づかされた。
(動けよ、俺の足。俺の腕。身体。……動けってんだよ──動けッ!)
「…~~~ッラァッ!」
ようやく動けた。が、男の気勢とは裏腹に、スタンロッドはマノスキアの眼前で虚しく空を切る。
右横薙ぎ、返す刀で左からもう一度。空転。踏み込んで胸元を付く。マノスキア、身を捻ってコレを躱す。
それ以上は何もせず、ゆらり、その身を柳のように躍らせた。
マノスキアが右へ左へ揺れるたび、悪魔の手を模した外套がヒラヒラと揺れる。
その様は『鬼さんこちら』とからかう様な手招きをしているようにも見え、苛立ちばかりが募っていく。
猪突猛進を繰り返しては、軽々といなされる。 幾ら腕を振るおうとも、猛ろうとも、男の怒りは届かない。
笑みすら浮かべて、漆黒の魔手は獲物を追い詰める。
「…おいおい、さっきの調子はどうした?あれだけ大見得を切ってこれか?あり得ないだろ?」
「っせぇ!どう料理してやろうか考えてんだよ!」
言い返しながら、脳天目掛けてロッドを振り下ろす。マノスキアはコレも紙一重で捌いて男の死角へと回り込む。
「ならとっととやったらどうだ?考える必要ないだろ?ホレ、潔くもう一丁、かかってこいって」
「黙れってんだよ!鬱陶しい!」
男、掴んだ鞄を振り回す。マノスキア、深く地に沈み回避。体が泳いだ男に顔を突き合わせ、息のかかる距離で男の顔を覗き込む。
猛禽のような瞳孔に映る自らの顔が、焦りと恐懼に歪んでいるのが見て取れた。
「だから黙らせてみろって!…ついでに言わせてもらうが、もうちょい気の利いたセリフいえないのか?」
「あーもう、うっせえッ!」
力任せに横一閃。密着したこの距離なら、いくら何でも当たるだろう──不発。
然程早く動いているようにも見えないというのに、気がつけばもう手の届かないところに居る。
摩訶不思議な動きは男や観客の目にはついぞ理解できないモノだったが、唯一人、赤貴族だけはそのからくりを理解していた。
(踏み込みがなっとらん。下手に得物だけを当てようとするから──)
上半身が先走り、足元がその分お留守になる。
マノスキアは勢いだけが先走った男をギリギリまで引き付け、横合いからその体をそっと押す。
それだけで勝手に目標を見失い、振り回されて疲弊する。闘牛とマタドールの関係によく似ていた。
ついに男の動きが止まった。
形成は圧倒的に男に不利。いよいよ魔手が罪を狩り取らんと動くのか──観衆の興味はもはやそこにしかなかった。
しかし何を思ったか、マノスキアは不意に構えを解いて後退した。
あまりに無造作な動きだった為、警戒した男が動けずにいると、飲みかけで転がしていたペットボトルを手に取り、グビリと一口。いい汗をかいたとばかりにヘラリと笑う。
「…なぁ、もう分かっただろ?アンタこー言うの向いてないんだからさ」
「……何が言いてぇ」
「ここは俺の不戦勝って事で、一つ大人しく捕まっときなって。あっちの赤いのが言ってただろ?『勝てたら我々は見逃してやる』ってな」
「…なにを……あっ…!!」
チッ、と頭上から舌打ちが漏れ聞こえてきた。赤貴族のものだろう。
自身の目論見をネタバラしされ、不快の念を隠そうともしない。
今更のように思い出す。例えこの珍奇な状況を抜けだしたとしても、警察の警戒網がまだ残っているという事を。
この気まぐれな正義の使者とは違い、連中のそれは仕事だ。見逃してくれるはずがない。
「な?もう詰んでんだよ、アンタ。こわーいお巡りさんに追っかけられるよりましだぜ?」
「……ッ!ざっけんじゃねぇぞ!俺は捕まらねえ!テメェ見てえな訳の分からん野郎にも負けてやらねえ!ずぅえーーーーー…ってぇなぁ!」
あらら、逆効果だったか。
説得に失敗したことをさして気に病むでもなく、苦笑いを寄越す手型男。
人懐っこそうな口元が余計に苛立たしい。そこへ、男を嵌めた赤貴族の空気の読めない一言が飛び出した。
「よく言ったぞ、下郎。敵に絆されるようでは悪党の名折れというもの」
(──こいつッ…!)
人を晒し者に仕立ててよく言う──罵声の一つでも浴びせてやろうと振り返るも、当の本人はどこ吹く風。驕慢な笑みを浮かべて傲然と見下ろしている。
「睨んでも仕方あるまい?…それ、敵はあっちだ。外野の眼など気にせず人思いに殺ってやれ」
視線で人が殺せたら──…!
腹立たしい事この上ないが、赤貴族の言う通り。
外野は所詮外野でしかない。奴らは無責任で、物見高いだけの傍観者。精々人壁を作るだけの臆病者達に、何を見られようが構うものか。 見ろ、相手は只のコスプレバカ一人。一寸走っただけでヒィヒィ喘ぐ貧弱野郎だ。負けるわけがねえ。 とっとと突っ込んでぶん殴ってやれ。頭か。腹か。
…いやいや、あのニヤけた面をぐしゃぐしゃにしてやりたい。
なまじ生かしておくつもりで闘るからいけねえんだ。
もう容赦はしねえ。あいつが何をしてこようが、関係ねェ──。
今度こそ迷いはない──さあ、一息に、一思いに、一足飛びで、
(──殺すッッ!)
ただ、真っ直ぐに。限界まで搾り出した殺気と共に、男は我が身を弾丸と化した。