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学園の一年生は魔法と常識を重点的に学ぶ。授業を選択できるのは上級生からであり、たとえ魔導書持ちであろうとも同じクラスの一員として過ごす。協調と社会性。規律に厳しい学者界においてその形成が重要なことをマギアは知っている。
一年生のクラスは四つある。便宜上ABCDと振り分けられてはいるが、そこに実力差はない。優秀な生徒はどのような環境にいようと優秀に育つ。
なら、落ちこぼれはどうなのか。
Cクラス。学生寮から廊下を渡り、学園四階の角にある教室。そこは、笑い声とざわめきに包まれていた。
彼らのその明るさを見るだけで憂鬱に駆られる。足取りは重く。視線が下ばかりを向く。得体の知れない暗さ。全身から話しかけてくるなよと念を放つ。それが防衛になった試しは一度もない。
「あら、エリスさん。おはようございます」
「おはようフィル。いつまでその喋り方なの?」
席について早々茶髪の女生徒が話しかけてくる。フィルドネイド。高慢なイジメっ子——ではない。エリスにとって数少ない友達だ。
そんな彼女が嫌に上機嫌。ウェーブの髪をくるくると指で回す姿は剃り上げたくなるほど鬱陶しい。普段とは違う上品な喋り方も機嫌の良さの表れ。数日前からずっと。
だが、その顔つきが歪む。フィルは指で鼻腔を押さえると、不愉快そうな顔をした。
「ちょっと、エリスさん。洗浄魔法を使ってらっしゃらないの?」
「あ、忘れてた」
そういえばとエリスは思い出す。今朝までずっと図書室にいたため、水浴びもしていなければ、服を清潔に保つ魔法も使っていない。されど一瞬。魔法に儀式的な準備はいらない。魔力があれば、魔導書や杖がなくとも簡単に扱える。
「クロウズ……」
「お待ちなさいな」
「クリーン……」
「待てって言ってるでしょ!」
しかし呪文を唱えようとしたところで、フィルがうるさく止める。エリスが嫌々口を閉ざせば、満足そうににんまりと笑って、どこからともなく本を取り出した。
エメラルドの分厚い本。派手な装飾はないのに燻んだ宝石のような色合いが歴史ある美しさを表している。それが宙に浮く。
「ファインド」
ページを探す呪文。パラパラと本が一人でに捲れていく姿は退屈そのもの。
「これですわね。……コホン。コンプリートピュリ……」
「クロウズクリーン」
「ちょっと! せっかく私が魔法を使って綺麗にしようとしたのに」
「いいよ毎回毎回。だいたい長いのよその魔法。服の汚れを落とすだけに何語使ってるの」
「魔導書は省略できないの! それに服だけじゃなくて、体も綺麗にしないと!」
ぎゃあぎゃあと騒がしいフィルにエリスは辟易し、手で耳を塞ぐ。いくら上品に振る舞おうとしても、こういうところは成長しない。エリスは少しだけホッとした。
フィルはつい先日まで、魔導書を持っていなかった。それなのに何があったのか。入学時から魔導書無し組として仲間意識を持ち傷を舐め合っていたというのに、長期休み後にイメチェンして恋人を手にした芋女並みの手のひら返しで、魔導書を見せびらかせてくる。
豊作の一年生。入学から数ヶ月経っても未だ続々と魔導書持ちが現れている。例年ではあり得ないこと。才能の年。
それだけに持たざる者が目立つ。Cクラスもエリスのように肩身の狭い思いをしているのは片手で数えられるほどになった。
いつか自分もなどと夢見ていられたのはほんの僅かな間のみ。今は選ばれし者の喜ぶ姿が忌々しく妬ましさを増すばかり。
フィルが魔導書を持っていなければ、まだ両手が必要だったかもしれない。そうであれば、こんな粗末な劣等感など感じずに、楽しい学園生活を送られたはずなのに。
今はもう冷めきっていた。彼女の笑顔を見るだけで、醜い感情が心を蝕んでいた。数少ない友人を恨みたくはなかった。それでもエリスは陰鬱とした感情をおくびにも出そうとはしない。フィルには笑っていて欲しいから。哀れみで救われたことなど一度もないから。
そんなエリスの気持ちなど露知らず、当のフィルはエリスを見ながら眉を顰めていた。
「なに? 顔に何かついてる?」
「ねえ、エリス」
「なによ」
「……貴女の魔法、不発してない?」
「え?」
そんなはずはない。洗浄の魔法は、魔法学においても初歩に位置付けられる。エリスも学園に入学する前から使うことができた。なのに。
確かに少しだけ汗の臭いがした。制服の襟に額や首筋から落ちた汗が染みついている。禁書庫での冷や汗。蒸し暑い夜の汗。無理に隠された恐怖と緊張が皮膚の毛穴から滲み出したような薄い酸味。ほとんど存在しないようで、ふと鼻先をかすめると胸がざわめく。
魔法が不発する原因はいくつかある。魔力が無くなった。呪文を間違えていた。あるいは、誰かが妨害したか。
「メロウ!」
「……んだよエリス」
教室の端、窓際で談笑する少年たち。そのうちの一人が迷惑そうに振り向く。
「今、私の魔法妨害した?」
「は? なんで?」
チリチリパーマの男生徒はまるで意味がわからないと肩をすくめ、友人らと再び笑い合った。メロウサーサ。彼の持つ魔導書は魔法の妨害という高等な魔法が使えた。魔法が不発した時は、だいたい彼が悪いというのがCクラスでの常識。
それなのに、彼の手元に本はない。フィルもそうしたように魔導書の魔法はページを開く必要がある。つまり、彼が原因ではない。偏見で疑ったエリスだったが、当てが外れて余計に困惑する。
「コンプリートピュリフィケーションマジック」
考えているうちにフィルが呪文を唱え、服の匂いも痒かった頭もさっぱりと爽快感を増した。悩み事も吹き飛び、ついでに机周りの汚れも綺麗に消え、黒ずんでいた床も張り替えたように磨きがかかる。
「ああ、もう。フィル、その魔法もっと範囲狭められないの? 毎回毎回私の机周りだけ新品になって、床なんて聖域みたいになってるんだけど」
「だから、魔導書の呪文は変えられないの」
「ならせめて他の魔法にしてよ。その魔法効力が強すぎてアンデットでもないのに、心が騒めくのよ」
「そ、それは……」
バツが悪そうに口を噤むフィル。そして目を泳がせ、エリスに聞こえるかといった声量で「心が汚れているから」と呟く。
「は? なに? 私の心がなんて?」
「エリスは知らないだろうがな、魔導書に新たな呪文が表れるには、魔導士の技量が必要なんだぜ」
「メロウには聞いてない」
どこから聞いていたのか、メロウは他の男生徒と共にエリスたちを見てケラケラ笑っていた。視線を戻しフィルを見れば、図星だと言わんばかりに唇を歪ましている。
エリスは魔導書についての知識は全くと言っていいほど持っていない。一年生で魔導書を持つことは本来稀なことで、そういったカリキュラムにはなっていないから。
だが、フィルの反応からそれが事実であることを理解したエリスは、もう一つ、あることを考えていた。
呪文が表れる。確かに聞いたその言葉の意味を。
「ねえ、アイツらの言葉って本当?」
頷くフィル。ならと、左手が鞄を摩る。
鞄の中、教科書と共に詰め込まれたくすねた本。今朝見ていたあの黒い本。あれは、やはり魔導書だったのではないか。
「それってどんな風に?」
「どんな風?」
「その、白紙に文字が勝手に現れる。みたいな」
「……どうだろう。私が手にした時には完全浄化の魔法しかなかったから、他のページは白紙だし……」
他のページは白紙。それだけを聞けてエリスは満足だった。自分でも驚くほどに口角が上がっていた。宝の山でも見つけたように心は踊っていた。
シセルマジック。たったその一文しか書かれていないあの本も、ならば間違いなく魔導書だったのだ。
ランタンを灯していたとはいえ、あの暗闇。その中で真っ黒な本を見つけるなんて、普通ならあり得ないことなのだ。人が見つけるのではなく、本が人を見つけない限り。
(私は選ばれたんだ)
エリスは一人ほくそ笑む。その姿に何を勘違いしたのかフィルが言い訳を並べる。
「ち、違うの。まだ魔導書を手にして日が浅いだけで、これからどんどん凄い魔法を使えるようになるから」
「それには魔導書の魔法を使わないとな」
「私を訓練台にしてたってこと?」
「ち、違っくて」
「後は、適性魔法を多く身につけるとか」
魔導書が人を選ぶ基準は、魔導書の魔法系統への適性の有無だと言われている。フィルの魔導書は浄化。だから清掃魔法を増やせばいいとメロウたちは笑う。そしてエリスには魔法そのものを増やせと。
そんなこと言われなくてもわかっていた。魔導書の基準など、持たない者なら誰もが気にすること。だからこそ、禁書庫にまで潜り込んで、凄い魔法を身につけようとした。そうすれば、凄い魔導書が手に入ると思って。だが、もうその必要はない。男生徒たちの揶揄いも笑って受け流せる。
「何笑ってんだエリスのやつ」
「ほっとけ。頭おかしいんだろ。つか、一年も系統別選択授業してくれりゃあな」
「新しい魔法が使えると楽しいもんね。フィルドネイドみたいにさ」
「なっ」
「ま、魔導書を手にしたら誰だって使いたくなる。エリス、飽きるまでの辛抱だぜ」
「貴方達は黙ってて!」
そのやり取りにおかしくなってまた自然と笑いが溢れる。今だけは劣等感も忘れられた。それは彼女彼らのおかげなのか、それとも魔導書を手にしたことによる余裕か。
エリスの様子にフィルは恥ずかしそうに口を尖らせる。
「……なによ」
「いや、一つしか魔法がないのに、ページを探す魔法を使ってたんだなって」
「うぅっ、そうよ。複数あるように見せたかったの! エリスのバァカ」
真っ赤な顔をして扉から出ていくフィル。だが、同時にチャイムが鳴り響き、それを見計らったように入ってきた教師に連れられて、俯きながら帰ってくる。その顔は先ほどよりもさらに赤く、耳まで熱を帯びたように朱に染まる。それが愛らしくてエリスはくすりと笑った。
チャイムが鳴り終わり、教師はしばらく教室と教壇を眺めた後、後方の席を指差した。
「スケアバーテンはどうした。エリスハウメア、確か同室だっただろ」
そう言われて後ろの席を振り返る。空席。いつもならスケアが礼儀正しく背筋を伸ばし、閉ざした目で寝息を立てているはずなのに。
「寝てるんだと思います」
「またか……。同室だろ、起こしてやれよ」
「はーい」
スケアは眠り姫の名で知られている。授業中も放課後も、なんなら移動している時だって眠っているからだ。彼女の持つ魔導書がそれを可能にしている。夢から現実に干渉する魔法。チャイムが鳴ればやたらファンシーなゴーレムが眠り姫を運ぶのだ。
だから、それ故に、寝坊は珍しい事だった。
しかし、誰も気にしない。
たとえ初めての寝坊でも、学生であればよくある事だ。それが始終眠っているような問題児であればなおのこと。
「であるかして、一部の悪魔信仰では魔法は悪魔が授けたものという考えもあるが、全く根拠のない出鱈目であり——」
その上、エリスにはスケアよりも考えなくてはならない問題があった。一度は浄化された疑問。それでも根源までは絶たれていない。
なぜ服を綺麗にする洗浄の魔法が不発したのか。そして、魔導書の魔法も。
思い返せば朝の魔法も発動しなかった。偶然だろうか。とてもそうは思えない。
(魔法が使えなくなった……? そんなまさか)
最悪な考えが頭に浮かぶ。だが、それは深刻に考えるほどのことではなかった。
「ボードライトダウン」
試しにペンに魔法を掛ければ、一人でにスラスラと文字を書き始める。発動している。文字で埋め尽くされた世界の歴史をせっせとノートに書き写している。そのことにホッと胸を撫で下ろす。
きっと、メロウのせいなのだ。魔導書も何処かに隠していたのだ。きっとそうだ。そうに違いない。
謂れのない罪をメロウに押しつけて、エリスはせっせっと動くペンを握る。それも優しく、肌に触れるか触れないかといったところ。
こんな便利な魔法があるというのに、何故先生は自分で書けと怒るのか。歴史を学んだところで何の役に立つというのか。
誰もが思う疑問を胸に、前を向く。教師の姿がない。
「見てたぞ」
「せんせ……」
禁書庫に潜り込んだ夜以上の緊張。ぐるりと首を動かせば、冷たい視線が教科書と共に頭へと降り注ぐ。
「いてっ」
「魔法に頼るな。頭を使え」
頭を抑えるエリスの姿に教室中からくすくすと笑い声。小説の冒頭にでもありそうな、ありふれた一時。平和を文字にしたようなつまらない時間。
ただ一人の欠席者を残して、今日もCクラスはいつも通りの平穏を過ごす。