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2.おかえりと言ってくれる人

美波が家に着いた頃あたりはすっかり暗くなっていた。

鍵を開け、ただいまと1人言う。

航平がいなくなってからおかえりと言ってくれる人はもう誰もいなくなったはずだった。

しかし、その日は廊下の奥から誰かの声がした。


「おかえり。」


その懐かしい声が美波を震わせた。

靴を脱ごうと俯いていた顔を上げることができなかった。

顔を上げてしまったらその声がまたどこかに消えてしまうのだと、この声の主はもういないのだと実感させられると思っていたから。


「顔を上げて。美波。」


優しい言葉に導かれ、美波はゆっくり顔を上げる。

日に焼けた足には一緒に作ったミサンガ。

いつも履いていた薄い水色のジーパン。

お揃いで買った船の刺繍が入ったブラウス。

指には婚約指輪。

目が合うと彼は困ったように眉尻を下げながら笑った。


「ごめん美波。なんか戻ってきちゃった。」


間違いなく彼だった。


「会いたかった…。航平…。」


美波が航平へ駆け寄ろうとしたが脱ぎかけていた靴に躓き転けた。

大丈夫?と心配して駆け寄ってきた航平に美波はそっと手を伸ばした。


「航平…。っーーー!」


美波の伸ばした手は何に触れることもなく宙を掻いた。

足がないわけではない。体が半透明なわけでもない。

ただ見ているだけならば普通の人間となんら変わりないのに触れることはできなかった。


「…やっぱり…死んじゃったんだ…航平。まだ遺体も見つかってないから…どこか…どこかで…。」


言い終える前に涙が止まらなくなった。

陽翔からの告白などとっくに忘れ去っていた。


今美波の心の中は航平だけだった。





「驚いた…よね…。なんで急にこんなことになったか俺にもわからなくて…。ごめん。」


「ううん…大丈夫…。とりあえず家の中に入っていいかな…。」


美波はリビングのソファにゆっくりと腰を下ろした。

その横に航平も腰を下ろす。


「夢…なのかな…。こうやってまた航平と話せる日が来るなんて…。」


「俺も…。もう美波に会うことなんてできないって思ってた。」


リビングの明かりは落としたまま。

窓から差し込む月の光だけがぼんやりと2人を照らしている。

まるで、この世界で2人っきりになったみたいだった。


「なんで助けようとしたの…。」


こんな質問意味がないとわかっていた。

自分が愛した優しく正義感が強い航平は人を助けるのに理由など持ち合わせていないことを美波こそが一番わかっているはずだった。

航平は少しだけ目を細めた。


「助けたかったんだ…その子が海に飲み込まれた時にそのまま海へ引き摺り込まれるだけなのを黙って見ていることができなかった。」


「でも…」


でも。あの子も死んだ。航平が海へ命を差し出さなくともあの子は死ぬ運命だったのだ。


「あの子は…どうなったの?」


その航平に問いかけにそうか。と美波は思う。

航平は知らないのだ。あの子がどうなったか。

生きているか死んでいるかさえまだ知らないのだ。

真実を言うならば、嵐が止んでからあの子は亡くなった状態で海に浮かんでいるのを発見されたと言うことを言うべきだろう。だが美波は嘘をつくことを選んだ。


「あの子はあのあと病院で治療を受けて今も元気みたいだよ。」


「そうか。よかった。」


美波の優しい嘘に航平は笑顔を見せた。

ズキと心に刺さった罪悪感に美波は気づかないふりをした。


「じゃあ、美波を悲しませだけだなぁ…俺の心残りは。」


「私、航平がいなくなった世界でも…ずっと頑張って生きてたんだよ…。」


「ごめん。」


「ずっと寂しかった…会いたかった…」


「ごめん。」


そう謝る航平の顔には罪悪感だけでなくどこか安堵も浮かんでいた。

美波がずっと自分を忘れずにいてくれたこと。

今もこうして涙を流すほどに愛してくれていること。


「私ね。航平が飛び込んだって知った時。海に行ったの。一緒に海に飛び込もうとしたんだけどね。航平のお兄ちゃんが止めてくれたんだ…。」


瀬凪(せな)が?」


「うん…。瀬凪さんがね。航平がまだ見つかってない以上生きてる可能性もあるんだから。一緒に待とうって。」


「ごめん……。生きててくれてありがとう美波…。」


初めて航平が涙を流した。

慰めようと手を伸ばそうとも触れられないことを思い出し行き場のない手をそっと美波は膝の上に戻した。

触れられない距離がもどかしい。

声は届くのに、温もりだけが届かない。


その夜2人は話した。

2人での思い出の場所。

2人でやりたかったこと。

航平がいなくなった後の世界でどんなふうに生きていたのか。

今日までどうやって来たか。



やがて夜の闇にうっすらと光が混ざり出した。

朝がすぐそこまで来ていた。


「今日も会社だろう。ちょっと寝ていけ。俺が起こすから。」


「寝ちゃったら、航平が消えちゃう気がして…。」


大丈夫だから。と笑う航平の笑顔を見て美波は抱きつきたい衝動に駆られた。

ぎゅっともう離さないと言わんばかりにしがみつきたかった。

だけどできない。

その代わりに美波は心の中でそっと航平に触れた。

航平の温かさに包まれながら美波は眠りについた。

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