Goodbye,Goodmorning part.2
思うに、楽しむという事には一定の我慢が必要なのではないだろうか。
珍しくもそのような考えに至り、いちいち些細な事に目くじらを立てぬよう、蔵馬はよそ事を唱えながらループラインに乗車していた。
乗客ラッシュにもみくちゃになっても、カップルの場を顧みない振る舞いを目の当たりにしても、生臭い息を頭上から浴びせかけられても、
──何やら尻に当たっている手のひらが怪しい動きを見せていても。
(六根清浄、六根清浄──石の上にも三年、待てば海路の日和あり……)
楽しい事の後には困難が待ち受けている物だ。そして逆もまた然り。
今ここで辛い目に会っておけば、残りの時間にはきっと大きな楽しみが待ち受けているに違いない。
果たして、ようやく着いた『楽島駅』に降りた所で、その予感は正しかったのだと確信した。
楽島は、臣島と対をなす観光メインの街並みだ。
駅を中心に三日月状に広がる島に白亜の家々が立ち並ぶ。その先に広がる人工珊瑚礁の色合いは鮮やかなエメラルド。更に進んで、沖合に揺蕩うヨットの、陽光を浴びたシルエット。
延々と続く人工ビーチはいくつかのブロックに分けられ、ご丁寧にヤシやらマングローブが海辺の森を演出していた。
まるで何かの冗談みたいに美しい──楽園のような光景。
臣島も十二分に都会的で素晴らしい眺めではあったが、ここはまるで格が違う。一度で訪れたなら決して忘れられない、開放感と高揚の景色。
そんな空気に蔵馬は思いっきり身を任せていた。オラわくわくしてきたぞって奴だ。
ワクワクしすぎて、学校とは逆方向にまで足を伸ばしていたのに気付いたのは8時近くなっての事。
自身の行動を思い返すや、またもや軽く黒歴史を刻んだ気がしてならない──そんな気恥ずかしさを抑えながら駅まで戻ると、にわかに人だかりができ始めているではないか。
昨夜からつくづく物見高い人が多いなと思うが、何か面白いものでも拝めるのならと首を突っ込んだのが大間違い。
「だからぁ、君の勘違いだと言ってるだろう!?」
楽園に相応しくない胴間声が辺り一帯に響き渡り、この時点で爽やかムードはぶち壊し。あーあ。ヤな感じ……などと、後悔してももう遅い。
続々足を止める物好きに再び揉まれ、かろうじて確保した視界には男女が各一名。
最初はリア充カップルの痴話喧嘩かと思ったが、どうもその手の熱は見受けられず、漂うは南国にあって尚寒々しい、張り詰めた空気。
野次馬の話を拾って統合すると、要は男が女の体を触った、触らないで揉めているらしい。蔵馬の位置からは男の顔と、女の後ろ姿が見えた。
片や身なりの感じがキメッキメの旅行者風の若者、片や──後ろ姿一つとっても、グッとくる佇まいの女子高生。
皆と同じ光を浴びているはずなのに、彼女の周りだけは妙に明るい。露骨に太陽神が贔屓している。その癖長い手足はシミ一つない、抜けるような白。恵まれた肢体を飾るはよくノリの利いた半袖Yシャツにギンガムチェックのプリーツ、蔵馬が通う高校の制服だ。
大胆に短く折ったスカートが翻る度、長いおみあしがちょっとマズいところまで見えてしまいそう。あんまり見てると、おらムラムラしてしまいそう。
そんな大人びたシルエットでいながら、両足を一生懸命踏ん張っている感じが妙にアンバランスで可愛らしい。
この際顔は見えない方がロマンがかき立てられる殿方諸子が居たっておかしくはない、それほど見事な後ろ姿。
道理でこの人だかりな訳だ。ハッキリ言って目立ちすぎる。
そんな二人が、張り詰めた様子ででささくれた言葉の応酬をしているのだ。傍目にどちらを応援したくなるかなんて決まりきっている。
だが男の方もバカではなさそうだ。
不穏な空気を敏感に察知して居住まいを正すと、先程よりは随分と丸くなった声で続けた。
「……証拠は? あるの?」
「しょ、証拠は……ないです。でも一番側いたのは貴方だし……触ったじゃないですか! それどころか鷲掴みにしたじゃないですか!胸もお尻も!おまけに、耳に息まで吹きかけて!」
「……・ああ、そんな風にされたのかい。それはお気の毒」
「近寄らないで!」
男が一歩踏み出した途端、警戒心バリバリで女子高生が叫ぶ。手負いの猫が威嚇してるみたいな金切り声だった。コレはちょっと、まずいかな──蔵馬はそう、一人ごちる。
「警戒するのは分かるけどさあ、ここじゃ目立つし、話し合いにならないでしょう。ちょっと場所変えない?」
「イヤです!そうやって逃げる気でしょう!?」
「逃げないよ。ちゃんと駅なり交番で話をしよう。この島、暑いしさ。そんなにカッカしてると倒れちゃうよ?」
「平気です!私地元民ですから!」
「あ、そう言うモン?」
そら、立ち直ってしまったではないか。
余裕綽々、女子高生を使って見事に空気を作り替えようとしている。
蔵馬が思ったとおり、男はトラブルに多少慣れている様子だった。
世の中騒いだもん勝ちというが、アレは半分嘘だ……と言うのは、先生の受け売り。
ちょっと冷静で、少しばかり小賢しければ、相手のボロは幾つか拾える。後は煮るなり焼くなり──そう語った恩師の表情と、目の前の男が少し重なる。
自分ならこの状況、どうするか。
まずは相手のやり方をそのまま真似るべきだ。少し落ち着いて、周りを味方につける。
アレだけ目立つ容姿ならそれも簡単──そうするべきだと念話を送信。届けばいいなこの想い。
「ふざけてないで認めてください! 触りましたよね!?」
……んでますますエキサイトしちゃうんだから、よっぽど素直な性格なのだろう。
こりゃあ駄目だ。思わず鼻から息が漏れた。
「だから、それは勘違いだって。逆に聞かせてほしいんだけど、何故僕だとわかったの?そこをまず聞かせてほしいね」
「それは……貴方が後ろに居たのにトボケるから……」
「何度も言うが、身に覚えがないし根拠としてはそれは弱い。……──大体、そんなスカート短くしてたら触られても仕方がないんじゃない? いっくら何でもその短さは……ちょっとね(笑)」
男、小首をかしげて、微苦笑。端々に皮肉が篭ってはいるが、主張自体は一見実に論理的。
コレには一部の野次馬、とりわけ男性陣が首肯している。
蔵馬もその意見には頷けない訳ではないけど、そんなの人の勝手だ。むざむざ指摘して恥をかかせる必要もないだろう。
第一、どうしてそんな簡単に、自分の言葉でない主張に飛びついてしまえるんだろう。
そんなに早く判断してしまえるのだろう。
そして、どうしてそんなにジャッジしたがるんだろう。まだ彼女は何も言えてないのに。
彼女には確信があるから、あえてこの男なのだ。
きっと彼女は、それをどうにかして訴えたい。でも、上手くできない。
それどころか、逆にやりこめられてどんどん思考が散らばっている。
じわじわ迫る敗色の兆し。きっと悔しいだろう。
ましてや先に仕掛けてしまったから、引き際が分からないに違いない。
(ああ──もう)
イライラする。
また少し高く昇りつつある太陽の日差しも、真っ青で雲一つない青空も、眼前に広がる映画の様な景観も、さっきまであれほど蔵馬を昂ぶらせていた物が、急に色あせてしまった。
あの二人にもムカついている。男は男でもう勝ち誇っているし、女は女で勝手にテンパッてる。肝心のところは霧の中。結局触ったのか触ってないのか、どっちなんだよ。
そして何よりムカつくのは──野次馬だ。暢気に談笑したり、動画や写メをとってる奴までいる。ただ黙ってみてるならまだしも、コレは何だ。何でそんなにワクワクしてるんだ。一体、何を期待していると言うんだ。
携帯で時刻を見る。8時丁度。ストラップが揺れる。それを見ながら、思う。
蔵馬は亡霊だ。そのように生きていたい。衆目に晒されるなんてもっての外、出来得る限り空気を読んで、そういうものと上手くやっていこうと決めたばかりだ。
だから、本当はこんなの柄じゃない。でも。
今にも泣き出しそうな様子の背中を見ていると──。
死んだときのことを思い出す。
思った通りに出来るだろうか。いや、やらなきゃ駄目だ。どう転んでも痛い目を見るのに?──でもそれで、この場は収まる。
意を決して、たっぷり酸素を肺に取り込む。先ほどから幾度も味わった南国の空気は、ちっとも美味しく感じられない。
だからだろうか、とびきり不機嫌そうな音が、声帯を震わせた。
「そこまでにしろ、クソ野郎」
その一言で、周囲の温度がすうっ……と下がるのが理解できた。
「……今のは、誰かな」
堅くなった男の声と視線が、野次馬達を撫でる。
皆一様に首をすくめ、とりわけ蔵馬の周囲の連中と来たら、ご丁寧に道まで空けてくれたではないか。
コレで背伸びする必要もなくなった。
押し出されるようにして、一歩前へ。
一歩だけのはずが、気がつけば女子高生と男の間に立ちはだかっている。自分の身体が独りでに動く。幽霊に動かされてるみたいに。
「……君さ、往来では口を慎めって親に習わなかった?」
「あんたの方こそ。女の子にわざわざ恥かかせなくてもいいんじゃないの? それともやり返さなきゃ気が済まない人? いい人ぶってるのに? それってスゴく中途半端。ぶっちゃけダサい」
普段ならまず使わないような言葉遣いで気勢をそぐ。
出来る限り醜悪に、出来る限り上から目線の嘲笑い。さんざん朝練した甲斐があるって物だ。
「君ねぇ……」
効果は上々、一瞬仮面がわずかに剥がれ、こめかみに青筋が浮かぶ。
だがまだだ、もう一つ。
こういう手合いは、メンツに泥を塗るのが一番効果的。何故わかるかって? 答えは簡単、だって自分がそうだから。
「……あのさ、さっき間違えて、俺の尻撫でたでしょ?」
「「「なっ」」」
生まれたのは、静寂。
次第にその意味が伝播するにつれ、笑いの沸点が低いから順に吹き出して、場の空気が一気に緩む。
男の顔は驚愕、のち羞恥の見事な変化。山の天気だってこんなに露骨に変わらない。
「……しょ、証拠は……?」
あまりといえばあまりな爆弾を放り込まれて、芸の無いセリフが口をつく。
頃合いだ。とどめを刺しに間を詰める。大股でキッカリ二歩分。悔しいことに頭一つと半分も背が高い。
男の吐息が、顔にかかる。……やっぱりなぁ。蔵馬には分かった。コイツで間違いない、はず。
「残念だけど、証拠はないよ。でもアンタはクロ。……だって息が臭いもの」
「おま……ッ!」
とっさに手で口を覆う男。更なる羞恥に、男の動きは固まった。
「ああ、そうそう。この生ゴミみたいな口臭。こんなん吹きかけられたら参っちゃうよ。ね?」
「え? あ……え?」
突然話を振られた女子高生、訳もわからず左右を見回す。
ダメだこりゃ。彼女は、本当にこういうの向いてない。『とっとと降りろ』と言う蔵馬の意図は鮮やかにスルー。
もう少し時間を稼ぐ必要がありそうだ──能面のように冷めた表情のまま、男の内側をもう少し切り刻む。
「どれだけ外見を取り繕ってもさ、中身が腐ってたらすぐ分か──」
痛撃が、鼻っ面に。
もんどりうって倒れた瞬間、蔵馬は手で鼻を覆いながらもほくそ笑む。
自分にしては上出来。計算違いがあるとすれば、思ったよりもずっと痛かったと言う事ぐらいか。
「お前な……。ほんっと大概にしろよ……」
冷や汗。内耳を内側から圧迫する鼓動。気を抜くと震え上がってしまいそうだ。拳をぎゅっと握りしめ、威嚇の視線を跳ね返す。
気に入らなかったか、つま先がお腹に食い込んだ。うずくまる。まだ男の形相は歪んだまま。
マズいな。上手く行きすぎた──冷えた表情の男の顔が、蔵馬を見下ろしている。
余程腹に据えかねたのか、男の視線は鋭利な刃のようであった。
(──そんなに気にするなら、ガムぐらい噛めよ)
腹の中で毒突く。更なる暴力にきつく目を閉じたその刹那──
「──ったく、滅茶苦茶だな、お前……!」
南国に吹く熱風のような声が、蔵馬のすぐそばで聞こえた。