ep.7 図書室茶番
女子寮から離れて学園の校舎へと向かう。この時間帯は授業をしているため静かなものである。禁書庫に忍び込んだ時も同じ静けさだったが、昼と夜との違いだけで恐怖心や冒険心に大きな違いがあった。
夜は見つからないことを意識していたあまりに緊張ばかりで、月明かりに照らされた廊下も、今に対面から教師が現れるのではないかとビクビクしていた。
それが昼となれば、他学生が真面目に授業を受けているなか、堂々と校舎内を闊歩する背徳感が胸を満たし、日光に照らされ空気中の埃が舞う姿にどこか神秘性を覚えてしまう。
「それで、何処に行くつもりですか?」
「……」
エリスは隣を歩くガーベラに声をかけるが、聞こえていないのか廊下の先を見つめるばかりだった。ボッーとどこか魂の抜け落ちたような姿は不安に映る。ただでさえ、その不健康の印として刻まれた深いクマには母性に似た哀れみが湧かないわけでもない。それでも彼女が脇に抱える四冊の本はしっかりと落ちないように気を配ってはいそうだ。
「ガーベラさん?」
「……ああ、悪いね。考え事をしていたよ。それで、何だって?」
「いえ、ただ、何処に行くのかが気になりまして」
寮の部屋から出る前に、ガーベラは情報を集めに行くと言っていた。現場以上に情報がある場所とは何処だろうか。教師生徒の情報が多い職員室か。それとも魔導書の情報が多い図書館か。エリスはその辺だろうと考える。
所詮これは暇つぶし。当たっていようがいまいがどうでもいいこと。もはや探偵の助手を気取り、思考の一致に喜ぶことも、学園の先輩後輩関係で、逸脱した魔法に憧れることもない。
今は何よりも疑われないこと。それだけを優先する。向かう場所を聞かない方が不自然だと判断したに過ぎない。
「図書室だよ」
「ということは、魔導書についての情報ですね。目録というものから、スケアの死因になりそうな魔法を探そうということですか?」
「正解。よく目録なんて言葉を覚えていたね。その通りだよ。聡い賢いエリスハウメア。卒業したらマギアに来るといいよ」
「……それもいいですね。考えておきます」
それでも考えが当たっているのは嬉しいものである。それに加えてガーベラは裏表なく褒めていそうで、そのことがさらに心を慢心させる。本当に、こんな事態になっていなければ未来の選択について幾らでも喜ぶことができたのに。エリスは鼻で笑った。
「目録には図書室にある全ての本の情報が詰まっているんだ。特に魔導書は歴代の持ち主と表れた呪文とその効果まで記載されている。君も魔導書に選ばれた後、申請を出しただろ?」
「……いいえ。残念ながら私、魔導書を持っていないので」
「ああ、そっか。そうなのかい?」
「ええ、ですから私が容疑者であるというのも——」
「それはどうだろうね。人にバレないように魔導書を手に入れる方法も少なからずあるだろうし、それに、禁書庫の魔導書なら尚のこと簡単に出来るかもしれない」
「まだ5%だと?」
「んー……スケアバーテンが魔導書の魔法で殺された以上、アレイスターの呪文分は引いてもいいかな。4%で」
「全然変わらないじゃないですか!」
ケラケラと楽しげに笑うガーベラが余裕ありげに見えてすこぶる腹立たしい。それでもと、エリスは感情的になったことを反省し、咳払い一つで呼吸を整える。
自分の無罪を認めさせるには彼女がいなければならない。
追い詰められた犯罪者の如く、疑う者を排除していけば、いずれ逃げ道がなくなるだけだ。それならば審判を下すものに自分が確定的な無罪である証明を見せるほかない。ガーベラがその証人となるように仕立て上げなくてはならない。
それに、重要な情報も手に入った。
(まさかとは思っていたけれど、目録には魔導書の魔法の情報も載っているのね。だとすれば、その見た目や特徴が載っていてもおかしくはなさそうだけど)
思い返すのは客間でのやり取り。エリスがくすねた四冊の本。たしかガーベラは、あの本たちの目録をユーカリ先生に見せてもらったと言っていた。禁書庫の目録があるのなら、エリスの持つ黒い魔導書の情報もあるはずだ。それを知ることができれば、今後確信を持って動くことができる。
だがそれでいて、ガーベラに目録を見られてはならない。
禁書庫にスケア殺しの凶器となり得る魔導書が見つかれば、エリスがさらに疑わしくなるのは必然だった。同部屋、範囲魔法、直前にはその禁書庫に。逆になぜこれだけの状況証拠で未だ4%なのか疑問すら湧く。
むしろガーベラが本当にその程度しか疑っていないのであれば笑いものである。
故に先に見つけ隠す。それしかない。いやだめだ。エリスは頭に浮かんだ案を即座に否定する。
障害となるのは探索魔法。一度見た物ならどんな物でも探し出せてしまう。たとえ星の裏側へと隠そうとも、膨大な魔力があれば探し出すのは容易。
ならばこの世から失くしてしまえばいい。
ガーベラよりも先に見つけ、燃やしてしまえばいい。
だが——。
エリスはチラリとガーベラの様子を伺った。やはり何かを考え込んでいるのか先ほどから繰り返し間抜け面を見せている。
「…………ところで、ガーベラさんって結構若く見えますよね。お幾つなんですか? あ、答えたくないからって疑わないでくださいよ」
「歳か……ちょっとまてよ」
そう言いながら指を折り始めるガーベラ。エリスはその光景にしばし絶句する。
「えっと……まさか自分の歳も覚えていないんですか?」
「あのね、年齢ってのは誰かが数えてくれないと自分ではわからないものなのだよ」
それはつまり祝ってくれる者がいないということ。エリスは気づきながらも何も言わず、哀れみの目を送る。
「おいおい何なんだいその目は。逆に聞くけれど、君は自分の歳を答えられるのかい」
「当然ですよ。15です」
たぶん。心の中でそう付け加える。フィルがそれくらいだと言っていたので背がやや小さいだけの自分もそうだろうと。
「15で一年か、一般的だね。ちなみに私は最年少入学。あ、そうかあの時が11だから今は……」
魔導学園に年齢制限はない。その気になれば赤子もペンを動かし、老人は制服を着るだろう。それでも当然のことだが、入学には試験があり、生きていくには金がいる。無知な子どもも、いつまでも学徒でいられぬ大人も学園には全くと言っていいほどいない。
エリスは自分が11歳の頃、つまりは四年前の自分を思い出す。その頃の自分が学園に入学できただろうか。考えるまでもなく不可能だ。あの頃は誰もが魔法を使えることさえ知らなかった。無知で無垢で純粋。夢と期待に満ちていたお年頃。比べてみれば、よほどガーベラは優秀な人間なのだと羨ましくなる。
「えぇっと25……26だったかな」
「さあちがうんじゃないんですかね」
「なら27? いやいや君も知らない……待てよ、所長が去年で600の節目だと言ってたから……」
「かもしれないですね」
と、ガーベラの足が止まる。さては気づかれてしまったのだろうか。確かに無理矢理すぎた。エリスは反省し、言い訳を考える。その間、体は自然体に後ろを振り向き、務めて冷静に、気取られないように澄まし顔を作る。ゆったりと瞬きをし、不満げなガーベラを捉えて口を動かす。
「どうかしましたか?」
「……君、さっきから相槌が雑だな」
「興味ないですからね」
「興味って……君が聞いてきたんじゃないか!」
「そんなことよりもうすぐ着きますよ」
バレてはいない。そんな様子はない。それとも相手が一枚上手だろうか。全てを見透かし、あえて泳がせているのだというのなら、それほど心臓を縮め上がらせるものはない。エリスは少し間を空けて、ガーベラの前を歩く。目を合わせれば、考えていることが全てバレてしまいそうだった。
図書室は校舎の一階にある。というよりも一階のほぼ全てが図書室にあたる。残されたのは長い廊下。それが図書室を囲むように続くのだ。正門から進めば真正面。寮からは廊下を回り込むように歩かなければ図書室の扉には辿り着けない。
重厚で謙虚。派手な飾りはなく、一本の大木が彫られた石の扉。その重さと生み出す摩擦により人間の力では動かすこともできない。開けるには開閉魔法が必要だ。
エリスの手のひらに石の凹凸とした冷たさが伝わってくる。
「…………」
「どうしたんだい。開けないのか?」
「いえ、ふと思っただけです」
「何を?」
「そうですね、マギアの方ならわかるかもしれません。けど……くだらないことなので」
精一杯、含みを持たせて、もったいぶる。ほら、聞いてこい。気になるだろう。先輩風を吹かせたいだろう。そういった企みが顔から滲み出てしまいそうで、エリスはずっと扉に視線を落としていた。
「何だよ気になるなぁ」その言葉を聞いて僅かに口角が上がる。
「いえただ、同じ魔法でも唱える呪文のパターンだとか、単語はいくつもあるのは何故かと思って」
呪文を唱えてから何秒が経過しただろうか。
言い渋ることもできたが、逆に怪しまれかねないので、エリスは素直に口にした。扉を見て思い返すのは昨夜。学園長がかけた魔法を解こうと躍起になった夜。
「例えばこの扉を開けるだけでも、オープンとアンロックの呪文があるじゃないですか」
他にもキーターンと唱えた記憶もあったが、あちらは鍵を回す魔法。図書室の扉に鍵穴はないため、唱えても開くことはない。
現代呪文論を形成した人間が複数人いただけだ。魔法における超高等技術。いわゆる魔術分野の者が千年より前にそれぞれの時代や地域で呪文を作り上げた。流通の進歩により異国文化の入りやすい現代では、各地域で発展してきた呪文が混ざり合っている。
エリスは知っている。こんなことは呪文学の初歩。歴史の教科書にも書かれていた覚えがある。聞くまでもないこと。だが、ほんの少し時間を稼ぐことができた。
「何だそんなことか。単純だよ、それには呪文を作った魔術師の地域差が——」
「ストップ!」
刹那。野太い男の声がガーベラの解説を遮ったのと同時に、身体中を糸で縛られたように動かすことができなくなる。四肢の先まで力を込めてもピクリともせず、瞬きも許されない。当然ガーベラの口も止まり、廊下にはやや早歩きな靴音だけが響き渡る。
それは一つの賭けでもあった。
ある男が学園にいなければならなかった。その男がある物を追いかけてくる必要があった。そしてある場所へと辿り着くまでに追いつかれてはならなかった。
「ムーブ」
張り詰めた糸が突然途切れ、筋肉が誤作動を犯したかのように全身に力が入る。膝は曲がり、手指は握られ、口はニンマリと吊り上がっている。エリスは確信した。その声の主に心当たりがあったからだ。
「やあ、これはこれはナルバナ先生……あー今は学園長様だっけ。これは何の真似かなです」
「おかしな敬語だなガーベラプランテスト。君の後輩を見習い給え。ですますを安易に付けたところで敬意も上品さも醸し出されることはない。嘆かわしいことだ。ベルナルースから魔法学以外は教わらなかったらしい」
「それはお互い様。一応立場としてはまだ貴方の方が上だからつけたんだ。すぐに追い越すけどね」
「ぬかせ青二歳が」
マギア魔導学園学園長。知らぬ人はそれ程いない有名人である彼と、ガーベラが軽口を叩き合う様子をエリスは後頭部で感じる。知り合いなのだろうか。ガーベラの年齢を真に受け彼女を二十代とするのなら、学園長とは二回りは歳が離れている。短く整えられた髭。純白の混ざる灰色の髪。
本年、歴代と比べ若くして学園長に就任したこの男と、最年少で学園に受かった神童が犬猿の如く火花を散らす。
つい数日前まで魔導書に選ばれず嫉妬の海底にいた少女は、ただ一人笑みを浮かべていた。
賭けに勝ったのである。
興味もない会話の中に無理やり呪文を忍ばせる危険を冒したかいがあった。無知を気取り僅かでも時間を使ったかいがあった。程度によれば、強い疑いを向けられたかもしれない。それでもだ。それでもエリスは学園長をここに呼びたかった。同じ罪を背負う者を図書室に。
使ったのは探索魔法と手繰り寄せの牽引魔法。手繰り寄せたのは学園長が持っているであろう禁書。数日前、禁書庫で見かけた学園長が持ち去った本である。
たとえ学園長であろうとも、禁書庫の本を持ち出すことは禁止されている。それがこともあろうに、図書室へ向かって宙を舞うのだ。追いかけないはずがない。そこにマギアの人間がいれば、どうしたか。答えは言わずとも明白。
魔法を使い自ら疑惑を深めた。ただそれだけのことだが、確かな情報のない今、怪しい行動をとる人物は当然怪しまれる。
思い描いた通りに事が運ぶのは面白い。それでもまだこれは序盤にすぎない。禁書庫の目録を見られたくないのは、きっと学園長も同様。ガーベラが目録を調べることを阻止してくれるはずだろう。そしてより疑われる。エリスは笑みを殺してゆっくりと振り返った。
——目。
琥珀の双眸。それがただただひたすらにエリスを捉えていた。深いクマがその表情を隠し、落ちる視線にだけ注意を向かせる。観察。実験対象を見るような楽しげなものではない。未知を知る喜びなど微塵も感じられない。分類。エリスの表情、仕草、動作、その全てを経験や事象に当て嵌めている。無心でパズルを嵌めているような真剣と虚無の同居する瞳に身震いが起こる。
「ところで、図書室に何かようかな? ガーベラプランテスト……そしてエリスハウメア」
瞬き一つ。ガーベラはくるりと振り返る。エリスははっきりと安堵の息を漏らし、慌てて口を押さえる。緊張から解き放たれた、ただの生理現象だというのにどれもが踏んではいけない罠に見えた。
(4%どころじゃない……50、いやそれ以上)
疑われている。紛れもなく、その事実だけがエリスを支配する。
(確信を求めている。今はまだ、魔導書が浄化されたから、私を100%と断定できないだけで……。それでも、ほぼ確実なんだ。私がスケアを殺したとガーベラプランテストの中では決定している)
どうすればいい。疑いを晴らすには、どうすればいい。エリスはキッとガーベラを睨みつける。楽しく談笑しているというよりは、嫌悪感丸出しの作り笑い。これもまた確信。唐突に魔法をかけた学園長のことなど微塵も疑っておらず、確信的に私だけを疑っているのだとエリスは直感する。
無理だ。
深い深い絶望感。体の表面から熱が消え去り、場違いな温もりを心臓だけが持つ。息苦しさと早い鼓動が思考力まで奪おうとする。
まだだ。エリスは首を振った。確信がないのなら、まだ安全だ。どれほど疑っているのか正確にはわからないが、逮捕されていない現状、決定的な何かがあるまでは逮捕しないのだろう。
だが、疑われている。その事実が心底憎い。自由とは程遠い懐かしさすら感じる捕縛感。劣等、嫉妬、憎悪。思い返せば自分の人生は悪感情に支配され続けている。
解放されたい——。
(……疑いを晴らすには、確実性がいる。私が犯人ではないと、確定させる真実がいる……っ)
強い決意はガーベラへと向けられる視線となって表される。屈辱から絶望へ。絶望から憎悪へ。そして憎悪は憤怒へ。腹の奥底から静かに炎が這い寄るのをエリスの冷たい心は感じ取っていた。
「ところで? …………どうもここ最近私の質問が無視されることが多い気がするなぁ。ま、答えてあげるよ。目録を見に来たんだよ」
「目録? ああ、なるほど。しかし、何のためにだね?」
「……そんなの、事件の解決のために決まっているだろ」
「事件のぉ?」
学園長はまるで耳の遠い老人のようにそばだて、無知な子どものように眉をひそませる。大袈裟な彼の態度が気に障ったのか、ガーベラはガシガシと後頭部を掻き始めた。
「そうだよスケアバーテンが死んだ事件。聞くところによると情報統制から生徒の心のケアまで学園長がしてくれたらしいね」
そこは素直に尊敬するとガーベラはお返しと言わんばかりにわざとらしく手を叩き褒め、しかしと一転、醜い汚物を蔑むような目つきが向けられる。
「まさかマギアじゃなくて憲兵に連絡するとは思わなかったよ」
「はて、何を馬鹿なことを? 事件が起これば調査をするのは警察。この国で言えば憲兵だが、彼らに連絡するのは当然なことだと思うがね。それとも、まさかマギアの者だけで内々で処理しろとでも言う気か?」
ガーベラがチラリとエリスを見る。赤黒い瞳はどこか冷めた目で、それでいて情熱的な視線を感じさせる。図星。生徒の前では世間体を気にしてか強気に肯定することもできない。
「むしろ感謝してもらいたいものだ。世間体を守ったのはこの私のおかげなのだからな。人死も病死であり、国の公的機関が言うのなら信憑性もある。わざわざマギアで蒸し返す必要もないんじゃないのか」
スケアが病死であるということ。それはエリスにとっても都合が良いことだった。一介の学生が割り込める余地のない会話の中で突如見えてきた希望。全く意図していない流れだったが、学園長を呼べたことには神様にさえ感謝の謝辞を贈りつけたくなる。
だがガーベラにとっては、とてもそうはいかない。
「……わかっているだろナルバナ。アンタもこっちの人間なんだから」
豊作の異変。人為的な魔導士の増産。学園長に成り立てでも魔導士ならその危険性が理解できる筈だ。その調査と解決への協力はマギアからも間違いなく伝わっている。勘の鋭い犯人へと立ち向かうには、隠れ蓑がいることも。
「わかっているとも。だが、大きすぎる」
「ああ、大きすぎる。故にだよ」
「……繋がりは?」
「ない」
意思疎通の取れた会話。だが、側からすれば何一つ理解ができない。エリスは頭に疑問符を浮かべ静かに二人を待つ。
やがて学園長は大きくため息を漏らして、目頭を摘み何かを考え込んだ。
「……目録を見れば、現在誰がどの魔導書を持っているのかがわかる。そうすれば、スケアバーテンを殺せる魔法……いや、殺せない魔法の持ち主は候補から外せるわけだ。生徒教師含め263人。絞り込む必要があると」
こくりと頷くガーベラ。それは自ずと豊作の絞り込みにさえ繋がる。マギアの人間であれば、たとえ禁書庫から持ち出す重罪を犯した人間であっても断ることは出来ない。
まるでガーベラ側に傾いているように呟く学園長に、エリスは視界がボヤけるほどの渦に飲み込まれたような苦痛を味わった。目まぐるしく思考が安定しない。学園長の言葉を一つ一つ咀嚼しようとするのに、信じがたい未来を予期してそれが一音の疑問として何度も湧き立つ。
「わかった」
は?
「ただし、私にも目録を見させてもらうがな」
思考の停止。雑念がない分、学園長の言葉がするりと耳を通り脳へ辿り着く。どれほど拒もうとも染み込むように理解できてしまう。耳を疑いたい。聞き間違いだと信じたい。しかし無情に近づく学園長が扉に手をかざす。
「オープンマジック」
石の扉が奥へと進む。地響きも摩擦音もなく、図書室の利用者に配慮した静寂。直感と反する非現実な光景が夢にさえ思えた。否、夢ではない。エリスははっきりと理解していた。それでも理由がわからない。何故、学園長は目録を見せる気になったのか。自分がローブに隠した禁書はバレないとでも思っているのか。
(いいえ違う。どんな本でも本棚になければ、探索魔法を応用して探すはず。目録はその手掛かりであり、見られたくはないとお前も思っているはずなのよ。それに禁書庫の本が無くなっているというのは重大な事件なんだから。いくら学園長だろうとも罰を受けるハメになるはず。……不本意だけど私も)
エリスの手が力を込める。黒い魔導書が入った鞄の持ち手が一段と歪む。何とかしなくてはならない。だがどうすればいいのか。
動く扉が短い猶予を与えてくれる。しかしそれが死刑台に登る階段にさえ思えてくる。
(魔導書の存在がバレれば、呪文を唱えさせられる。それはいい。別にいい。唱えて欲しいというのなら高らかに唱ってやるさ。お前たちの命と引き換えの子守唄になるか、肩透かしでスケアに捧げる鎮魂歌になるか。どっちでもいい。問題はその後、ガーベラが死んだその後だ)
ガーベラの死。エリスが鞄を返された後も一度も中を見ず、魔法の効果を確認しようともしない理由がそこにはあった。
ガーベラプランテストだけは、殺してはいけない。
それは単に無実の証人としてではない。彼女が死ねば、今後もマギアから追加の調査にやってくるはずだ。今は何故か一人だが、二人三人と増えるだろう。その時に疑われるのは誰だ。考えるまでもない。疑われ、ずっと側にいた人間がどうして、怪しくないと見える。
断崖絶壁。逃げ出すには一方向の魔導学園。人員が増えれば、人探しに打ってつけの魔法や魔導書があったなら。逃走は悪手。
始めから、エリスに残された道は常に一つだった。ガーベラからの疑いを晴らすことそれだけだった。
エリス自身、確信があった。スケアを殺したのは自分であるという確信。故に魔導書の存在を知られるわけにはいかない。故に目録なんて見られてはいけないのだ。
だが、しかし、されど。
扉が開く。明るい照明に照らされて読み手を待つ背表紙たち。解放的な吹き抜けの天井に向かって伸びる本棚とそこに収納される無数の本。低い本棚さえ規則的に並び立つ姿にはむしろ閉塞感がある。辺鄙な島で育ったエリスにとっては来るたびにその上品さに圧倒され続けたが、今はその余裕ある煌びやかさが疎ましい。
吹き抜けの天井を支える中央の柱にはカウンターがあり、そこに一人の女性が座っていた。
メガネのレンズの中、アクアマリンのような透き通った碧眼に三人の姿が映される。女は読んでいた本に栞を挟み、机に置くと居住まいを正す。
「エリスにガーベラさんに学園長。奇妙な組み合わせだ」
「やあ、ユーカリ先生。数刻ぶりだね、少し君に頼みたいことがあるんだけどいいかな」
「うーん、断ることができるなら断らせてもらうよ。今いいところなんだ。金持ちのお嬢様が連続殺人鬼に誘拐されたところでね。探偵役が過去の死体から犯人の心情を辿っているところなのさ」
「ああ、その小説シリーズものなんだ。トリックもその後のオチも最悪でその作者に推理ものはできないと確信した本だよ」
読んでいる本を酷評されてもユーカリは不機嫌になるわけでもなく、確かにそうだと笑う。
「しかしだね、つまらないからと言って切り捨ててどうする。私はね、楽しんでいるんだ。物語を? いいや成長をだよ。作者のね」
「どうせ読むなら物語も楽しむべきでは?」
ウダウダと本の内容を話す二人。今日あったばかりだというのに長年の友人のような仲の良さ。エリスは未だ解答が出ずその様子を歯痒い顔で見つめている。まるでわざと延命されているように感じられる。目録が出てくればそれだけで終わるのだ。その状況を皆が察して冷や汗かく自分を楽しんでいるみたいに思えた。
「すまないが、ユーカリ。この図書室の目録を見せてもらいたい」
死刑台のボタンを押したのは学園長だった。くだらない小説のくだらない話よりも大切なことがあるのだと言いたげに、平然と目録を要求する。学園長自身、肌身離さず持っているその本の存在はバレたくないはずなのに。
「学園長命令なら仕方ない」
ユーカリはキャスター付きの椅子を引き、カウンターの下へと上半身を潜らせる。棚か引き出しでもあるのか、カサカサと紙の音が聞こえてくる。
どうするべきか。答えが出ない。
燃やすべきだ。悪魔の囁きが最終手段を推し進める。
エリスは近くの椅子に腰掛けた。鞄を目の前に置き、悟られないように手のひらを天に向ける。そしてあまりにも小さな呟き。静寂を常とする図書室にさえ響かない羽が地に落ちるような小声。対象は左手。その人差し指の先。
「ファイア」
魔法は魔力の変化だ。生まれ持った魔力が様々な形や属性、動作に変化してその効果を発揮する。呪文はその補助、いわばトリガーになる。今唱えた呪文は魔力を炎にするもの。放出や造形など特別な呪文はない。それでも魔力は自然と垂れ流れるものである。故にエリスの左手人差し指は微かな熱を持つ。触れれば、物は燃焼する小さな種火が揺らめいている。
「これで全部かな。でも何に使うんだ?」
「……悪いね。君はマギアの人間じゃないから全部は言えない」
「なるほど。大方、スケアの死の真相を確かめに来たというとこだろ? 犯人は魔導士。誰か確定できなくても、候補から外すこともできる」
「…………驚いたなぁ。正解だ。読心魔法かい? 聞いたこともない魔法だけれど魔導書なら可能性はあるからなぁ」
「残念ガーベラさん。今のは魔法じゃない。私の洞察力、推理力、推察力……私が持つあらゆる力の集大成。つまりは成長だよ」
だとするならば相当に優秀な人間なのかもしれない。ガーベラは素直に関心し、学園長は無関心で目録を漁る。その背後でゆったりとエリスは席を立った。
「本は良い。本は私たちに知識を授けてくれる。知恵を運んでくれる。知能を高めてくれる。本を読めば誰もが成長することができる」
「そうだね。私も結構な読書家だよ。そこの学園長もそうみたいだし。エリスはどうだい?」
「えっ、……本はあんまり」
唐突に話を振られて足が止まる。ガーベラが振り返るのより早く左手を隠し、後から違和感を持たれないよう右手も隠す。
「とか言って、本棚に近づいているね」
「わかるよエリス。本はあれば読みたくなるものだ。タイトルか装飾か本の厚みか。気になったなら手に取らずにはいられないんだ」
「そうですね。長い物語は眠たくなるけどこれくらい薄かったらなんとか」
拳を握りしめ本を取る。指に纏わせた魔力は本来のエリスの魔力によりその炎を鎮めてしまう。問題はない。むしろよかった。今、火を放てば放火犯はすぐバレる。エリスは反省する。冷静ではなかった。スケアの死と同じだ。これから犯す全ての犯罪に可能性を残すことは許されない。
今重要なのは目録。全て有耶無耶に出来ないのであれば、すべきことは自分の魔導書の情報が載っている目録を探すことだ。エリスはまたゆったりとした足取りで三人の元へ歩き出す。
「そんなことよりもだ。ガーベラさん、私が言いたいのはね。ごめんなさいだよ、ガーベラさん。私は貴女に謝らなければならないことがあるんだ。私は本を読むのが好きでそれ以外のことはそこまでって感じなんだ」
「……急になんだい? 何が言いたいんだ?」
「言いたいことはごめんなさいだ。読むのは好きだけど、書くのは苦手。ライトダウンマジック。書き写す魔法。便利な魔法だ。どうやらあれは初歩級の魔法らしい。視覚情報を魔力が筆に伝える操作魔法の一種。でも、私は使えなかった」
唐突に脈絡のない話。意図の読めない話をする彼女に少しだけガーベラの胸に疑心が湧く。それと同時に脳の一部分がある答えに辿り着き、全貌の見えない予感が肝を冷やそうとしている。
「書くのは苦手なんだ。特に今年は豊作って言うんだっけ、才能の年だっただろ。一年生がバカスカ魔導書に選ばれていったアレ。数が多いし、今年配属されたばかりだったんだ。わかってくれるだろ? 言いたいことは一つ。ごめんなさいだ」
嫌な予感。虫の知らせ。言い訳をする子どものように回りくどい言い回しをするユーカリ。ガーベラは一枚だけ、目についた目録を辿っていく。この図書室にある蔵書。
魔導書の項目。そこには見た目や魔法系統の記述がある。歴代の魔導士たちが紡いできた歴史がある。だが、現魔導士の記載は一切ない。わざわざ設けられた所有者の欄は、空白だった。捲っても捲っても殆どが空白。
「目録に魔導書の現在の所有者を書き写すことができていなくて、ごめんなさい」
「…………」
ツイていない。ガーベラは一言も発さず目録を眺める。何故だかわからないが、犯人へと繋がる近道ばかりが塞がれている気がする。
現場に残された魔力から一致する犯人を簡単に見つけられる魔法では、その一致する魔力が見つからず、容疑者を絞るための目録はこの有様。お陰様で異変も殺人も犯人に繋がる情報が得られていない。
魔法は絞れていた。可能性ではあるが、他者が魔導書に選ばれるようにする魔法は絞れていた。
心。精神。思考。感情。人の内面に影響する魔法ならば、魔導書に選ばれるよう仕向けることができるはずだ。だが、目録がこれでは誰が魔導書を持っているのかがわからない。
「…………あー、でも、あれだよね。申請書。確か、魔導書を持った生徒は申請書を出す決まりだったはずだ」
それが有るなら自らが書き写してしまえばいい。一年生が大半とするなら百は超えるだろうが、それでも二日とかからない。膨大な魔力を消費するだろうが、幸い学園長もいる。
「なるほど。いい考えだ。私が学生時代に青春を謳歌できず、今の学生達に負い目を感じていたなら素晴らしい考えだっただろう。……しかし残念。これは自慢だが、私の学生生活は薔薇色だった。学業から色恋まで順風満帆。当然今の学生達、図書委員なんかに厚かましく物を頼むことなど造作もない」
故に。そう言って小さな紙の束を取り出す。一番上の文字を見れば、それが申請書であることは分かった。言い回しのややこしい彼女の言葉を紐解けば、書き写しは学生たちがしたということだろう。問題があるとすれば、その申請書の枚数がどうみても百、その半分にすら満たないこと。
「だが残念。入学式が終われば新一年生は虫の如く図書室に群がってくる。そして次々と魔導書に選ばれるわけだ。一人や二人ならその場で申請させるさ。しかし、十、二十となると話が変わる。後日提出せざるを得ないわけだ」
そうなれば、どれだけの生徒が規則を守ってくれるのか。学校側が厳しく対応していたのならこんな事態にはならなかっただろう。
だがしかし仕方がない。豊作など前例のないことを即座に対応するのは難しい。今年は人員の入れ替わりも激しく学園長も新任だ。そう仕方がなかったのだとユーカリは弁明する。
「報告しなかったのはユーカリの怠慢だ」
「……くっ。致し方なし学園長。反省の意を見せるため減給には言及しないでほしい」
「洒落を言う余裕はあるみたいだ」
それにしてもとガーベラは頭を悩ませる。まさか異変の弊害がここまで出ているとは思いもしなかった。スケアの殺人は兎も角、異変の解決に繋がる手がかりがないというのは困ったことだ。
(死の魔導書もエリスの持っているものの可能性が高いけれど、目録上での所有者はいない。禁書庫にあったのだから当然。逆に言えば禁書庫に入った者が怪しいのも必然)
ガーベラの中でエリスは確定的だった。魔導書の存在も、その可能性もわかっていた。しかしそれをエリスに伝えることはない。犯人が分かれば、そこで調査をやめなくてはならない。
それでは異変の解決もできなくなる。何よりも優先すべきは豊作の異変の犯人探しなのだから。
異変への手がかりのない今は、エリスを観察し続けるしかない。彼女の人となりを知り、監視をする。これ以上、推定死の魔導書による被害が広がないように。
故にエリスは知らない。すでに魔導書の目録を見られていることなど、考えすらしない。ガーベラと学園長の隣。僅かな隙間に潜り込むようにカウンターに並べられた目録に目を写す。禁書庫の物は、右。学園長の前にあった。長いローブの袖に隠された目録、そこにシワつく手が伸びる。
抜き取った。確かに、ガーベラは見ていた。エリスの背後から、学園長がローブの中へと目録の一枚を隠すのを捉えていた。違反。重罪。だが、咎めることはしない。ガーベラは気づいていた。マギア魔導学園の学園長が、何かを隠そうとしている事を。
それが何かは知らない。だが、異変や事件とは関係がないことも直感的に気づいていた。マギアの人間であること、それだけで異変とは無関係。少しばかし決めつきすぎだとも思うが、可能性としてはあまりにも低い。そしてスケアバーテンの死。それを無理に病死としようとするところは怪しい。だが、むしろ怪しすぎる。
仮にこの男が犯人だと仮定して、動機はなんだというのか。なぜスケアバーテンを殺すというのか。怨恨、衝動、実験。幾つもの可能性を考えてみる。しかしガーベラは過去の記憶からすべてを否定する。
この男とマギアや学園で会ったのは数回程度ではない。かつて教鞭を取っていたこの男が教え子を殺すなど、自分の首を絞める姿など想像もできない。
故に見逃した。むしろ見逃して、彼が意欲的に協力して貰えるなら万々歳だ。彼が隠したがっているものにさえ言及しなければ、異変も事件も邪魔されることはないのだから。
「……今、学園長。何をしたんですか?」
「むっ」
だが、それはエリスには関係のない話だ。わざわざ呼び出したこの男が、自分の隠し事のみを隠しきり、何かよくわからないマギアだけの事情で敵対されては困るのだ。
「袖の中のですよ。今、紙を一枚隠しましたよね?」
「……いいや、何かの見間違いではないか?」
「どうですか、ガーベラさん、ユーカリ先生。私の見間違いだって言うんなら引き下がってもいいんです。学園長が目録を、それも禁書庫の目録を抜き取った可能性を残して、引き下がってもいいんです」
そう言われてしまえば誰も言及しないわけにはいかない。だが、ガーベラにはわからなかった。考えるに、エリスは黒い魔導書の目録をなんとかしようと来たはずだ。ならば、例えば自分が盗み、追求された時に、今の学園長の行動を同じように追求すれば、少なくとも言動次第では学園長を味方につけることもできるかもしれない。
「サーチ。……おっと、学園長先生。これはマズイ。本当に盗ってしまっている。それも五枚だ。これは——」
「待て待て待て。……しまったな、ほら、ローブ。長いだろう? こんなペラい紙切れだ。つい引っかかってしまったみたいだ。盗った? 人聞きの悪い事は言わないでくれ」
そう言ってローブから四つ折りにされた目録のページを一枚一枚並べてゆく。
「ほら、返そう。ほら。ほら。これで良いだろエリスハウメア。まだ疑うか?」
「いいえ。ローブに引っかかってしまったのなら仕方ありません。それでも残念ですねガーベラさん。所有者がわからないのでは、この図書室で得られる情報も皆無ってことですから」
自信。高い自信の表れがエリスの表情から見て取れる。赤黒い流し目に口角が僅かに上がっている。目録は盗ってはいない。ガーベラは注意深く見ていた。エリスの手は、目録に触れてさえいない。
「……そうでもないよ。犯人が魔導書を使っているのは間違いないからね。後は、犯行可能な魔導書が目録通りに図書室にあるか調べればいい」
「なるほど。確かにそうです」
頷くエリスはチラリとユーカリを見た。
「ですが、例えば、魔導書に限らずとも普通の本が棚にないかもしれません。私は少しだけユーカリ先生にお世話になった御恩があるのですよ。恥ずかしい話、魔導書を持っていなかったから。この才能の一年などと揶揄される学年で少数派にいたわけですから」
だから、ついでになくなった本も炙り出そうと提案する。憎らしく、嫉妬深く、怒りに満ちた目が一瞬覗いた気がした。
「おいおい、そりゃ今年は豊作だったけどもいつもがそうってわけじゃない。今回だけが特別だ。普通なら魔導書を持っていない生徒の方が遥かに多い」
「それでも今年は、私は遅咲きなのですよガーベラさん。貴女は才女ですから、もしかしたら早かったかも。それとも遅かった? 一年、あるいは二年。けれど、私の歳を越さないでしょ?」
「それは……そうだね」
やけに感情的だ。エリスにとって自分と同じ年代の子どもたちが次々と魔導士になっていくというのは相当耐えられない事だったのか。自尊心、その高さ故なのか。ガーベラは助け舟を求めて学園長を見るが、彼もまた才能があったことを思い出す。そうでもなければ学園長にはなれない。ならばとユーカリに求めるも首を振られる。
彼女はマギアの人間ではない。魔導学園はもちろん他のマギアが運営する学園にすら通っていない。実績のない人間。それでも魔導学園で司書をやれるだけの実力はあるのだろう。そんな人間の同情はただ惨めさを助長させることをユーカリは知識として持っていた。
「……ごめんなさい。少し、取り乱してしまいました。とにかく、どうせならなくなった本も探しましょう。特に禁書庫を」
「……え?」
エリスの言葉に三者が首を傾げる。
「当たり前ですよ。見てください、ガーベラさんが携える本。あれは禁書庫の物です」
「あ、ああそうだけど。ってこれは——」
「そうですよ。私が盗んだ物です」
衝撃的な発言。あまりにも平然と答えるエリス。その言葉にユーカリはチラリと学園長を伺い、学園長はお返しにユーカリを睨む。禁書庫へ続く道はカウンター裏の柱にあった。門番として居座るユーカリが機能していなかったということだ。だが、そもそも学園の責任者は学園長のものでもある。ユーカリの目は申し訳なさそうに伺い立てる。静かな責任の押し付け合い。
「まあまあ学園長。ユーカリ先生も仕方ありません。私が忍び込んだのも真夜中、誰もいない図書室から禁書庫に向かうのは簡単でしたよ。それにしても変ですね。禁書庫への扉は当然魔法がかけられていたけど、まるで毎回誰かが通りやすくするためにわざと弱くしてあるみたいでした」
強い魔力で施錠すれば、同等の魔力で解除する必要がある。逆に、弱ければ弱いものを。その分労力は要らなくなる。エリスは青ざめる学園長を他所に言った。これだけ弱ければ、他の誰かが忍び込んでいても不思議ではないと。
「なるほど。そうなると確かに怖いね。禁書庫の本がなくなるなんてマギアの上層部が知れば、どうなることか。エリスもこれらの本で全てかい?」
「何処かに隠していると? いいえ。それで全部です。もちろんライアーマジックは唱えていません」
白々しい嘘つきに対してガーベラは言及できない。魔導書の所在は今、腕の中にあり、そのことをエリスは知らない。ならこれは何だと見せつけて、自分のものではないと言い張る未来。十数メートル離れ所有者を確定させて、それが死の魔導書だった場合の最悪な未来。それが見えているのなら、ここで取るべき行動はエリスの言葉に賛同する以外にない。
「ユーカリ先生、学園長。それでいいかい?」
「もちろん。私の仕事が減るなら歓迎するよ」
「…………っ」
「学園長?」
「いいや、ならん! ダメだ。禁書庫に入る事などたとえガーベラ、お前でも許さん」
突然、学園長が声を荒げる。何を焦っているのか、額から汗が流れ、チラリチラリと折り目のついた目録へ目線が動いている。誰がどう見ても学園長は禁書庫の本を保持していることがわかる悪手。
「それでもというのなら、この私だけで確認する」
「ダメです。そうでしょ? もし学園長が盗人だったらどうするんですか? その長いローブの下に禁書があったなら」
「私はマギア魔導学園の学園長だぞ。そんな真似をするはずがない」
している。惨い。惨めだ。ガーベラは呆れた息を漏らす。学園長ナルバナレシングは出世欲の強い男だ。ガーベラも快く思わないほどの利己的な人間だ。はっきりいって嫌いだった。それがこんなにも狼狽している。いい気味だとか面白いだとか愉悦は一切感じない。ただ歳を取ったことを実感する。ガーベラの知るかつての狡猾さが削ぎ落とされた姿が痛々しく思えた。
和かだったのはエリスだけだった。
「どうですかね。ほんとですか? 信用できますか? できませんね。確認は全員で行いましょう。それが確実なんですから。すべきことは可能性の排除です」
「おい待て。落ち着け、冷静になれ。学園長だぞ? 少しくらいは信用してくれないのか?」
「学園長、私はすこぶる冷静です。落ち着いています。すっごくすっごく。さっきまで荒ぶっていた波が収まって、進むべき道をお天道様が晴れやかに照らしているのです」
実際そうだった。エリスの心には怒りや焦燥の色はない。覚悟を決めたとも違う。もはや目録をどうこうする必要がない。重要なのは、目録にある魔導書を自分が持っていることだ。持っているから疑われるのであれば、返してしまえばいいのだ。その答えに辿り着いている。
始めは、目録があるというのなら自分が持っている魔導書についての情報もあると考えた。それがスケアを殺したというのなら、ガーベラに情報を与えるわけにはいかないと。だが、その魔導書が盗まれていないのであれば? それについて考える必要がなくなるだろう。盗まれていないのだから、スケアを殺した魔導書だとは断定できない。
落ち着いて見えてきた解答が紛れもない正解であるという絶対なる自信。目録を見られないようにするのではない。目録をあえて見させて、棚にあるという証明をする。清々しい。今は心の中が晴れ晴れとしている。必要だったのは冷静さだった。エリスの笑みは慈愛を振り撒く聖母のような余裕で満ちていた。
「ですが、お天道様が言うのです。慈悲を与えてもいいんじゃないかって。そこまで学園長が言うのであれば蔵書の確認もしなくていいんじゃないかって。具体的には、ほら、金品だとか成績だとか特権だとか将来的に有利になれる実績をくれるのでしたらね?」
「いいわけないだろ。禁書庫の本がなくなるなんて一大事。でも学園長がどうしてもって言うんなら、給料の増額で許してもいいかもしれない」
「こらこら、私はマギアだからな。流石に見過ごせないよ。たとえ、ここで学生時代の非礼を詫びられても、誠意がなければ報告させてもらうからね」
「くそっ、とんでもない女どもだ。恥を知れっ」
学園長はしばらく力を入れ、肩を震わせていたかと思うと開き直ったように落ち着き払う。
「……たとえ、ここで君たち魔法をかけるのは簡単だ。秘密で縛る魔法。何度も唱えている分、熟練度は高い。君たち三人を相手取るより遥かにマシだ」
少なくともエリス、そしてユーカリを相手にするのは造作もない。子どもと戯れるよりも容易いことだった。だが、ガーベラは難しい。彼女の持つ魔導書のことを考えれば相手にもならないだろう。しかし辛うじて一つくらいなら魔法をかけるのは可能。
「だが、継続は不可能。私の魔力を定期的に貴様らのためにかけ続ける労力は額を床に擦り付けるより重い。白状しよう。察し通りだ。この私は禁書庫へ出入りしている。その分、施錠魔法が弱いのも認めよう。だが、持ち出しは認めない。たとえ禁書庫から本がなくとも、それは私の仕業ではない」
「本当ですか? 嘘ついてるんじゃないんですか?」
「ああ、本当だとも。嘘をつく魔法を使っていないのは明白。それとも、この私が嘘をつくような人間だとも思えるのかね?」
「思えます」
「思えるね」
「……回答は控えさせてもらおう」
「信用問題。どこで失ったんだ」
考えてみるといい。禁書庫に忍び込み、背後から魔法をかけ、目録を盗んだ男がなぜ信用されないのか。
「ともかく許可は出た」
ガーベラはエリスの様子を横目で伺う。ぱっちりと黄金の瞳と赤黒い瞳が交差する。
「……ガーベラさんはまだ私を疑っているみたいですが、私は潔白なんですよ。無実無罪冤罪。何に誓います? 神でも親でも悪魔にでも。何にだって誓って言います。私は犯人ではありません」
ガーベラにはわからない。エリスの考えが一つも読めない。
(禁書庫で蔵書の確認をして何を得するのか。なくなった本がわかる。エリスの魔導書か? 彼女自身でそれが確定できるというのか? だとすれば、やはり、この魔導書は……)
「それじゃあ開けようか。スライド」
ユーカリがそう唱えると、切れ目の見えない柱は中心から横に口を開き、暗い地下へと降りる階段を現した。
静寂。昼間の図書室。しかし、異変の犯人が彼女たちを見ていることにこの場の誰も気づかない。




