Under the Surface Part.2
家路は順調だった。
相変わらずの混雑ぶりを見せるループラインをじっと耐え、臣島駅を一歩外に出れば、茜を纏った街並みが絢爛たる光と音で蔵馬を出迎えた。
来島当初は呆れるほどに美しいと感じた眺めだが、思いの外味気なく見える。この辺りにはもうそろそろ慣れてきた、という事なのだろう。
なんと贅沢な感想かと自嘲しながら人の流れに乗り、後は只々機械的に足を動かす。視線は足元に固定。駅周辺は、とりわけ承認者が多いから。
煉瓦で舗装された歩道を淡々と歩む蔵馬の口から、ほうっと安堵の息が漏れた。
何事もない一日では無かったが、今日も1日乗り切った。
明日からは流石に大志も近寄って来ないだろうし、今日よりきっとマシになるはず。そう願いたい──…
「…──?」
思考に沈む蔵馬を現実に引き戻したのは、粘り着くように集まる無数の気配だった。
てんでバラバラに雑踏を歩む何人かが、一斉に蔵馬の方を見ている。
続いてまた数人、さらに数人。蔵馬と目線があうと、さっと外す。
しかし意識は、バッチリこちらを向いている──それだけは分かった。
確証のない嫌な予感。
首筋をチリチリと撫でるそれを感じながら、すぐ近くの角に入る。
さらに幾つかの道を分け入り、少し細めの通りに進路をとった。
どことなく異国情緒を感じさせる小道には、雑貨屋や個人経営の服飾店、胡散臭い小物や食べ物を扱っている露天なんかが軒を連ねている。
いかにも怪しげでどこか懐かしい、蔵馬好みの好奇心をくすぐる光景。こんな状況でなければじっくり足を止めている所だが──その一角、蔵馬の後方が爆ぜた。
もうもうと舞い上がる土煙の中、すわ何事かと振り返る人の群れ。
果たして中心から現れたるは──。
「ナラーーーーーーーーーーーーーッ!!」
「なっ……!」
確かに撒いたはずの怨敵、しんとクンその人であった。
「仏敵発見確保DE捕獲! いーねェ、そのリアクション! 見たか!ビビったか? 承認者なめんなYO! 」
煮え湯をおかわりで頂いた大志はマスクの中で感涙にむせた。
してやったりだ。見よ、あのお澄まし顔が呆ける姿を。コレこそが見たかった──やはりヒーローたるもの、追い詰められてからが見せ場である。
あっけにとられた聴衆は早くも立ち直り、、突然現れた島の名物にやんやの喝采を上げる。最も旅行客らしき人は、芸人か何かと間違えているようだったが。
「よーし!かっこ良く登場したところでいざ! 仏☆ば……つ……?」
勝ち誇っている間、既に蔵馬は猛ダッシュ。見る間にグングン遠ざかっていく。どうやら、ヒーロー登場のお約束を守ってくれないらしい。とことん乗りの悪い奴。
「……迂闊!」
全くもってその通り。
額をぺしりと叩いて再び爆走していく大仏様を、小道にいた人々は唖然として見送った。
◆◆◆
…──まずい。これは、実にまずい。
無表情の中で動揺を沈めながら、ひたすらに走る。
目についた路地やビルの隙間を縫うようにして、撒く事自体は幾度も成功しているというのに。その尽くで──。
「ナラッ☆」
イラッと来る声と共に先回りされている。土地勘の有無では説明がつかない、とんでもなく正確な尾行を受けて、エンカウント率が上昇中。
もうすぐそこにあるはずの自宅が、異常に遠い。
「カハハハハハ! 無駄無駄ァ! 今日はお前の仏滅だァァーッ」
世紀末でモヒカンな雄叫びをあげながら、しんとクンが迫る。見る見る両者の差が縮まっていく。
両者の間に横たわる因縁朝からぬ様子に、人々は道を開けた。当然だ、巻き込まれたら叶わない。
すっかり走りやすくなった道を駆け抜けながら、隠れる場所を求めて視線を左右に走らせる。
その一方で、周囲に何か異変がないか目を凝らす。特に変わった様子は見受けられない。ならば人はどうか? ──頬を伝う汗を拭いながら目を走らせる。
会社帰りのサラリーマン、はしゃいで回る制服姿。ゆったりと歩くご年配。ぐずつく子供。恐らくは万は下らない人数の中、やはり特に変わった処は──……いや。
(…──携帯……か?)
蔵馬が走る、その前後左右、周囲を囲む人の群れ。その内の何割かが、今や誰しもが当たり前に持つ電子機器を蔵馬に向けていた。
更にどこかで、複数の着信音。更にその奥で。頭上で。背後で。一つ一つの小さな音が伝播し、増殖し、溶けて混ざって絡まり合う。高い音、低い音、何者かの歌声。
不可視の津波は、十重二十重と次々に厚みを増し、そして──唐突に、消えた。
往来に立つ人々の反応は、大きく分けて二つ。『鳴らなかった者』と『鳴った者』。
前者は蔵馬と同じく、突然の現象に不安げな表情であたりを見回している。対して後者は各々の携帯を取り出し、さっと画面に目を走らせた。 おそらくは10秒にも満たない僅かな時間。楽園の半分は静止して、夕空を舞う海鳥の声だけが白々しく響く。
やがてどこかで、誰かが携帯をたたむ音がした。それが合図でもあったかのように半数の人々は動き出し、
──ゾクリ、と。
蔵馬のつむじからつま先までを、夥しい数の視線が一斉に貫いた。瞬間、電撃的に訪れる理解。
追跡者は、一人。だが観測者は、その限りではない。
(あの野郎ッ──……!)
焦燥と、恐怖。
この2つが蔵馬の背筋を撫で上げ、追い立てた。弾かれたように走りだすその姿に、に誰かが驚きの声を上げる。しかし走る足は止めない。止めてはいけない。足はもうすっかり棒のようで、持ち上げるのだって辛い。けれど、今止まってしまったら何をされるか、何が起こるのか分からない。分からないという事が怖い。
どこか。早くどこかに隠れるなりしないと。出来れば暗くて静かな所がいい。火で炙られるような恐怖より、冷たい孤独の方がまだマシだ。
背後からはもう何度目かわからない、迷惑尊の高笑い。
気がつけばもうずっと、同じ所を走っている気がする。さながら釈迦の掌で駆けずり回っているかのように──。
今や楽島のほぼ全ての耳目が、蔵馬の姿を追いかけ、彷徨わせる。彼らあるいは彼女らは、決して蔵馬に手出しはせず、されど放っておくこともせず、その一部始終をただ淡々と視る。こんなにも大勢の中にいるのに、混ざれない。そうさせて貰えない。
己だけが異物であると突きつけられ、絶望的な孤独と徒労感に喘ぎながら走リ続ける。どこかで上がる誰かの笑い声が、小さな背中を打つ。
その姿は、まるで嫌われ者の道化のようで。
いつしか夕陽も、道化を眺めるのに飽いたのか、あたりは徐々に藍に染まりつつあった。