事件簿その2 名探偵はトポロジーで推理する
名探偵御影石明の事件簿
事件簿その2 名探偵はトポロジーで推理する
天才老数学者、盆ノ窪博士が殺害された次の日の夜、御影石は踝館で私にあてがわれている部屋を訪れた。いつも自信満々の名探偵にしては珍しく、彼の顔は憂鬱に曇っていた。
「どうしたんだい、君らしくもない」
「手がかりは掴めているんだ。おそらく解決まであと一歩なのだけれど、天啓がまだ降りてこないのだよ」
彼はそう言って窓際の椅子に座り、嵐の吹き荒れる空を見上げた。この嵐がやむまではこの絶海の孤島、踝島へ迎えが来ることはない。あと何日、この緊張状態が続くのだろうか……
「私にはまだ糸口すら見えないけどね。あの密室殺人の謎は、この館の数学者のやってる学問と同じくらい謎めいているよ」
私はベッドに腰掛けたまま、伸びをしながら言った。ミステリ作家とはいえ、所詮私は紙の上で、自分がでっち上げた謎を自分の考えた探偵に解かせることしかできないのだ。
「そうか! それだよ壇ノ浦君!」
だが突然、私のせりふを聞いた御影石が立ち上がって叫んだ。
「えっ、何がだい?」
「密室殺人のトリックさ。事件解決の鍵はトポロジーだったんだよ!」
「トポロジー? あの数学のアレかい?」
一応名前だけは知っているが、実際どういうものかと言われれば根っからの文系人間の私には全くわからない。
「まあすぐに分かるさ。君は館の人たちを集めてくれ」
「君は?」
「私は少し準備があるから一度部屋に戻るよ。すぐに事件を解決する」
そう言う御影石の顔は心なしかほころんでいた。
15分後、私が踝館のロビーに全員を集め、抗議の声をあげる学者たちをなだめていると御影石が悠然と階段から降りてきた。
「みなさん。大変なところ、お集まりいただきありがとうございます」
なぜかTシャツに着替えて現れた彼はそう言って、優雅に一礼した。
「一体どうしたというんだ。迎えのボートが来るまで各自部屋で待機するという約束だったじゃないか?」
引屈教授が抗議の声をあげた。
「いいえ、もうその必要はありません。事件はすべて解決しました」
「それはつまり、犯人が分かったということですか?」
御影石の言葉に、ファニーボーン博士がソファから立ち上がった。
「はい」
御影石はにこやかに即答する。
「本当ですか? 一体誰が盆ノ窪博士を?」
顋門女史が震える声で聞いた。彼女が怯えるのも無理はない。犯人がいるということは盆ノ窪博士の死はやはり自殺ではなく殺人ということになる。この踝島には私と御影石を含めて六人、いや、今はもう五人しかいない。つまり、この中に殺人犯がいるということなのだ。
「まあ、そう焦る必要はありません。まずは我々の存在する、この宇宙の形についての話をしましょう」
そう言って両手を広げてみせた。どうやら宇宙を示すジェスチャーらしい。今回は何をやらかす気だろう?
「一体君は何を言っているのですか?」
御影石はファニーボーン博士のもっともな問いかけを無視して続ける。
「20世紀の初め、その問題の解法として、こんな事を考えた数学者がいます。地球から長い長いロープを結んだロケットを飛ばしたとします。そのロケットは宇宙を一周して地球へと戻ってくる、その時果たして我々はロープを手繰り寄せる事ができるかどうか――」
「ポアンカレ予想ね」
顋門女史が言った。
「そう、天才数学者ポアンカレの遺した100年以上解かれることの無かった予想問題ですね。日本を代表する数学者であらせられる皆様方には釈迦に説法でしょうが――」
「だから、それがこの事件とどう関係があるのかと聞いているんだ!」
引屈教授が再び怒鳴るが御影石は意にも介さない。
「まあ落ち着いてください。ところで皆さん、私がこのTシャツを脱がずに、今つけているブラジャーを、ホックを外すことなく取ることが可能だと思いますか?」
彼の唐突な発言に騒がしかった場が一瞬で静まり返った。全員の視線は御影石のTシャツの胸へと注がれている。確かに今、彼の胸は心なしか膨らんでいる。いや、しかし、まさか本当に……
「おや、誰も判りませんか? では、引屈教授、いかがでしょう?」
「ひぃ!」
さっきまで傲岸不遜な態度だった引屈教授も御影石に指名されると小さく悲鳴をあげた。
「そ、そんなの不可能に決まっているだろう……」
何度か咳払いをして体裁を取り繕うと、彼は答えた。御影石はわが意を得たりといった表情で顔の前に人差し指を立て「ちっちっ」と舌打ちをしてみせた。
「学者ともあろう方が、そんな偏狭な視野で物事を考えていてはいけませんよ」
そういうと彼は自分の右手をTシャツの左袖のなかに突っ込み―― ピンクのブラひもを引っ張り出した。その瞬間、御影石以外の全員が雷にでも打たれたようにビクッと痙攣した。
そんなことは気にもとめず、御影石は腕を折り曲げ、ブラひもの輪の中を強引に潜らせていく。それが終わると反対側も同様にブラひもを外し、Tシャツの下からピンク色のレースのついたブラジャーを引き下ろした。あとはズボンを脱ぐのと同様に、腰から足へとブラジャーを下ろしていく。
「どうだい? これが位相幾何学、つまりトポロジーだよ。壇ノ浦君」
肩ひもが伸びたブラジャーを足にぶら下げたまま、御影石は私に向かって白い歯を見せた。結局、トポロジーがどんなものかはよく分からなかったが、御影石が死んだらあの世でポアンカレとやらにぶん殴られるだろうなと思った。
「よくティーカップとドーナツの例で示されるように、トポロジーの世界では連続的に変形して同じ形にできる物体は同一視されます。つまり、無限に伸びるパンティがあれば、今行ったのと同様の方法で私はズボンを脱ぐことなく、パンティを脱ぐ事ができるわけです」
全員の視線が御影石の股間に集中した。が、腰に手をやる様子がなかったので全員が胸をなでおろした。
「しかし、まだここまでは通常のトポロジーです。では顋門女史、応用問題です」
「きゃあ!お母さん!」
御影石の指名に顋門女史は悲鳴をあげた。若き天才女流数学者のその美貌は、盆ノ窪博士の死体を発見したときよりも恐怖にひきつっていた。
「気を確かに、犯人は既に私の手中にあります。危険なことなど何もありませんよ」
御影石は鷹揚に的外れなフォローを入れた。
「うっ、うう……」
食いしばった歯の間から嗚咽の漏れる顋門女史を無視して、御影石は先程脱いだブラジャーで自分の足首を縛った。なかなかに変態的な光景である。こんどは何をやらかす気だ?
「では顋門女史に質問です。果たして、このように足首を縛られていた場合、トポロジー的に考えて私はパンティを脱ぐことができるでしょうか?」
教師が小学生に算数の問題の答えを問うような口調で、御影石はとんでもないことを聞いた。ここが孤島の殺人現場でなければ、彼のことを今すぐ警察に通報していただろう。
「ええと、その……」
女史の目には大粒の涙が浮かんでいた。
「いいですか。鍵はトポロジーですよ。良く考えてください」
「ふ、不可能です」
彼の真剣な眼差しに、泣きながら彼女は答えた。
「ふふふ、そうですね。確かに、普通のパンティならトポロジー的に考えて不可能です。しかし――」
御影石は不敵に微笑んで、続けた。
「私が今履いているパンティがひもパンだったとしたら――」
そう言ういなや、御影石は手品のような流れる手つきで、腰の左右からしゅるしゅるとピンク色のリボンを引き出した。
「もういや! 早くここから帰して!!」
顋門女史は悲鳴をあげた。
「よいしょっと」
だがそれを無視して御影石は解けたひもパンをズボンの前から引っ張り出した。ブラジャーとそろいのピンクのレースのひもパンだ。
「おお、神よ――」
敬虔なカトリックであるファニーボーン博士が皺だらけの手を組んで天に祈った。
「もうお分かりの方もいることでしょう。トポロジー的な先入観を利用した錯覚。これこそが今回の密室のトリックなのです」
そう言って誇らしげにひもパンを掲げた。だがおそらく、犯人を含めた全員が何一つ理解していないだろう。
「それでは本題に入りましょう。盆ノ窪博士の殺された密室の謎です」
ノーパンノーブラになった御影石は続ける。
「まず、状況を思い出すと、盆ノ窪博士が全員揃っての夕食を終えたのが一昨日の八時、それが盆ノ窪博士を我々が見た最後でした」
先ほどのパンツ脱ぎ事件の衝撃からまだ立ち直れずに呆然としている我々など気にもかけず、御影石は朗々と続ける。
「遺体が発見されたのは昨日の午前十時、朝食の時間を過ぎても全く音沙汰が無いので鍵のかかった部屋をこじあけると博士の遺体があった。この時、今いる全員が立ち会っていましたね。博士は首を吊った状態で死んでいました。博士が自殺ではなかった事は昨日証明したとおりです」
博士は最初、自殺かと思われたのだが、今週から始まる深夜アニメが予約録画されていたのを御影石が発見したのだ。自殺する人間がGコードで見もしない深夜アニメを録画したりはしないだろう。つまり博士は何者かに自殺に見せかけて殺されたという事になる。それより、隠遁した天才数学者がエロゲが原作の美少女アニメなんか見るなよ。
「やはり、それでは誰にも犯行は不可能という事になってしまいます。盆ノ窪博士の部屋に鍵がかかっていた事はここにいる全員が確認していますし…… 私ははやり、彼は自殺だったと思います。盆ノ窪博士の足だって本当はかなり動いたのかもしれません」
いち早く立ち直ったファニーボーン博士が言った。盆ノ窪博士の旧友である彼は今も自殺説に拘泥している。少し前に数学者の孤独がどうのこうのと言っていたが、きっと彼は数学という学問に過剰なロマンを抱いているのだろう。もしかしたら、そこに自分がたどり着けなかった境地に先んじた盆ノ窪博士への嫉妬に近い羨望が入り交じっているのかもしれない。
だが、非情にも御影石はファニーボーン博士のそんな言葉をあっさりと否定して続ける。
「今与えられた条件だけを見ればまさしくその通りです。しかし先ほども言ったとおり、これは意図的に演出された密室殺人なのです。今からその密室の解法をご覧に入れましょう。ポイントは3つ、盆ノ窪博士が車椅子を日常的に使用していた事、部屋に張り巡らされていた歩行補助用の手すり。そしてロープが結び付けられていた灯り窓です」
そう言って、彼は三本の指を立てた。
「博士の首を吊っていたロープは天井のシーリングファンにかけられ、その端は灯り窓の鉄枠に結び付けられていました」
盆ノ窪博士の部屋には小さな灯り窓があり、その鉄枠に首を吊ったロープの端は結び付けられていた。当初は足の悪い博士が自殺する際、シーリングファンに直接ロープを結べないためにこのような方法をとったのだと考えられていた。車椅子を踏み台にして、最後の力を振り絞って立ち上がり、盆ノ窪博士は自らの命を絶った。以上が最初にファニーボーン博士のが考えた推理だ。
「もう状況説明はいい。早く犯人を言ったらどうなんだ」
引屈教授は苛立った口調で急かす。
「いいえ。まずは密室の謎の解明が先です。とはいえ余談が過ぎましたね、簡潔に説明しましょう。犯人はまず、エイトノット―― いわゆるチチワ結びですね。その形に結んだロープの輪の部分を大きく広げ、部屋を一蹴できるほどの長さにしました。そして、その輪を張り巡らされた手すりの裏側に隠して博士の部屋にロープを張り巡らせます。輪は一カ所だけ、セロハンテープのようなもので手すりとロープを緩く固定します。そして、ロープの端をシーリングファンに掛けてから灯り窓の外へと出しておいたのです。ロープの端はちょうどカーテンの陰になっていて隠れていてそう簡単には見つからない――」
なるほど、部屋に巡らされた手すりはロープを掛けるのには絶好の足場だ、入り口付近はロープを張っておくわけには行かないが、そこだけ床に垂らしておけば大丈夫だろう。
「あとは簡単ですね。博士が部屋に入り、仮止めした部分に近づくのを待って、外からロープを引けばいい。ロープは車椅子の博士のちょうど首辺りの高さの手すりを滑ってその輪を狭めて行き、やがて博士を吊り下げる。あとは端を窓枠に結び付ければ完成です。気付かれれば簡単に防がれてしまいますが、終身前に電気を消した直後にでも行えばその心配も無い」
御影石は得意げに話し続ける。うん、いろいろ引っ張った割には無難なトリックだ。
「そしてこのトリックを使って博士を殺せた人物はただ一人、博士の死の直前に部屋に入ってロープを仕掛けられた者しかいない。それは――」
御影石は人差し指をすうっと伸ばし――
「引屈教授、あなただ!」
教授を指差した。教授の表情が一瞬で青ざめる。紆余曲折あったが、このシーンだけを見れば絵になる光景だろう。
「畜生! 全員動くな!」
「きゃあ! お母さん!」
突然、引屈教授が懐からナイフを取り出し顋門女史を捕らえると、その首筋に突きつけた。
「こうなったらお前らを皆殺しにしてでも逃げ出してやる! うっ――」
そう叫んだ瞬間、何かが一閃し、引屈教授の手にあった武器は弾き飛ばされた。
「ほら、大丈夫と言ったでしょ?」
ブラジャーをヌンチャクのように使い、ナイフを叩き落した御影石はそう言って顋門女史へと微笑んだ。二人の不審者に挟まれた彼女は複雑な表情を浮かべていた。
「――動機はもちろんイラマチオの定理の証明ですね」
御影石は椅子に座らされた引屈教授に聞いた。彼の両腕は御影石のひもパンで戒められている。
イラマチオの定理―― それは18世紀最大の数学者、イラマチオが解法を記さずに自殺したため、誰も解くことのできないまま残された証明問題。米国の数学研究所によって100万ドルの懸賞金がかけられており、証明できればフィールズ賞は確実と言われる最高難度の数学問題だ。長年この問題について研究していた盆ノ窪博士から証明に成功したとの報告を受けた三人の数学者はその解の検証のため、絶海の孤島である踝島に集められたのだ。そして、事件は起こった――
「そうだ。イラマチオの定理は私が30年間追い続けてきた夢だった。イラマチオこそが、私の、人生の全てだったんだ――」
引屈教授はそう呟いて俯いた。その頬を涙が伝う。彼は盆ノ窪博士の理論を見た、そしてそれが正解であることを知ってしまったのだろう。その時彼が感じたのが絶望だったのか嫉妬だったのか、それは私にはわからない。証明問題に挑む数学者は孤独だという。己の知力のみを頼りとし、広大な数式の荒野を彷徨う。しかし、どれだけの時間を費やしたとしても、その問題が誰かに解かれてしまった瞬間、それまで積み重ねてきた自分の努力は水泡と化してしまう。彼もまた、イラマチオに人生を狂わされた一人だったのだろう。
「その気持ちはお察しします。しかし、だからといって人の道を外れて良いという法は無いのです」
御影石は懺悔を聞く神父のように優しく言った。人前でブラジャーやパンティを脱ぐことに悦びを感じる変態に人の道を説かれるというのはどういう気分なのだろう?
「うっ、うっ……」
耐えかねたように、引屈教授は静かに嗚咽した。しかし、その涙の意味を想像することを私はあまり考えたくなかった。
翌日、事件解決を祝福するように嵐は過ぎ去り、踝島には数日ぶりの青空が広がっていた。
引屈教授は警察によって身柄を確保され、私たちは翌朝の定期便で本土へ帰ることになった。
「今回は偶然とはいえ、君のヒントが無ければさすがの私も危なかったよ」
船の上で御影石はそう言って微笑んだ。
だが、私は気付いていた。密室のトリックがトポロジーとはなんの関係もなかった事を。おそらく彼が私の部屋を訪れたとき、本当はお気に入りの下着を事件解決にこじつけてどうやって見せびらかすかを悩んでいただけだったのだろう。
――こんな変態とは早く縁を切るべきじゃないのだろうか? どこまでも続く青空の下、私はそんな事を考えていた。