街は舞台なり。
──追われる者が居る。
眩いネオン、ひしめく人の波。成功、希望、富、繁栄。それらが一同に集められ、凝縮されたような大通り。
かつてのバブル以上の幸福過多の空気。人々は皆一様に笑顔で、街中全てが煌めいて、叶わぬ夢など無いと言わんばかりの満ち足りた世界。
だが、見方を変えればその輝きは余りに眩く、度し難い熱狂と享楽に浮かれ、綺羅と輝く地上の星が、闇が齎す安寧を拒む傲慢な街と映るだろう。
その全てを掻き分け、突き放し、多くの人に見つめられながら、男は走る。
闇へ──もっと闇のある方へ。
男はケチなひったくりだ。ただし常習犯。
彼にとってはいつもの手馴れた仕事でしかなかったが、いつもと違う点を上げるとすれば、『この街での初仕事』という、ただそれだけ。
故に、男はこの街のルールを知らぬまま、易々と仕事が成功したことに安堵していた。
もし被害者や善意の第三者が追ってきたとしても、彼は覚悟を持って彼らを打ち倒すだろう。
何せ長い事これを生業としてきたのだ。目的のために手段を問うなという先人の知恵は充分に理解していたし、暴力に対する忌避感も薄い。
懐に忍ばせた頼もしい相棒を振るう事に何ら躊躇いはなく、万が一最悪の状況に追い込まれたとしても、必ず乗り越えられると信じて疑わなかった。
首尾よく毟り取った女物の鞄の感触は、ずっしりと重い。それだけでなく、鞄その物もかなり仕立てのいい物だ。
その鞄の本来の持ち主、身なりの良い老婦人の表情を思い出すと、思わず笑いが込み上げてくる。
狙うならやはり年寄りに限る。数が多く、実入りも確実。特に今回は上物、否、特上級の獲物だったといって良い。
入用の物を抜き取ったら、鞄その物も質に流してもう一稼ぎ出来そうだ──心弾ませる男が、ニヤニヤと笑いながら、人海を掻き分け始めて既に5分。
誰かの悲鳴、通報者の叫び、全てが終わってからやって来る間抜けな警察のサイレン。
そういった物が、彼の仕事の締めくくりとして聞こえてくるはず。
しかし男の経験則に従った警戒網は、それらを何一つ捉える事は出来なかった。
──違和感の正体を計りながら、目指すべき脱出路を忙しなく探す。が、男の望む闇まではまだ遠い。
雑踏を切り分けるその間にも突き刺さる、人々の無数の視線。
恐れるでもなく、蔑むでもなく、ただ男に向かって注がれるそれこそが、男の優越感に水を差す原因だった。
並み居る人を掻き分けて、突き飛ばす。皆それぞれ一瞬迷惑そうな表情はすれど、誰もハッキリとは非難めいた視線を向けてこないのだ。
(なんでこいつら…誰もビビりも怒りもしねェんだ?)
……こう言っては何だが、男の面貌はお世辞にも整ってるとは言い難い。
その上酒やけした浅黒い肌に、着回し過ぎて汚れきったボロいジャンパーに傷み過ぎたジーンズと言った姿は、街の景観には全くそぐわない。
そんな男が突然街中を駆け始めたならば、その様相が醸しだす物を感じ取り、誰もが何となく忌避感を抱くであろう。
だがそれは、男にとって寧ろ好都合な事だった。
余程の筋者でなければ誰も彼もが彼の前に道を開け、逃走経路を作るのに適しているのだ…と言うか、今まではそれで大体上手く行っていた。
だというのに、この街の連中ときたら──一向に怯む気配がないのだ。
むしろその目に映す色合いは『ああ、やっちゃったね』とでも言うような呆れや哀れみの意味合いが強く、それが一層男の神経を火で炙るような不快感を呼び起こし、いよいよもって男の浮かれた高揚感は霧散した。
思わず漏れ出る舌打ちが一つ。しかし手足の動きは止めず幾つか脳裏で推測を並べ立てる。
(たかがひったくり風情、珍しくもないってコトか?)
だとすれば、どれだけこの街は自分と同じような人間が溢れているのか。
(ロクでもねえ街だな、全く。金持ってそうな奴は多いけどよ…)
自分の事はすっかり棚に上げた感想を抱きながら、そろそろどこか適当な路地に飛び込もうとしたその時だった。
「お~来た来た。『一人目』だ」
妙にのんびりとした若い男の声が、男の耳朶に引っかかった。
(…何だ?)
『警官』ではなく、『一人目』。その呼び方が気になって、チラリと振り返ると、
「~~ッ!?!?!?」
そいつが、居た。
男の目を借りてそれを見るならば、パッと見、大きな『掌』だった。
人間サイズの巨人の手首のような物が、ネオンの光を浴び、巨大な影をビルの壁面に禍々しく異容を翻す。
突如出現した異形の存在は、男の常識や認識を侵食し、一瞬のうちに悪夢に迷い込んだような錯覚を招く。男は思わず振り返って足を止めた。
よくよく見ればそれは、痩せぎすの男が身に纏った外套が夜風に靡き、その姿が光源に引き伸ばされたシルエット過ぎなかったのだが、
ネタが割れた所でそんな人物が街中に出現する道理が分からない。
めいめい好き勝手に歩いていた人々は、その扮装を見るなりぎょっとし、押し合いへし合い、男と掌の間に道を創り上げる。
急に詰めてきた通行者に一瞬抗議の声を上げる者は居るにはいたが、掌が視界に入ると皆一様に納得して道を開く。
掌はそれらを一顧だにせず、風をまいて真っ直ぐに詰め寄ってくる。
ただ淡々と──そして真っ直ぐに迫り来る、巨大な掌。
(…ってボケッとしてる場合じゃねえ!)
あまりにも意味のわからない光景に、思わず足を止めてしまった男だったが、慌てて逃走を再開する。
警官はまだ来ていない。代わりに自分を追ってくるのは謎の人物。
捕まったら『どうなるのか』までは解らないが、少なくとも男にとっては碌な事にはならないだろう。
とりあえずいつもとやる事は変わらないと、再び駆け出した男の視界に、更に意味不明の光景が現れる。
──道が、出来ていく。
訳のわからない『掌』の出現に忘我したたったの十数秒。
今や誰もが肩を寄せ、誰かが誰かに男の存在を知らしめ、空間を詰めて道を広げ、皆一様に微笑んで男の行先を見守っている。
『どうぞ、どこへなりとも逃げて下さい』と言わんばかりの空気。
ついで、数えるのも馬鹿馬鹿しい無数の視線が男と『掌』を交互に捉え、そのどれもがこの状況を平然と受け止め、明らかに楽しんでいた。
そう、楽しんでいるのだ。男が逃げ、『掌』が追うという筋書きのない追走劇を。
それは最早、事件ではなく娯楽。
男は自らがその場における強者ではなく、道化として立たされている事をようやく理解した。
この場に存在するあらゆる眼が男に告げる──『出来る限り踊ってみせろ』と。
その好奇と興味と審判の視線に、男の恐慌が爆発的に膨れ上がる。
(何だコレ!?何だコリャア!?…何だってんだよこりゃあ!?)
駆け、まろびつつ、焦燥に心身を焼かれながら、男は目指す。
闇へ──もっと闇のある方へ。