10.23:47
「えぇ、今日ラーメン売り切れなんですかぁ?」
「そうなのよ。ごめんね由香ちゃん」
食堂のおばさんとすっかり仲良しの由香が雑談を始める中、美波は先に取っておいた座席で1人サンドイッチを食べていた。
「あ、先輩!」
嬉しそうに陽翔が駆け寄ってくる。
私のサンドイッチを見た後陽翔はカタカタとスマホで何かを始めた。
「何してるの?」
スマホを覗き込もうとした美波を避けるように陽翔は体をのけぞらす。
「今日の晩飯どうしよっかなって探してるんです!ちゃんとサンドイッチ以外にしますって!見ないでください!」
陽翔が自分のために何かを考えてくれている。そのことに美波は喜びを感じた。
しかし、その喜びは美波には苦痛となるのだ。
航平への苦々しい思いを閉じ込め、栓をするかのように美波はサンドイッチを口に詰めた。
難しい顔をしながらもごもごとサンドイッチを口に詰める美波に陽翔は微笑みかけた後、
「今晩楽しみにしてますから。」
そう言い残して立ち去った。その陽翔の背中を美波は黙って見送った。
由香が昼食を買って席に着き、工場を見に行った時の陽翔の話をしてくれていたが美波はずっと上の空だった。
それでも由香は話し続けた。
「工場の従業員のおばさんが陽翔くんを口説いてさぁ、陽翔くんったらずっと真顔で固まってるの!ほんと面白かった。銅像かなって思ったもん。」
1人で話す由香に美波はうんうんと感情のこもらない相槌を返す。
美波の異変に気付きながらも由香は1人話し続けた。
ー美波が私に相談しないと言うのなら…もう余計な手出しはよそう。
ーいつか私を美波の方から頼ってくるまで…
それまでは見守る。そう由香は心に誓ったのだ。
カウンター越しに見えるシェフの手元、暖かな照明、落ち着いたジャズのBDM。
2人の空間にワインの赤が色を添える。
「ん。これ美味しい。ほら食べてみて。」
美波がフォークで小さなトマトソースパスタを掬って差し出す。
陽翔は驚きながらも、美波のパスタを頬張った。
「美味しいですけど…今の…あーん…でしたね。」
もごもごと恥ずかしそうに喋る陽翔に美波もはっと気づく。
航平がいなくなって美波と2人っきりで食事に行くのはここ数年由香くらいだったのだ。その癖が今こうして出てしまったのだろう。
陽翔が赤面してからそのことに気づいた美波は遅れて耳を赤く染める。
2人は仕事を終え、イタリアンレストランへと来ていた。
陽翔が昼間に予約していた店だ。
赤面している美波をみて陽翔は自然と笑顔になった。
「何余裕ぶってるのよ。」
陽翔の笑顔を見た美波が怒ったような素振りを見せながら陽翔に尋ねる。
「先輩。今日昼間そんな髪型じゃなかったじゃないですか。俺のためにしてくれたのかなって考えてました。」
そんなことにまで気づいてくれるのか。と美波は驚いた。
昼間は色々考え込んでしまったがこのままの気持ちで陽翔と共に夜ご飯に行くのは陽翔に失礼だと思い気合を入れる意味も含め、由香に頼んで髪を結ってもらったのだ。
男性というものはそういう些細な変化に気づかないものだと思っていた美波は不意打ちを喰らったせいでまた顔を赤く染める。
そして、ワイングラスを手に持ち急に飲み出した。
「え、先輩?」
慌てて止めようとする陽翔の手を振り払い一気に飲み干す。
「後輩に翻弄されてたまるもんか!もう飲んじゃうんだぁ!」
絶対後で後悔しますよそれと忠告する陽翔の言葉を無視して美波は追加のワインを頼んだ。
5杯目に差し掛かる頃にはもう美波はすっかり酔いが回っていた。
「陽翔くん、陽翔くんのペペロンチーノも食べたぁい。」
そう言って美波は陽翔に向かって口を開けた。
ーこれは、俺が、あーんをする番…?
陽翔は戸惑いながらもフォークにくるくるとパスタを巻きつけ、美波の口へ運んだ。
美味しいね。そう言って陽翔に笑いかけるその笑顔が以前見た、美波が航平と名前を呼びかけながら浮かべていた笑顔に似ていて…。
「このまま俺のこと好きになってくれないかなぁ。」
美波の口元についたソースを拭いてあげながら陽翔はつぶやいた。
「先輩として奢りますぅ!」
「俺が誘ったんで俺が払いますから!財布しまってください!!」
譲らない美波に陽翔が提案をした。
「ここで俺が払います。また後日にでも割り勘にしましょう?レシート見てちゃんと割りましょう。」
それなら…と美波は財布をしまった。
まぁ、陽翔には割り勘する気などさらさら無かったが。
2人が店を出る頃には終電ギリギリという時間だったが、美波の家では徒歩で帰れる距離だったため、陽翔は送って帰ることにした。
こんな酔っ払いを1人で歩かせるくらいなら、自分はネカフェで寝ればいいと思ったのだ。
「飲みすぎたぁ……」
「だから言ったじゃないですか…」
呆れたように陽翔がため息をつく。
陽翔の手はさりげなく美波の肩を支え、その手の温もりが思ったよりも優しくて、美波はふと心の中で航平の顔を消そうとしていた。
今の航平にはない温もりが陽翔からはしっかりと感じられた。
いくら航平の顔を消そうとしたって、家に帰れば彼はいるはずであって…。
家まで送ってもらってドアの前で
「じゃあ、俺帰りますね。」
そう言って陽翔が美波に背を向けて帰ろうとした。
だが陽翔はくるりと振り返って美波に尋ねる。
「この近くにネカフェとかありますかね?」
「…え?」
美波は一瞬ポカンとした顔で陽翔を見た後、ハッと我に帰って腕時計を見た。
23:47
これじゃもう終電に間に合わない。
美波は少し考えたあとで口を開いた。
「……泊まっていけばいいじゃん」
「……え?」
陽翔は美波の言葉に目を丸くした。
「泊まって…行ったら…いいじゃん。ソファもあるし、大丈夫だよ…」
視線は合わせない。でも、口調には無理やりの明るさが滲んでいた。
「え…いや…でも、流石に申し訳ないですよ…」
陽翔が慌てて断ろうとするのを美波はぴしっと指を立てて制した。
「今日!君は!うちに!泊まるの!」
強引で、どこか必死な声。
そのまま陽翔にそこで待っといてね!ちょっと掃除するからね!帰っちゃダメなんだからね!とだけ告げて家の中へ入った。
ドアの内側で美波は深く深呼吸をした。
ー航平。
名前を呼ぼうとしたが、どうも室内に気配があるように思えなかった。
リビングにもキッチンにもどこにも彼の姿はない。
「…泊めるからね!航平!」
家全体に聞こえるように少し声を張ってそう言った。
返事はなかった。
航平が消えてしまったことの心配よりも美波の心のうちを占める彼ががきっと今もドアの外で待っているのだろう。
美波は急いで玄関へと戻り、ドアを開けた。
陽翔は少し赤らめた顔で立っていた。
美波の顔も少し熱っていた。
だがそれもこれも全部。
お酒のせいだから。
2人はそう心に言い聞かせた。




