1
渡り鳥は季節に合わせて南北を飛び渡る。
大きな翼を広げて数万という距離を羽ばたくのである。
人はどうだろう。たった二本の足を地につけて狭い歩幅で歩く。太古の昔から、数万どころか数千の距離さえ、ろくに移動はできず、馬にムチを打っている。
だが、もしも、空を飛べたのならどうする?
何万という長距離を数日の内に移動する。山を越え、海すらも渡る。重力を無視し、空へと羽ばたく。
できるはずがない? いいや可能だとも。翼がなくとも、人類には魔法があるのだから。
さあ、改めて聞こう。もしも、この本を読むだけで、空を飛べるというのなら、君はどうする?
「どうするも何も、空を飛ぶ魔法は空を飛ぶことしかできないでしょ」
エリスは手にした本に悪態をついた。響く言葉にハッと我に返り、後ろを振り返る。誰もいない。暗闇は仄々と照らされ、ただ無数の本だけが静かに監視する。埃に飾られた蜘蛛の巣。吐息一つも咎める静寂。広大な本の群れに混ざるのはエリス一人。そのことに安堵する。
「もっと凄い魔法はないのかな」
月が隠れる深夜。エリスは図書室にいた。図書室とは言ってもそのさらに地下奥深く。誰も立ち入ることを許さない禁断の書庫。
それも生徒の発達に悪影響だとか、内容が古いなんて柔な理由ではない。
読んではいけない、存在してはいけない、真に受けてはいけない。悪書。
マギア魔導学園。大陸の中でも三番目に大きく、魔を研究する機関が運営している魔導士の学校。そのためか、悪書禁書の全てがここに保管されている。
地上の図書室とは隔離されて、今も読者を探している。
「読まれるのではない。読ませるのだ。選ぶのは人ではない。魔導書が選ぶのだ」
司書ユーカリ先生の言葉を思い出す。魔導書には相性があり、魔導書に選ばれた者はその本に書かれた魔法を使うことができる。
エリスは持っていなかった。
とはいえ、まだ入学して数ヶ月。一年生では魔導書を持っている者の方がはるかに少ない。いや、上級生でさえ持たない者は少なからずいる。学生らは、何年もの時を学園で過ごし、魔法の知識を身につけ、魔導書に選ばれる素質を養うのである。
それが普通だ。これまでは、そうだった。
今年は豊作だった。雨が降ったわけでも、土壌が良かったわけでもない。ただ何故か、一年生の半数以上がすでに魔導書に選ばれていた。
「何も魔導書の有無で魔法が使えるわけではない」
ユーカリ先生の慰めはエリスの心を癒さない。魔導書に選ばれることは、魔導士として認められたということでもある。ここはマギア魔導学園。魔法使いでも魔術師でもない。魔導書を持つ魔導士の学校。魔法が使いたくてここにいるわけではない。
魔導だ。魔を導くと書いて魔導。秩序ある魔法よりさらに上の次元。空を飛ぶなんて比ではない。叶うなら空を支配することも。人智超越。人外魔導。それが欲しくて学園にいる。
それなのに、蓋を開けてみれば抱えきれない劣等感をぶつけられるだけだった。床を這いずるドロドロとした負の感情が芽生えるだけだった。それが悔しくて禁書庫にいる。
されど生徒禁制。ただでさえこんな夜更けに寮を抜け出しているのだ。バレたら怒られるだけでは済まされないだろう。エリスは幾つか目ぼしい本を探す。図書室には魔導書だけがあるわけではない。禁書庫もまた然り。
「翼の書、魔術大百科、偉大なる魔術師アレイスターの素晴らしき自伝、ウ=ス異本……薄い本? ……うっ、これは……み、見なかったことにしましょう」
学園では教えてくれない特別な魔法を記す物たち。時間が惜しく、全ての中身は見れてはいない。嘘や誇張もあるだろう。魔法や魔導と関係のないものも。だが、これだけあればとエリスは口角を上げる。思い出すのは自分を馬鹿にした同級生たち。彼らを見返すためなら禁忌だって犯せる。
さて、と本を脇に抱えランタンを片手に移動する。いつまでも長居するわけにはいかない。
くすねた本をの重さが心すら引っ張ろうとする。それでも数万冊ある禁書からいくつか無くなったところでバレることはないだろう。エリスはそう考え音を立てぬよう禁書庫から出ようと踵を返した。
「ん?」
不意に、とある本が目に入った。視界の端だった。それでも存在感を放つ異質な本。背表紙は暗い闇の中でもはっきりとした黒。煤より黒いその本は、不思議とエリスを魅了する。その本を手にしてみれば長年の劣化からか紙は硬く、シミがついていた。表面にタイトルは無い。捲ってみれば枝を折ったような音がする。
「……なにこの本、何も書かれてないじゃない」
しかし、本は白紙だった。古い紙にはわずかに黄ばみもある。文字も絵も何もない。肩透かしをくらった気分で本を棚に戻そうとした時、禁書庫の扉が開かれた。
「……誰かいるのか?」
学園長だ。エリスは声で判断し、急いでランタンの灯りを消す。無数の棚が並べられた書庫。入り口からは見えてはいないだろう。そうであってほしいとエリスは願い、腰を落として校長の様子を伺う。
一歩、一歩、また一歩。ゆっくりとした足音が近づいてくる。床は軋み、鼓動が速まる。
「煙の匂いが……ここか?」
「……」
「……気のせいか」
本棚の陰。学園長の死角を縫うように這いずった。心臓は未だ音を立てるも、学園長は書庫の奥へと向かう。どうやら本を返しに来ていたらしい。陰から彼が手に持つ薄く平らな本を見てそう判断する。
(……持ち出し厳禁なのは、教師も同じはずなのに?)
微かに沸いた疑問だったが、それで咎めるわけにもいかない。持ち出そうとしているのは、いやそれ以前に、忍び込んだ時点でエリスもまたルールを破っているのだから。
やがて学園長は新たな本を手に禁書庫から出ていき、少し時間をおいてエリスも出ていった。
空は白みがかり朝を迎えたことを知る。カビ臭い地下とは違う澄みきった空気を肺へ送り込めば、あくびを噛み殺し、誰にも見つからないように急いで寮へと帰宅した。
「死ぬかと思った」
机と椅子とベット。それぞれ二つあるだけに狭い一室。同居人は眠っている。寿命を縮ましたエリスと対照的に幸せそうな寝顔をしている。エリスはやっと帰ってきた我が家に安堵して、ベットに本をぶち撒け倒れ込む。その時あの黒い本まで持ってきてしまったことに気がついた。
「何も書いてない……メモ帳かな。なんでこんなのが書庫にあったんだろう」
本というには平らで、表紙にタイトルはない。威厳の欠片もなく見窄らしい黒。手触りは皮に近く油を塗られたような柔らかさがある。古紙の甘い香り。パキパキとページを捲る。黄ばんだ紙にはやはり何も書かれていない——。
「ん? あれ、なにこれ」
ふと、指の止まったページ。型がついていたわけでもない。それなのに指は引っかかり、視線は的確に文字を捉えていた。黒いインク。まるで今、書かれたような潤った漆黒。
『シセルマジック』
呪文だ。エリスはすぐに気がついた。魔法を発動するために必要なもの。力を持った言葉の羅列。それが呪文。もちろん呪文はただ詠唱したら発動するわけではない。魔力を用いなければただの文字だ。
だが魔導書においては、魔力を必要としない。
たとえ術者に魔力がなくとも、魔導書が全ての条件を満たす。魔導士はただ文字を読み上げるだけでいい。
それは文字を習った子どもでさえ、簡単にできること。
エリスは妙な好奇心に襲われ、ベットから飛び起きると、椅子に掛けられた鞄から教科書を取り出す。呪文は決まった文字で構成されている。解読は容易だ。
(シセル……マジック)
『マジック』は魔法を表す語。千年前から変わらない呪文の定型文。近年の呪文学では省略されることの多い形式以上の意味を持たない言葉。
だが、『シセル』はどういう意味なのか。教科書には書いていない。
それでも分かることはある。呪文の構成が短文であるということは、それが単純な魔法であるということ。
ファイアマジックと唱えれば、炎が出る。アクアマジックなら水が。形状や質量を変えるならその単語を呪文に加える。だが、シセルマジックはたったの二語。マジックを省けば一語。
それが躊躇いを失くす。余りにも簡単に呟けてしまう。
しかし、エリスは口を噤む。軽率に、呪文を口にすることがいけないことであることは、この星の誰もが持つ倫理観。特に知らない魔法であるならなおのこと。加えて禁書庫にあった本だ。
だが、しかし、されど。
魔導書は人を選ぶ。
エリスはこの本に選ばれた気がしていた。この本を見つけたことは偶然であり、さらには初めて見た時には確かに無かった文字が、今は出現している。魔導書だ。そう思いたい。そう確信したい。
たった一言。たった一言だけの単純な呪文。魔力は込めない。ただ、読むだけ。魔法は出ない。魔導書でないなら。でも、魔導書だったなら。
エリスは窓を開ける。どんな魔法が出ようと外に向ければ安全なはずだ。
崖際に立つ学生寮。窓の外は余りにもつまらない水の荒野。曇天に海鳥が隠れ、白波が風に揺れる光景は入学して一ヶ月も経たずに見飽きた絶景。しかし誰かが魔法を飛ばして風景を変えさせてくれる。この魔法もその一片。よくある日常の光景。
深く、息を吸って、呟く。
「——シセルマジック」
………………そう唱えて一分が経過した。
海からは波打つ音が聞こえるばかりで何も変化はない。ただ狭い部屋に本を構え窓の外を見つめ続ける少女が一人。
「……はっず」
魔導書が選んだというのは勘違いだったのか。それともこの本はただのメモ帳で、魔導書ですらなかったのか。あの高揚感はなんだったのか、あの配慮は、心構えは。
ベットにうつ伏せで倒れる。口と鼻を塞ぎこのまま嫌な気分だけ、あの世へ連れていってはくれないだろうか。エリスは不貞腐ながら目を閉じた。
されど無慈悲に朝を知らせる鐘が鳴り、バタバタと隣室がうるさくなる。エリスは不機嫌に眼を擦り、くすねた本を無造作に鞄へ突っ込むと部屋を後にした。
同居人はまだ、眠っている。