ep.13 シセルマジック
生きていた。生きたいと願ったからだ。生かしてくれたからだ。
エリスはぐっしょりと濡れた体を天に向け、疲れ切ったように息を吐いていた。左手には閉じられた黒い魔導書があり、その本が荒波を殺したのだとも理解していた。
浅ましい。
心は穏やかだった。死んだ海に自虐を落としても、染み渡るように消えていった。それがどうしようもなくやるせなかった。静かな海岸はあらゆる感情を蒸し返そうとする。エリスはため息混じりに腕を目に押し当てた。
最初は見下されるのが嫌だったのだ。
同じ一年生という序列の中で、自分が置いて行かれているという状況が許せなかったのだ。そのくせ、同じ立場のフィルを見下して、フィルが魔導書を得た時には強く当たったこともあった。
そんな思いで誰よりも凄い魔導書を手にしたかった。浅ましい心だ。エリスは自嘲する。ずっとずっと比べてばかり。
その結果、人が死んだ。スケア。同じ部屋の友人。直接声を聞いたことはなかったが、それでも一つ屋根の下にいたのだ、ただ寝てばかりの彼女ではないこともエリスは当然知っている。実は夜中にむくりと起き出し夜食を食べていることも、私服が流行を押さえた物だということも、きっと誰も知らなかった彼女の姿を知ってはいたのだ。
それを知ったくらいで何を誇れるというのか。
そんな侮蔑はかなぐり捨てて、もっと受け入れるべきだった。誰よりも仲良くなれたはずなのに、スケアの素性を小さな物として見てきた。魔導書の能力ありきの渾名を受け入れて、スケアの本質を見向きもしなかった。
もっと仲良くなれていれば、罪悪感をもっと感じていれば、きっと未来も変わったのだろう。魔導書ばかりを見ていたから、ガーベラに嘘をついたのだ。自首をするべきだった。エリスは後悔する。仕方がないと観念したのではなく、過ちを理解し懺悔した。
魔導書ばかりを見ていた。特別な力を持つことに酔いしれていた。特別な力を持ち、誰にも縛られず、絶対的な個として、普通に生きていく。
「どこが普通だというの……」
自嘲気味に笑う。結局、一番に縛られたままなのだ。個として生きるということは、自分以外にいないという意味では、一番であることと変わらないのだから。
オンリーワンもナンバーワンも変わらない。
それに気づいたところで、何も変わらない。浅ましく一番を目指す心も、何もかも。
「だったらもう、割り切ろう。そういうものだと受け入れよう」
そう呟けば、波立たない海から一人の男が岸へと漂ってきた。男は荒い息を吐きながらエリスの横で仰向けに倒れ込む。
手には大事そうに小さな瓶と濡れていない魔導書を抱え込んでいる。
「…………」
「はぁっはぁっ、エリスハウメアっか。……それで、持っているのが、お前の魔導書か……はぁっはぁっ」
「魔導書が、欲しいんだっけ」
「…………ん、ああ。素直に渡してくれると助かるんだが」
「いいよ」
「ま、そうはいかない……は?」
エリスは魔導書をジギタリスの腹の上にポンと置いた。ジギタリスは困惑した顔で魔導書とエリスの顔を交互に見つめている。いかにも何でだと理由を尋ねてきそうな顔にエリスは先回りして答えた。
「私は学園を辞める。私の性格上、学園というものがそもそも向いてなかったのね」
「や……は? 辞める? いや、俺はエリス、君のことをそんなに知らないからな、勝手なことは言えないんだが、……後悔するんじゃないか?」
そんな心配をまさか掛けられるとは思ってもみなくて、軽い笑いがつい漏れてしまう。
「それが私を襲ってきた人のセリフなの?」
「いや……それはそれだろ。……俺は確かに、意思を奪おうとしたが……あ、おいポピーからも言ってやれ」
「ポピータイム」
エリスが目線を上へと動かせば、地に足をつけたポピーが少し腹を立て、それでいて何処かホッとした様子で立っていた。
「……とはいえエリスハウメア。もし、俺たちが攻撃したことが原因なんだったら、それは謝らなければならない。デメテルの指示とはいえ、手荒だったのは間違いない事実だからな」
「別に、貴方達が原因じゃないわ。ただちょっと、自分を見つめ直しただけだから」
「……なるほど、それはそれとして罪は償えよ。反省したところで犯した過去は変わらないのだからな」
「ポ、……いやまあ、魔導書は手に入ったんだ。後はガーベラの魔導書も」
「私の魔導書が何だって?」
海岸と崖を囲う森の茂みから、木々を避けるようにしてその女、ガーベラプランテストは現れた。傍には金の魔導書が浮かび、顔はいつも通りにヘラヘラと笑っている。
「少し状況が特殊で、私自身も困惑しているよ。だけど一つ一つ解消しようか。まずは、エリス」
エリスは体を起こし、ガーベラと向き直る。時刻は昼を過ぎて日も傾いている。ガーベラは少し眩しそうに目を細めながらも言葉を紡ぐ。
「学園を辞めるというのは少し残念だが、私は君の選択を尊重するよ。手続きは学園長よりも教頭に頼むと良い。それとだ……退学の手続きが済んだらしばらくマギアに拘束されるかもしれない。理由はわかっているね?」
「やっぱり私が犯人だってわかってたんですね」
「そりゃもちろん。どうすれば君が犯人じゃなくなるか考えていたくらいだ」
ガーベラはわざとらしく笑った後、二人の男生徒に目を向けた。二人の魔導書は素早く反応し、ページを捲り始める。
「おっと、君たちとは戦うつもりはないんだ。だからこそのリンクマジック」
二人の男の口が閉ざされる。まるで糸で紡がれたようにピッタリと閉ざされた口からは声にならない呻きしか聞こえない。
「ジギタリスには覚えがあるだろうね。悪いけれど上唇と下唇を繋がせて貰ったよ。今度は口を切ったりはしない。マギアの職員に解かせるから暫くはそのままでいるといい」
もがき苦しむ二人を他所にガーベラは言葉を続ける。異様な光景に挟まれ、エリスは開いた口が塞がらないといった様子。
「ジギタリスギフト、それからポピータイム。あともう二人いるけれど、君たちの共通点がわかったよ」
ガーベラは自らの手で魔導書のページを捲るとそれをエリス達に見せた。そのページには細かい字で生徒の名前ともう一つ。
「リンクマジック。ページと名簿を繋がせて貰った。君たちの名前の隣り、見えるかな? 委員会が書かれているだろう」
ガーベラは一呼吸置いて言った。
「図書委員会」
その言葉に反応したのはエリスだけだった。二人の男は未だ取れない唇にもがき苦しんでいる。
図書委員会。さて偶然か?
二人だけじゃない。魔導書を見ればあと二人の名前も載っている。もしこれが他の禁書を持つ生徒だというのなら、偶然にしては奇跡的すぎる。四人ともが、図書委員会だなんて。そんなの、誰がデメテルか答え合わせしているみたいだ。
「パチパチパチ。その通りだ。凄いねガーベラさん」
その時ガーベラの後方の茂みから歩み寄ってくる人影。メガネを掛けた、アクアマリンのような透き通った碧眼の女。
「ユーカリ先生……」
「やあ、ユーカリ先生。勤務時間だろ図書室はどうしたんだい? それと……まだ私は誰がデメテルか言ってないけど?」
「図書室は残りの図書委員会に任せている。それと……確かにそうだ。探偵が登場人物を集めて犯人を名指しするのは最も熱いシーン。それを邪魔した形になってしまった。だとしても私がいないのは残念だよ……やり直そうか?」
「……いや、いいよユーカリ先生。君が、デメテル。豊作の犯人なんだろ」
ユーカリ先生はもう一度大きく頷いて、子どものように正解だと言った。
「それにしても、不思議だね。どうしてわざわざこんな場所まで来たんだい? 私にバレてしまった以上、逃げる方が賢明だと思うけど?」
「ガーベラさん。私はね、本を読むのが好きなんだ。本。小説も絵本も論文も。そして、魔導書も」
「……質問に答えてくれないかな」
「答えているよ。答えているとも。答えているに決まっているじゃないか。コホン……もう一度言うよ。私は本を読むのが好きなんだ」
ユーカリ先生は咳払い一つはさみ、実に静かに話し始めた。その顔は晴れやかで笑顔でいることがどこか不気味でもある。
「知っているかな。学園には魔導書が666冊あるんだ。そのうち、一年生と教員を除き、魔導書を所有していた人数は二十人にも満たない。それじゃあ少ないと思わないかな? 魔導書を読めるのは魔導士だけなのに、もったいないと思わないのかな?」
「……魔導書を読みたいなら、目録に呪文も書いてあるはずだけどね」
そう言ったガーベラの顔をマジマジと見つめてユーカリ先生は彼女のものとは思えないほど無邪気な声で笑った。
「あらら嘘だろ。わかっているだろ。ガーベラさん。貴女さっき、客間でジギタリスに向かって言っていたじゃない」
「……というと?」
「魔導書には四つのレベルがある」
静かに、あまりにも静かにユーカリ先生は砂浜を歩きはじめ、ジギタリスから死の魔導書を受け取った。
「四つ目の段階について。特別授業だよ。なんちゃって」
パラパラと魔導書を捲りながら、教師さながらの自信溢れる笑みを浮かべる。
「この段階の呪文では魔導士の単なる意思や思考で魔導書を制御することは不可能になる。現代の呪文とはかけ離れた古代の呪文。唱えれば、どうなるかは誰にもわからない」
振り返り、ガーベラを見つめる。余裕のない睨むような目をガーベラは浮かべていた。それに満足げに目を細めたユーカリ先生が授業を続ける。
「魔を導くと書いて魔導。魔界、悪魔、逢魔。はたして魔が何を表すのかはマギアにもわからないこと。だけれど、その魔が良くないものであることには変わりない。魔を導くと書いて魔導。本が導きたいものを解放する。それこそが四つ目の段階。魔の解放。私はね、ガーベラさん。それが読みたいんだ」
一歩、一歩、海へと歩いてまた振り向いた。子どものような無垢な笑みを浮かべている。あんなに楽しそうなユーカリ先生を見たことがなかった。
「なるほど。なるほど……それでもわからないなユーカリ先生。魔導書の呪文を読めるのは、その魔導書に選ばれた魔導士だけ。さっき君も言っていたじゃないか、それなのに何故、魔導書を集めようと?」
「集める? 語弊があるなぁガーベラさん。私は魔導書を集めているんじゃないよ。魔導士を増やしているだけ」
「だとしても、君自身は読めないはずだ」
ガーベラの指摘にユーカリ先生は大きく顔を歪ませる。愉快。愉悦。そして優越。他者の無知を心底喜ぶ笑み。同時に自身の既知を讃えるための笑み。満面の笑みを浮かべたユーカリ先生が一冊の青い本を取り出す。波のない海よりも遥かに青い魔導書。
「成長だよガーベラさん。成長。体も心も魔力も。人というのは成長するんだ。子どもの頃読んだ小説の意味を大人になって知るように、読めなかったものが読めるようになる。できないことができるようになる。それが成長」
つまり。そう言葉を続けようとするユーカリ先生よりも速く、ガーベラは魔法を唱える。
「リンクマジック」
「つまり、私ならどんな魔導書でも読めるってことなんだ。かいつまんで説明するとね」
「……効いていない?」
口を繋げる魔法。二人の図書委員と同じように塞いでやろうと放たれた魔法。それなのに、ユーカリ先生の口は未だに滑らかな言葉を吐き続ける。
「泳げなかった海を泳げるようになるように魔法に耐性ができる。これが成長。これも成長」
ユーカリ先生の隣で青い魔導書はすでに開かれている。それでも呪文を唱えた素振りすらない。
「グロウマジック。ソダツマジック。これが成長する魔法」
「…………唱えたら成長する? それで魔導士を増やしたってことかい?」
「その通りだよ。もっと褒めたらどうだろう。魔導学園なのに、魔導書を持たない生徒の方が多いだなんて笑い種だったのだろう?」
もちろん、到底褒められるはずがない。魔導書は危険なものだ。それも入学したての一年生の素質だけを伸ばすなんて、知識の追いつかない無知な兵器を量産しているようなもの。認められるわけがない。
「その魔法……効力は永遠かな? 魔力の変質でも魔法自体は解けないなら……まさに禁書だね」
「褒めてくれてありがとう。といっても魔導書自体は学外で手にしたものなんだ。禁書ではないし、禁書のはずがない。人の成長が禁じられていいはずがない」
ガーベラは歯噛みした。魔導書の魔法が効かない相手がよりにもよって死の魔導書を持ち、よりにもよって、それを読めると抜かしている。真偽不明だが、魔導士がすでにいる魔導書ですら、彼女は読めると言っている。唱えるだけで成長できる魔法。無限の成長がそれを可能にしているのだ。
「……酷い魔法だ」
「あら、もしかして歴史学は苦手だったのかな? 魔法は悪魔が授けたもの。とはいえマギアは尊大だからね、人間の物差しで測れる物だと思い込まされていたのだろう? 安心してよ、ガーベラさん。既存の認識を壊して、新しいものに触れる。それもまた成長」
「…………っ」
ガーベラは唸るように、そして諦めたように、いや諦めを込めた深いため息を吐いた。もう、どうすることもできない。
敵は魔法が効かないという未知の脅威。足掻こうにも無駄だということは理解している。すでに何度も魔法を唱えてみたが、かかった様子は見られない。どうすることもできないのだ。それだけ強大な魔導書を有している。仮にここで殴りに走ろうとも、無限の成長の前では軽くいなされて終わりだろう。
「今から君は……そう、今から君は死の魔導書の魔を解放しようとしているってことでいいのかな?」
「…………」
「その通りだよ。それ以外ないとも思うけど」
だとすれば。ガーベラは思いつく矛盾点を指摘する。
「そんなことをすれば、他の魔導書が読めなくなるんじゃないか? 死の魔導書が導くのは死以外にあり得ないんだからさ」
本を読むのが目的ならば、順番が違うはずだ。死は終焉だ。本で例えるならシリーズ物の結末に等しい。本を最後から読むなんてありえない。読みたい魔導書がまだまだあるのに、終わらせるのはおかしい話だ。
「なるほど、ガーベラさん。確かにその通りだ。だけどね、予定が変わったんだ。私だって学園全員の魔を解放したいという気持ちは強いよ。だけどね、イレギュラーが発生しているんだ。わかるかい? ガーベラさん。貴女が、マギアが、私の自由を奪いに来ているだろ?」
その言葉にガーベラはビクリと反応する。表情を読ませないための笑みがどこか崩れているようにさえ思えてくる。
「隠し事は無意味なんだよ。私は耳がいいんだ。隣の都までなら馬を走らせる音も拾える。そう成長しているんだ」
繋がりの魔導書。その距離に実質的な制限はない。どれだけ遠く離れていようとも対象者のことを知っていればどんなことだって繋げることができる。多人数の会話を対象者の耳に繋げることさえも。マギアへの連絡はもうすでに行なっている。
「私はね、マギアのことは嫌いじゃないんだ。魔を研究するなんて良いことだと思う。魔導書を保管するなんて素晴らしいことだと思う。ただ、それでも一読者として言わせて貰うなら、本が埃を被っていることを是とするなんてありえない」
人を選ぶ魔導書のあり方。地下へと押し込まれる禁書達。読めない。読まれないということの寂しさと憤りが混ざった顔をユーカリ先生は見せた。
「でも、それも今日で終わらそう。一度、全てを殺して再度始めよう。読めない魔導書はまた魔導士を増やせば解決する」
「……くっ」
死の魔導書による魔の解放。持ち主ではない女の前で死の魔導書はパラパラと音を立てる。ガーベラは思いつく限りの魔法を唱えるが無意味でしかない。
「煙幕魔法は困るな。困るだけで成長すれば問題ないけども。さてさてさてこれだ。この魔法だ。ああ興奮するなぁ。どうして未知とはこんなにも心躍るのか。誰が死ぬ? どこまで死ぬ? どうして死ぬ? 私は死なないが」
絶望感。頭はひどく冷静だったのに、肌がピリピリとひりついて、心臓の鼓動が高まっている。まるで全身の細胞が離れようとする不可解な浮遊感。ガーベラは初めて体験するソレに冷えた汗をかいていたことを気づかないでいた。
エリスは静かに二人のやり取りを見ていた。
片や自分の魔導書を使い破滅を齎さんとしている。片や恐怖心に耐えながらも破滅を止めるべく意味もない魔法を唱え続けている。
エリスは心底穏やかだった。自らの死が目前に迫っていようとも、どうでもいいとさえ思えていた。
そもそも自分は二人のことをどう思っているのか。
入学当日から親身になってくれたユーカリ先生。周りが魔導書を持つ中で励ましてもくれた。しかし、多くの一年生が魔導書に選ばれる原因となったのもユーカリ先生。もしかすれば、死の魔導書を手にできたのも彼女のおかげなのかもしれない。
一方、今日会ったばかりのマギアの研究者ガーベラ。彼女からの疑いを晴らすためあの手この手と策を弄したが、素人の考えでは太刀打ちできなかった。そういえば剥奪魔法を受けてなお、平然としている様子と、海から這い出てきたあの男生徒。もしかすれば、あの客室から逃げる時に助けてくれていたのかもしれない。
甲乙はつけられない。どちらかの味方をする気にもなれない。それでもだ。それでも、人の命を奪ったことのある人間として、死の魔導書をあるがままにさせていいのかということには疑問が残る。
「……ブラストマジック」
狙うは魔導書だった。ユーカリ先生にあらゆる魔法が効かなくても、魔導書には効くだろうと浅はかな考え。だが、魔力は放たれない。
「…………」
不発。だが、前にもこんなことがあった。魔法が発動しなかった時が。あれも、そうだ。あの魔法を唱えた後だった。ならばどうして。
「別れの挨拶は省略しよう。それでも感謝はしたい。ご飯を食べる時のように、本を読み終えた後のように、手を合わせて感謝を伝える。ありがとうだよ。これから死ぬ者どもに祈りのような感謝を」
詠唱が始まる。
「歌え囁け鐘霞 漁れ養え礒菜摘 願え戒め鐘供養 祝え贖え遅桜」
大地が隆起する。大木が育ちその根が手を取り合うように地表を侵略する。海は穏やかに騒ぎ始め、大群が巨影を創り出す。太陽が落ちてくる。
その魔法は空虚な安寧を満たす。
「嗤え孕れ蝉時雨 欲せ貪れ誘蛾灯 隠せ偽れ練供養 穢れ燦け虎耳草」
空が鼓動する。雲がひび割れ、星々が満ちる。太陽は巨大な円環を廻し、怪鳥が我が物顔で舞い降りる。プリズムが濃い空を彩る。
その魔法は久遠の幸福を諭す。
「叫べ傅け鳥威 怯え従え迎舟 遺れ補え菊供養 怠け憧れ梅紅葉」
大木が朽ちる。魚群は反転し、怪鳥のコーラスは響かない。太陽はこんなにも近いのに、体から熱が奪われていく。立つことは許されず、蒸発する目を空から逃げるように地に打ちつける。
その魔法は俯く希望を照らす。
「喚け嘯け虎落笛 探せ疑え夜興引 祈れ敬え虫供養 奪え喪え枯芙蓉」
その魔法は静かなる平穏を齎す。
「神等去出の時は来たれり——」
その魔法の名は
「シセルマジック」
ユーカリ先生は驚いた顔をして死んだ。誰もが懺悔するように破滅する世界から目を背けていた中で、私だけが、彼女を見ていたから。
「魔導書は魔導士を守ろうとする」
それはガーベラに教わったこと。
「魔法の範囲内に魔導士がいても、効果が及ばないようにすることなど造作もない。それがどういうものなのか、考えてみたのだけど」
範囲魔法。特定の範囲をわざわざ対象だけを探し狙って魔法が発動するのだろうか。そんな非効率的なものだろうか。例えばフィルの浄化の魔導書は対象範囲全てを浄化する。シセルマジックはどうだろう。
「シセルマジックは私含めて魔法をかけている。いえ、正確には魔力かしら」
魔法となる前の魔導書の魔力で範囲を満たし、術者を、そして魔導書自身を、除いて殺している。
だとするならば——
「同じ魔導書の魔法を、魔力を纏った私には効かないのだろう」
だとするならば——
「死の魔力が邪魔をして私の魔力が外に出ていかないとして、纏った死の魔力を使って魔法が使えないわけもない」
エリスはゆっくりと浅瀬へと歩み、倒れるユーカリ先生の目を閉ざす。そして胸元に落ちる黒い魔導書だけを手に持った。
世界はすっかり静かになった。どこまで、もしかすれば、星の裏側までこの調子なのかも知れない。
静かな世界でエリスは一人になった。心はすっかり穏やかで誰とも比べることなく、誰も気にする必要がない。
エリスは手の魔導書を一瞥すると、海へと向かって力一杯投げた。広がったページが羽ばたいて、青い空へと落ちていく。
穏やかな世界で一番星はその輝きを見られることもなく歩き出した。
お読みいただきありがとうございました。




