分岐end2 終焉の唄
ここで終わってもいい
海から這い出たエリスは喉の奥へと潜り込んだ海水を咳き込みながら吐き出した。生きていた。無我夢中で泳ぎやっと岸までたどり着いたのだ。
その手元には黒い魔導書があった。海水に晒されたはずなのに、黄ばんだページは一滴も濡れていない。
魔導書は魔導士を守る。
賭けではあったが、海にまで来てくれたおかげで生き延びたのだとエリスは本を強く抱きしめた。それにだ。
振り返り腰を下ろす。眼前に広がるのは波立たない海。シセルマジック。死の魔法。まさか波さえも殺してしまうとは。エリスはくすりと笑った。
その時、波立たない海から一人の男が岸へと漂ってきた。男は荒い息を吐きながらエリスの横で仰向けに倒れ込む。
手には大事そうに小さな瓶とやはり濡れていない魔導書を抱え込んでいる。
「貴方は……」
「はぁっはぁっ、エリスハウメアっか。……それで、持っているのが、お前の魔導書か……はぁっはぁっ」
「…………」
「…………フォアフィ——」
「シセルマジック」
冷徹な声が飛んだ。
それと同時に静かな結末が訪れる。
男の目は生気を失って、瞳孔が開き、半開きの口から唾液が溢れる。皮膚の血管は伸縮するように色味を失い、荒い息は聞こえなくなった。
男は死んだ。
死体は隣に、強い潮風が髪を揺らす。
肌寒い。肌寒いのに、心地良い。
「まさか……お前、殺したのか?」
静寂にまた荒い息が聞こえてくる。振り返ってみれば上空、木々よりも高い位置から同じ学年の男が見下ろしている。
「いや、わかっている。いきなり魔法を放とうとしたジギタリスも悪い。だが、だがな、自分の持つ死の魔導書をどうしてそんなに、簡単に!」
「シセルマジック」
男は身構えた。自分が予想する最悪な未来が訪れることに慄いた。だが、未だ鼓動は活動し、耳は海鳥の声を聞き、瞳はエリスの顔を捉えている。
失敗? いいやまさか。死んだのは——。
「重力……」
エリスの体がフワリと浮かぶ。波のない海がポツポツと盛り上がる。土は木の根に合わせてヒビを広げ、枝から茂る葉がざわめいた。
男は立っている。直立不動に空中に立っている。まるで無重力をものともしてない。それでも浮き上がるエリスを目で追った。自らの頭上へと登るエリス。
「言いたいことは一つだけ。私の上に立つな」
小さく呟いてまた一言。一言だけの呪文。
「シセルマジック」
はっきりと見下す目が男を睨む。澄んだ空とは対照的なこの世の憎悪。死んだのは——。
「浮遊する力」
エリスの体がピタリと止まる。持ち上がった巨大な水溜まりも、制御を失った海鳥も、始めから宙に立つ男はただ困惑した表情を見せる。
「なんで……こんな、化け物……」
理解ができない。頭が働かない。全身の血液までもがぐわんぐわんと動いているような感覚。重力を失ったことによる弊害。それがより一層、エリスハウメアという少女への理解を遠ざける。
「私の、上に、立つな」
「お前……まさか、ただ俺の上に立つためだけに」
そもそも理解なんてできようはずもなかった。傲っていた。侮っていた。あらゆる人の動作を支配できる禁忌が、あらゆる生命の動作を停止させる禁忌より優れているはずもない。
そんな魔導書に選ばれる人間がまともなはずもない。
恐怖。恐怖。恐怖! 目を釘付けにする恐怖が思考を蝕み、この窮地を脱する手立てを与えてくれない。
全身の感覚の異常な差異をエリスも感じているはずなのに、全くといっていいほど動じず、ひたすらに見下す目が降り注ぐ。
「シセルマジック」
今度は、何が死ぬ?
ああ、違う。今度じゃない。やっとだ。
男は死んだ。まるで許しが与えられたように。
重力も浮力もない世界で力なき死体が項垂れ空を回る。その中で、主人を失った一冊の本は全てから逸脱したように下へと向かって落ちていった。
「ふふふ……ははっ。ははははははは!」
重力が死んだ弊害。浮力が死んだ弊害。それがどんなものかエリスにもわからない。
それでも今は投げやりな万能感が心を支配していた。
死の魔導書という絶対なる個。これさえあれば、もしかすれば、いや必ず、あらゆる個の上に立てる。立てるのだ。
「シセルマジック」
エリスはゆっくりと歩き出す。
何が死んだかはわからない。
「シセルマジック」
目指す先には学園がある。フィルがいる。メロウがいる。同列の友人たちがいる。ガーベラがいる。ユーカリがいる。頂点に立つ学園長がいる。卑しくも魔導書を奪おうとした奴がいる。
「シセルマジック」
木が枯れる。魚が転ぶ。鳥が静止する。雲が千切れる。砂が変色する。建物が崩れる。本が炭になる。人が死ぬ。
「シセルマジック」
物語が終わる




