『雨のベンチで』
その日、朝から雨が降っていた。
傘を持たずに出たのは、わざとだった。びしょ濡れになれば、少しは何かが流れていく気がしたのだ。
公園のベンチに、彼は先に座っていた。グレーのジャケットに濡れた肩。煙草は吸わなくなったのだろう、手持ち無沙汰な様子だった。
「来てくれると思わなかった」
「私も、来ないつもりだった」
ふたりとも、笑わなかった。ただ、雨音だけが会話の隙間を埋めていた。
五年付き合い、最後の一年はすれ違いばかりだった。仕事に忙殺され、言葉が減り、優しさの順番を間違えた。それでも別れ話を切り出せなかったのは、惰性というより、諦めを愛と取り違えていたからだろう。
「……結婚、決まったんだって?」
彼が言った。私はうなずいた。
「来月、式を挙げる」
「そっか。いい人なんだろうな」
「うん。私をひとりにしないって言った人」
彼は何も言わなかった。ただ、ゆっくり立ち上がり、ポケットから何かを取り出した。
小さな箱だった。濡れて、角が柔らかくなっていた。
「これ、ずっと渡せなかった。もう必要ないけど……捨てるには惜しいから。預かってくれ」
私は受け取った。開けなくても中身は分かっていた。あの頃、誕生日のたびに期待して、でも最後まで渡されなかった“約束”。
「ありがとう」と言いかけて、やめた。そういう言葉は、終わりを美化してしまう。
「元気でね」
それだけ言って、私は背を向けた。傘も差さずに歩き出す。少しして、後ろから声が追いかけてきた。
「……濡れるぞ!」
「もう濡れてるよ」と返さずに、小さく手だけを振った。
ポケットの中、指輪の箱がひんやりと温度を奪っていく。
でも私は、ちゃんと前を向いていた。