『夜の花屋』
閉店間際の花屋に、その男はやってきた。
「すみません、もう終わりですよ」
そう声をかけたのは、店主の藤崎美弥。三十七歳。父の代から続くこの小さな花屋「華かげ」を継いで三年になる。夜の商売は儲からないが、昼間働く人間にとってはこの時間が「買い時」なのだ。
男は、背が高く、少し猫背で、眼鏡をかけていた。歳は四十を少し越えたくらいだろうか。右手に手ぶら、左手には紙袋。少し疲れた顔で、美弥の顔を見た。
「遅くにすみません。白い花……一本だけ、ありますか」
「一本?」
「はい。あまり派手でないものを。できれば香りの強くない」
花を一本だけ買う客は珍しくない。けれど、この男の言葉には何か、断ち切るような緊張感があった。
「供花ですか?」
「いえ……違います。ただ……、贈りたい人がいまして。でももう、届かないところにいるんです」
美弥はふと、白いアネモネに目を留めた。小さな蕾が開きかけている、静かな白。
「この花、ご存じですか?」
「アネモネ……、ですよね?」
「ええ。花言葉は、“あなたを愛します”」
男は少しだけ目を伏せ、口元に小さな笑みを浮かべた。
「それは……、今さら言っても仕方がない言葉です」
彼は財布を出し、丁寧に現金で支払った。そして、受け取ったアネモネを紙袋の中にそっと置く。
「今日が、その人の誕生日なんです。でも……亡くなってもう五年になります。妻でした」
美弥は、言葉を失った。何か気の利いたことを言おうとしたが、口が動かない。
代わりに手元の包み紙を丁寧にたたみ、男の手に渡した。
「その花、きっと届きます。どこかで見てますよ」
男は少しの間、黙っていた。
「……そうですね。ありがとうございます」
彼は一礼して、夜の街に消えた。紙袋を片手に、ゆっくりと。
花屋に静寂が戻った。壁掛け時計は午後九時を回っていた。美弥はカウンターにもたれ、ふぅと息をついた。
──自分も、五年前に夫を亡くしている。
事故だった。朝、ケンカしたまま別れた日だった。あのとき言えなかった「いってらっしゃい」が、今も胸を締めつける。
あの男と、自分は似ていた。言えなかった言葉を、今も胸に抱えて生きている。
ふと、店の入り口に目を向けると、一輪だけ余った白いアネモネがガラス越しに揺れていた。
──一本の花を、誰かのために買う。
──それだけのことで、人は少しだけ赦される気がする。
美弥はその花を取り上げ、小さな瓶に挿した。そして照明を落とし、シャッターを下ろす。
夜の花屋は、静かに眠りについた。