第1話 まんまと隷属、同居宣言
私がゾルカと出会ったのは、会社に程近いバーでのことだった。
その夜の私は、年度末の経理という煉獄の類義語みたいな状況を何とか乗り越えたところで、家に帰る前にちょっとたそがれたい気分だったのだ。
オフィスカジュアルのままカウンターに肘をつき、グラスを弄びながら惚けていると……隣の丸椅子に誰かが腰を掛けた。
「こんばんは、お姉さん」
低く、丸みを帯びた声が静寂を破り、私は思わず声のした方を見た。
「いい夜だね。夜の子どもたちがよく鳴いてて」
声の主は、黒々とした髪を背中に流した美女だった。西洋の血が流れているのか、肌は抜けるように白く、二重まぶたに縁取られた目はエメラルドのような深い緑色をしていた。一方で顔立ちはやや幼く、なだらかな頬の線や目立たない鼻筋などは日本人的でもあった。
「お姉さんさっきからボーッとしてるけど、何か悩みごと? それとも、わたしと同じで、アンニュイな気分を楽しみに来た感じかな」
「……えっ、ああ」
一瞬、バーテンダーか他の客に話しかけているのかと思ったが、どうやら彼女は私に問うているようだった。無論、私にこんな可憐な容姿の知り合いは居ない。
初対面にしては些か不躾な距離感と言えたが……酔いのせいか照明の仄暗さのせいか、不思議と私は不快感を覚えなかった。
「どちらかと言えば後者……ですかね。なにぶんにも仕事がキツくて。しばらく浸りたいと言いますか、頑張ったオーラを振り撒きたい気分なんです。もしかして、出てました?」
「出てた出てた!」
私に応対してもらえたのが嬉しかったのか、彼女は目元を綻ばせた。
「疲れたよ、褒めて欲しいよ、誰でもいいから甘やかしてよ、って、お姉さんの背中が言ってたもの。それでわたし、キュンととしちゃって」
なるほど、それで声をかけて来たのか。しかしまあ、私の心の声がそこまでだだ漏れだったとは恥ずかしい限りだ。
「ねぇ、撫でてもいい?」
と、まるで自然なことのように彼女が言った。
「うん?」
「頭撫でさせて」
言いながら彼女は既に私の頭頂部に手を伸ばして来ており、私には怯む暇すら与えられなかった。
「よしよし。頑張ったね、お姉さん」
忽ち、彼女の長い指が私の髪に沈み込んで梳かすように頭を撫で始めた。
「いいこ。えらいこ。いっぱい撫で撫でしてあげる」
「ちょっ……そういうのいいですから」
気恥ずかしさに口元を引き攣らせた私だったが、内心では彼女の手の心地よさに慄いていた。いたずらに生え際をくすぐる指や、頭頂のカーブを滑っていく柔らかな掌。それらはまるで氷水に浸したように冷たくて、頭の芯に残った激務の火照りを次第に取り去っていくようだった。
「嬉しそうな顔してる。もうちょっと続けてあげるね。わたし、頑張ってる人を甘やかすの好きなんだぁ」
形だけの拒絶など耳に入らないといった風に、彼女微笑んだ。こう屈託のない態度を取られると、この状況を疑う方が変に思えて来る。私はそんな気がした。
(不思議な人だ。めちゃくちゃ美人なことだけは確かだけど)
やがて彼女の手は私の横髪を梳き始め、もう片方の手が後頭部に回った。
「あ、後ろ刈り上げてるんだ。可愛い」
彼女が身を乗り出し、私を半ば抱きかかえるような形になった。俄に視界を彼女に占有され、私は思わず目を伏せた。
(良い匂いがする……)
彼女が着ている黒のワンピース……レース越しに透けるその胸元からは甘い香りが漂って来て、私の鼻腔をくすぐった。香水のようだがさほど刺激臭はない、むしろ嗅いでいると気分が安らいで来るような、不思議な甘さのある香りだった。
(あーあ、私何やってんだろ。いくら華金とはいえ、公共の場で知らない人に頭触られてうっとりしちゃって。でもまあ……この人も楽しそうだし、もうちょっとだけやってもらおうかな)
飼い犬でも宥めるような彼女の愛撫に身を任せる自分を、いつしか他人事のように見つめていた私。
そんな頃合いを見計らっていたのだろうか、不意に彼女の手が私のうなじを伝って首筋に回り、指先が皮膚の柔らかい部分をくすぐった。
「綺麗な首。シミひとつなくて、すべすべで……ピンと張った肌の下で血管がとくとく、とくとくって……鳴ってる」
私の首筋を頻りに指でなぞりながら、彼女がささやく。人の首をそんなにまじまじと観察して何の感慨があるのか疑問だったが、これも彼女の好きなことなのかもしれない。所謂フェチシズムというやつなのかもしれない。そう思っている間にも、彼女の触れて来る手つきや吐息の漏れる音は絶えず私を揺さぶり……いつしか私は焦燥感が突き上げて来るのを感じていた。
「こ、こそばゆいです。ええと……」
「ゾルカだよ」
囁くように発せられた彼女の名は、その外見に違わず異国情緒のあるものだった。
「ゾルカ・ホールデン・ザレスカ。お姉さんの名前は?」
間髪入れず名前を聞いて来た彼女……ゾルカの目は、長いまつ毛が思わせぶりに伏せられて……その奥では緑色の瞳がちらつくように光っていて……どうにも蠱惑的だった。焦燥に耐える私の手の中で、グラスの氷が竦んで鳴った。
「……杏朱です。坂出杏朱。あの、ゾルカさん……この後お暇ですか?」
と、私は小声で申し出た。するとゾルカは私を撫でるのを止め、代わりに私の手を取って言った。
「何卒よろしくね、杏朱ちゃん」
私は別にナンパなどする性分ではない。経験豊富なわけでもない。ただ時には人恋しい夜もあり、女同士の味も知らないわけではなかった。それだけのことだ。それだけに過ぎなかった私の心の扉を訪い、鍵穴から煙のように忍び込んだのは間違いなくゾルカだったと言えよう。
(まあ、たまにはこういうのもいいよね……華金だし!)
それから私はゾルカともう一杯を飲み交わし、腕を組んでバーを出た。駅前からオフィス街を通り抜け、人通りもまばらなホテル街に差し掛かると、一際奥まった軒先を選んでチェックインした。
(おお、久しぶりのラブホテルだ)
部屋に入ると、私はベッド脇のチェストに鍵を置いて深呼吸をした。後から入って来たゾルカがヒールを脱ぎ、バッグをシーツの上に投げる気配がした。
「……とりあえず、座りませんか。地味に歩きましたし、疲れて……あっ」
努めて緊張を隠しながら振り返った私の胸に、ゾルカが身を預けて来た。正確には私の胸に頬寄せながら両肩を引き寄せ、しがみつくような格好だった。
「捕まえた」
「……っ!」
ここへ来て積極的な彼女の態度に、私の心臓がドクンと跳ねた。
その音に触発されたように、彼女がゆっくりと顔を上げた。
「聞こえる……杏朱ちゃんの血の巡り、生命の循環する音……ああ、たまんない。ドキドキしちゃう」
どこか眠そうな、夢見ているかのようなその表情には、それでいて彼女なりの高揚感が見て取れるようだった。
「もういいよね。わたし、もう我慢できないや」
ゾルカが爪先を立て、背伸びをする。彼女の唇との距離がゼロに近付くのを感じながら、私は目を閉じた。
それが迂闊だったと気付かぬまま。
「いただきますっ」
と、何やら想定外の響きを持った言葉が私の耳に届き、然る後に首の左側を鋭い痛みが襲った。
「痛っ!?」
何か鋭い、それでいて程々に径のある尖端が私の首筋の皮膚を突き破り、肉の浅い所に食い込むのがわかった。反射的に目を開けると、顔のすぐ真横にゾルカの黒髪が見えた。
(う、うそ、で、しょ……っ!?)
なんとゾルカは私の首筋に歯を立ててかぶりつき、流れ出た血を一心不乱に吸っていたのである。
「かあっ……はぶっ……じゅるじゅるじゅる……ン〜〜〜」
一度顔を上げ、悦びに浸るゾルカ。ほっぺたが落ちそうとでも言わんばかりのその顔は、口の周りが私の血でべっとりと汚れていた。美と不浄、愛らしさと嫌悪感の相克に私は言葉もなかった。
(いや、見惚れてる場合じゃない! とんでもない人を誘ってしまった……早く逃げなきゃ! 今すぐ彼女を突き飛ばして、一目散にこの部屋から逃げて……それから警察に連絡……しなきゃなのに……あ、やばい……こ、れ……)
焦る私の視界が俄にぼやけ、意識が混濁していく。彼女の腕を振りほどこうとした手は力無く垂れ下がり、上げかけた叫び声は行き場を失って溜息に紛れた。
「ごめんねぇ。もうキミ、手遅れだから」
血まみれの口角を三日月形に吊り上げ、ゾルカが私を嘲る。その艶めく上唇の向こうから、異様に尖った犬歯が覗く。およそ人のものではない、まるで狼かコウモリのような……獲物の生き血をすするのに適したそれはもはや“牙”と言って良かった。
(吸、血、鬼……)
その名が頭をよぎると同時に、私の意識は途切れ、深い闇の中に消えて行った。
〜〜〜
それから何時間経っただろうか。
「……っどわああああああああああ!!」
私は唐突に意識を覚醒させ、絶叫しながら飛び起きた。
そこは私が普段から住んでいるアパートの部屋。勝手知ってるベッドの上だった。
(私……ホテルに行ったんじゃなかったっけ? 帰って来たのか……?)
部屋のカーテンはぴっちり閉じられ、裾の方から白い日の光が漏れている。時計を見ると時刻は12時を回っていた。随分と寝坊をしてしまったようだ。
(夢……だったのかな……?)
昨夜、酔った勢いで行きずりの女性とホテルに行き、部屋に入った瞬間首筋に噛みつかれ……それからここに至るまでの記憶がなかった。眠りの浅い晩に見る散漫な夢のように、私の頭に残るイメージはぷっつり途切れていた。
(あんなの……夢に決まってるよね。あんな恐ろしい……うわぁ思い出しちゃった)
顔の下半分を血で汚し、うっとりと微笑む彼女の形相が脳裏をよぎり、私は身震いをした。
(夢だったことにしよう!)
それが精神衛生上良さそうだと判断し、私はベッドから起き出すべく布団をめくった。
「んぅ……めくっちゃやあ……」
布団の中に彼女が居た。
凍りつく一瞬。
思考を取り戻すのに数秒かかって。
「おわあっ!?」
遂に私はベッドから飛び退いてそのままフローリングに転げ落ちた。
「あ、ああ、あんた! なんで……っ」
どうして私の隣で眠り込んでいたのか、なぜ私は彼女のような異常な女を家に上げたのか、そして昨夜のことは現実だったのか。複数の疑問が入り乱れ、私は声を上擦らせるしかなかった。
「う〜……うるさい。頭に響くからやめれぇ〜……」
掠れた声と共に、ゾルカ・ホールデン・ザレスカが体を起こした。寝間着と思しきオーバーサイズのスウェットに身を包んだ彼女の姿は、
(ん? え、あれ……?)
なぜか、ひどくしょぼくれていた。
「……なに、その目は」
あんなに美しかった黒髪は跳ね放題のボサボサで、艶というものがない。エメラルドのようだった目は沼のように淀んでいて、眼窩の周りも隈がひどい。肌は相変わらず白いが、心なしか荒れていて血色の悪さばかりが目立ち……何より表情が物凄く暗かった。
(なんでこの人、こんなに疲れてるんだろう……? 残業が続いた日の私でも、なかなかこんな風にはならんぞ。ちょっと心配になるじゃないか……!)
私の心情の変化は、視線にも表れていたに違いない。
「なんか……ごめんね。可愛くなくて」
ゾルカは決まり悪そうに布団を口元まで引き上げ、顔を隠したまま話し始めた。私は床に尻餅をついたままそれを聞く。
「……お察しの通り、わたし吸血鬼なんだけどさ」
知ってる。まさか実在するなんて昨日までは思ってなかったけど。
「吸血鬼って、夜は無類の生命力を発揮するんだけど代わりに朝が弱いんだ。今だって本当は自分の墓で寝てなきゃいけないんだけど……むりやり起きたからこんな感じなわけ。それでもなお、昼に目を覚ますのがやっとなんだよねぇ……」
確か、昨夜のゾルカの美貌や魅惑のオーラは生命力に溢れていると言えた。今はさながら五徹後の始発電車だが。
「ね、寝ればいいのに。なんでそんなに無理してるんですか?」
そして思わず素の疑問が出てしまう私。
「……朝、起きなきゃ駄目なの」
ゾルカは眼精疲労の極みのような目で私を見下ろしながら言った。
「わたし、この春から高校に通うから」
「はい?」
予想外の返答に、私は目が点になる気持ちだった。
(高校? 吸血鬼が……高校に通うの? なんで? そこ繋がらなくない? そもそも何高校? 私立ドラキュラ高校とか?)
私が釈然としていないのはゾルカにも伝わったと見えて、彼女は長く息を吐いたのち補足してくれた。
「わたし、15歳の時に吸血鬼になったんだ。それからしばらくは人間社会から距離を置いて暮らしてたんだけど……やっぱ人並みに学校生活とか送ってみたくなっちゃってさ。だから特殊な手段を講じて日本の高校1年生の身分を手に入れた。もちろん、全日制の一般的な高校のね」
「ああ、それで早起きの必要が……」
いや無茶だろ。正午過ぎの起床で既に死にそうじゃん。高校生なんて下手な社会人よりも早起きを要求されるのに、なんでチャレンジしようと思ったんだよ。
そんなツッコミが口をついて出そうになるのを私が懸命に堪えていると、彼女が布団を纏ったままのそのそとベッドから降りて来て、私の目の前に座り込んだ。
「そこで、杏朱ちゃんの出番」
虚ろな緑色をした彼女の瞳が、私の姿を朧気に映した。嫌な予感がする。
「ゆうべ、わたしは杏朱ちゃんの血を吸ったよね。吸血鬼は血を吸った相手を下僕として支配できるの。その力をもって……坂出杏朱ちゃん、キミをわたし専属の目覚まし係に任命します。ばばんっ」
はい的中。この女、私をお母さん扱いするつもりです。
「因みに目覚まし係っていうのはねぇ〜」
「嫌です」
むろん、私はまっぴらごめんだ。ただでさえ会社の経理で忙しいのに、これ以上余計な仕事を増やして堪るか。
「まだ何も言ってないじゃん……」
いじけたようにゾルカがうなだれるが、言われなくても大体わかる。簡単な推理だ。
①体質的に朝起きられないゾルカを何とか起こして、身支度をさせて学校へ送り出す。
②ゾルカが疲れて帰って来たら全身全霊で労い、翌日への英気を養うべく自らの血を提供する。ただし私の健康に支障のない範囲にとどめること。
③上記サポートのほか、ゾルカが学校生活をエンジョイできるよう最大限努力する。
④ゾルカが吸血鬼であることは、ゾルカの認めた者以外に教えてはならない。
⑤ゾルカを世界中の誰よりきっと愛さなければならない。
⑥ゾルカを裏切ってはならない。
⑦決して裏切ってはならない。
とまあ、精々こんなところだろう。ゾルカの境遇には多少同情するが、こんなふざけた要求を飲むわけがない。全く、寝言は寝て言って欲しいものだ。
(……って、あれ? なんで私、こんな隅々まで把握してるの? あれぇ〜??)
私が自分の心の異変に困惑しているのを知ってか知らずか……一方のゾルカはいじけるのをやめてフッとほくそ笑んだ。
「……ま、いいや。杏朱ちゃんはきっとわたしを見捨てない。そういう人だって見ればわかるもん」
そう言いながら、彼女は纏っていた布団を離し、スウェットの襟元を引っ張って胸元を見せて来た。
「こ、れ。覚えてる?」
「え?」
見ると、露わになった彼女の首筋や胸元には数々の赤い鬱血痕や点線のような痕が刻まれており、
「……あっ」
それが私の記憶の断片を蘇らせた。昨夜、ゾルカに血を吸われて錯乱した私は衝動のまま彼女をベッドに押し倒し……指を這わせ……口唇で味わい……思うさま体温を塗り込み……
「あ゛〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
己がつけたキスマークや歯型にまみれた女を目の前にして、私は身悶えした。何たる不覚。意識のない間にしっかりやることはやっていたなんて。しかも、話を整理すると私が襲いかかった相手は……ああ! そんなのありかよ。どういう罠だよ。あんなに大人びてるんだから、それなりの年齢だと考えるのが普通じゃないか。
「仮にも15歳に手を出したんだもん。責任、取ってくれるよねぇ〜」
終わった。
三日月形に口角を上げて勝ち誇るゾルカを前に、私は跪いて悔しがるしかなかった。目覚まし係、どうやら拝命するしかなさそうです。
「……と、いうわけで。改めて。何卒よろしくね、杏朱ちゃん」
ゾルカが私の顎に指をかけ、つまみ上げて目線を合わす。腫れぼったいまぶたの奥に光る瞳は、やはり深いエメラルド色だった。
《つづく》