「最後の便り」
駅前の郵便局には、今日も古びたポストが立っている。今となっては、誰も手紙など出さなくなった時代だが、それでもあのポストには、時折ひとつだけ、宛先のない手紙が投函される。
今日、その手紙を書いたのは、七十歳の岡本陽子だった。彼女が宛てたのは、十年前に亡くなった夫・誠への便りだった。
---
「誠さん。元気にしていますか。あなたが逝って、もう十年が経ちました」
陽子は便箋に、少し震える手でゆっくりと文字を綴っていった。文机の横には、小さな仏壇があり、その中には誠の笑顔の写真がある。相変わらず、やさしげな目をしている。
「この十年、私はあなたの代わりに、できるだけ笑うようにしてきました。泣きたい夜も、たくさんありました。でも、あなたなら『大丈夫だよ』って言ってくれる気がして」
彼との出会いは、学生時代だった。陽子は文学部、誠は理学部。全く違う世界にいたのに、たまたま図書館で同じ本を手に取った。それが始まりだった。
最初のデートは小さな喫茶店。陽子はカフェオレ、誠はいつもブラックだった。「君は甘党なんだね」と笑ったその顔が、今もはっきりと浮かぶ。
ふたりは結婚し、子どもを持ち、慎ましいが幸せな家庭を築いた。誠は寡黙で、でも必要なときには必ず背中を押してくれた。定年後は一緒に旅をしようと約束していたが、それは果たされなかった。誠は突然、心筋梗塞で倒れたのだった。
---
「あなたが逝ったあと、しばらくは空っぽでした。けれど、孫が生まれて、私の世界に新しい色が差しました。『おじいちゃんに会わせたかったな』って、よく思います」
陽子の娘・美佳は、数年前に女の子を出産した。孫の莉子は、陽子の老いた手を握って、まるで誠の面影を持っているかのように微笑む。
「莉子がね、『空の上のおじいちゃんって、どこにいるの?』って聞いたの。だから私は、心の中にいるんだよって答えたの。そうしたら、『じゃあ、お手紙出せば届くかな?』って言うのよ」
陽子はそのとき、笑いながら泣いた。だから今日は、莉子と一緒に、手紙を持って郵便局へ来たのだ。宛名のない、空の上への便りをポストに託して。
---
「誠さん。私はもう、そんなに長くは生きられないかもしれません。でもね、不思議と怖くないの。あなたが待っていてくれる気がするから」
陽子は封筒を閉じ、静かに立ち上がった。仏壇に一礼し、家を出る。郵便局までの道は、どこか懐かしい匂いがした。蝉が鳴き、風が草を揺らす。
赤いポストの前で立ち止まると、隣に立つ小さな莉子が、「じいじに届くかな」と心配そうに言う。陽子は微笑んで答えた。
「きっとね。空の上にも郵便屋さんはいるから」
手紙は、カタン、と音を立ててポストに吸い込まれた。その瞬間、風がふわりと吹き抜けた。まるで、誠がそこにいたように思えた。
陽子は空を見上げた。雲の切れ間から差す光の先に、遠く微笑む誠の姿が見えたような気がした。