第4章 中学1年 秋
“衣替え移行期間についてのお知らせ”
夏休みが終わってしばらく経った。夏休み中にこんがりと焼けた酷い日焼けも、夏の暑さが和らぐのと同時に少しずつ引いてきたように感じる。まだ学ランを着るには暑いが、日も短くなってきた。配布された衣替えについてのお知らせに目を通す。
朝のホームルームが終わり、教室が再び騒がしくなった時だった。
「今日の放課後、合唱コンとかの打ち合わせするから」
クラスの女子の学級委員が話しかけてきた。
「あぁ、わかった」
一瞥して一限の数学の教科書を机の中から探す。委員会の仕事やら合唱コンやらで忙しくなりそうだ。
ちなみに合唱コンで、俺はアルトのパートリーダーになった。なかなか声を出したがらない男子のリーダーになるのは骨が折れそうだが、仕切られるよりかは幾分かはいいのかもしれないとも思った。
全ての授業が終わり、放課後になったあと、学級委員は2組の教室に集められた。2組で学級委員をしている菜乃華も椅子に座っており、俺のクラスの学級委員と話しながら笑っていた。2人は、俺が教室に入ったのに気がつくと、こちらを見てニヤッと笑った。
「なんでいるの!みよし!」
「いや。お前が放課後来いって言っただろ朝に!」
「え〜覚えてなーい」
菜乃華も笑って追い打ちをかけてくる。
「え、呼ばれてないのに来たの?何してるの三好。」
はいはい、と言って誰の席か分からない入口に1番近い席に座る。ユニフォームにはまだ着替えていないが、着替え一式が入ったエナメルバックは静かに机の横に置かれた。
星もクラスに入ってきた。星は3組の学級委員をしていて、学級委員会の仕切り役もしている。星が教室に入ると、学級委員達のモードが仕事モードに少し切り替わる。
「じゃあ始めるんだけど、まず10月頭にある期末テストの予想問題作成について…」
先程笑っていた2人も真顔になって話を聴く。俺たちの学校は学級委員がテスト前に予想問題を作り、その学年に配るという慣わしがあった。前回の予想問題の作成の反省点を踏まえて、今回の予想問題をどうするか、という話し合いの内容だった。
「今回の予想問題作成で、意見ある人はいますか?」
星の問いかけのあと、少しの沈黙があった。すると菜乃華が手を挙げた。
「前回は学級委員のクラスごとに担当する教科を決めてたと思うんですけど。今回は各クラスの学級委員が得意な科目で教科を割り振った方がいいと思います。例えば社会は三好のクラス、数学は私のクラスの仁多見が得意だから…」
菜乃華はテキパキと発言する。こうした方がいい、こう改善したらいいという事をここまで的確に発言できるのは感心する。
菜乃華はいくつか指摘した後、以上ですと言って座った。すかさず俺は賛成です。と言い、拍手をした。拍手をされ、少し照れながら笑ったポニーテールの毛先だけが、少し揺れた。
その後、学年委員会で少し合唱コンについて話し合いをしたあと、少し遅れて、星と部活に行った。
外野側のフェンスのドアからグラウンドに入ると、先輩(主に全く真面目に部活をしないメンバー)から罵声が飛んできた。
「おい三好! 何サボってんだよー!」
ノックを受けている最中の正さんが、逸早く俺をみつける。
「おいおいみつよし!お前外周100周してこい」
特に部活をしないメンバーの2人目、梢矢さんがまた意味のわからないことをいう。俺はみつよしじゃない、みよしだ。
こんな時俺はヘコヘコ頭を下げながらグラウンドを走ってくるかと言うと、そうでは無い。すいませーん、と言いながらも、どうしても笑ってしまう。部活しない先輩にそんなことを言われてもひたすらに 面白いだけだ。
外野側から3塁側のベンチに到着し、エナメルバックと教科書類が入った黒いリュックを置く。日が短くなったのを実感するが、ナイターで部活をする程ではない。西の方が少し赤く染まり始めていて、赤からオレンジ、黄色、薄い青と、グラデーションになっていて、綺麗だ。
部員は顧問のノックを受けている。昂さんが3塁側のベンチに来た。こっちを、チラリと見て声をかけた。
「おう、委員会か」
星が俺より先に答える。
「そうです」
ベンチに置いてあった水筒を取り出して、お茶を飲み、腕で口を拭った。おつかれさん、と言ってまたノックに戻った。
俺と星はなにか言葉を交わすわけでもなく、柔軟体操を始めた。
それは次の週の土曜日のことだった。
部活の後、誰が言い出したわけでもなく、部活後にテスト勉強することになったのだ。
「じゃあ、場所は昂の家ね」
と、伊角さんが言った。そして俺の方を振り向いて、こうつけ加えた。
「三好、社会の勉強の仕方教えて欲しい」
伊角さんの口角が上がっていた。俺は社会、特に歴史がオタクレベルで得意なのだが、それを知っていての発言だ。昂さんや正さん、梢矢さんは前のテストの後、かなりの期間居残りをさせられていたから、そんなに勉強はできる方ではない。点数を聞く限りでは伊角さんは学年一桁には入っているのではないかと予想しているが、なかなか順位だけは教えてくれない。
「あーいいっすよ」
そう言ってから、後輩が先輩に教えるってなんか不思議な感じがすると思った。だがしかし。
「昂さんちゃんと勉強しないとダメですよ。また合計200点切っちゃいますよ」
「うるせーなぁ」
昂さんがぶっきらぼうに返す。困った先輩だ。
昂さんの家に行く途中、チャリに乗った伊角さんと合流した。伊角さんは
「三好がチャリに乗ってるのめっちゃ面白い」
と訳の分からないことをペダルを漕ぎながら言った。
昂さんの家は、県で1番大きい川から分岐した、泳いで渡れそうなくらいのくらいの川幅の川の堤防沿いにあった。このあたりには河川敷球場がいくつかあって、小学生の時も何度かこの辺りの球場に来たことがあった。
「この辺綺麗だよね」
伊角さんがチャリを漕ぎながら言う。外は晴れていて、河川敷の野原の緑が眩しく、川面は陽の光が反射して光っていた。
昂さんの家は典型的な和風建築だった。玄関に設置してあるチャイムを押すと、間もなく昂さんが顔を出した。
「どうぞ」
昂さんはぶっきらぼうにそう言う。お邪魔しますと言って玄関を上がると、微かに線香の香りがして、祖父母の家を連想させた。
玄関近くの和室に入ると、凛太がいた。
「いたのか」
「いたよ〜」
そう言いながら、凛太の手にはゲーム機が握られていた。
「…勉強する気ないだろ」
「やるよー」
凛太は腑抜けた声で言った。昂さんは2階から教科書を持って階段から降りてきた。
伊角さんは黙って丸いちゃぶ台の前に腰を下ろし、社会の教科書を広げた。
「ほら、昂もやるよ。開いて。」
伊角さんはワークも同時に開く。俺の方を向いて、まだほとんど終わってないんだよねーと言った。
「俺もまだほとんど手をつけてないです」
俺も社会の教科書を開く。そして隣でぼーっとしている昂さんにも開くように言う。おそらく昂さんはいつもワークをやってすらないから、点数が取れない。部活に遅れないためにもちゃんとやって欲しいところだ。
おもむろにノートを取り出し、テスト範囲の教科書の太字を書く。
「うわ、そーやるんか。私教科書まとめたことなんてないわ…」
重要語句を赤でノートに書き、その下に矢印を書く。そこに単語の説明を軽く書く。
やっぱり頭いい人はやることが違うな…と伊角さんが言った。そんなことないですよ、こうした方が頭に入りやすいです。と返しながら、どんどん太字をノートにまとめていく。
それを横目に見ながら昂さんが言った。
「俺、教科書読んでも意味がわからねーんだよ」
「へへっ」
伊角さんがありえない、という顔をした。伊角さんはよく「ええ?」と言うのだが、大体笑いながらそれを言うので俺には「へへっ」と笑っているようにしか聞こえないのだ。
俺は2年生の歴史の範囲を聞き出し、昂さんの教科書を無理やり開く。
「あぁ、ルネサンスのところか」
「そうそう。私もその辺苦手だわ」
「俺はもう理解するのあきらめてる」
寝ぼけたことを言っているが、昂さんはページを開いた瞬間に、ダビデ像を見つけ、じっと見つめた。
「いやいや、どこみてるんだよ!」
つかさず俺がツッコミを入れると、伊角さんはケラケラ笑いだした。
2年生の歴史の範囲を少し説明して、みんな少しずつワークをやるなり、各々の勉強に移った。凛太以外は。
まだほとんど時間経ってないところで、凛太は飽きた!と言った。
「昂さん、キャッチボールしてきましょ」
「おう、いいぜ」
そう言って2人は俺と伊角さんを部屋に残したまま庭の方へキャッチボールをしに行ってしまった。
部屋に女子と2人きりになる状況は、小学校の時に友達が俺の家に来た時以来だったから、ほんの少し、いや、ほとんどないくらいにだけど、緊張した。
伊角さんは、あーあ、あいつら勉強する気ないよやれやれ…と言った風に、窓の外の昂さんと凛太を見た。
部屋の中はとても静かだった。窓から射し込んだ日差しが畳を照らし、その熱が体の周りを柔らかく包んでいた。庭の緑がここからだと眩しい。時間が止まっているように静かで、時折ページをめくる音だけが響いた。
伊角さんはカバンの中から電子辞書を取り出した。持ってる?と聞いてきた。持ってないですと答える。いろんな機能があって面白いよと言ってきた。
「漢字検定受けたことある?」
「いや、ないです」
「えっ、なら少しやってみてよ」
伊角さんは電子辞書の中にある、漢字検定のトレーニングのアプリを開いた。
「三好なら5級は余裕か。4級やってみて」
「いや、そんなにできないですよ」
そんな言葉は無視して、伊角さんは電子辞書を渡してきた。5級は確か中一レベルで、4級は中学2年レベルだった気がする。俺は電子辞書を受け取って問題を解き始める。電子辞書の下の方の画面に、タッチペンで漢字を書いていくのだが、横から伊角さんが覗き込んできてなかなか少し集中が途切れそうにもなった。
「すごいじゃん。ほとんど合ってる!」
解いたあと、伊角さんは謎に少しだけハイテンションになった。窓から差し込む日に、部屋の塵がふわふわと浮いているのが見えた。
伊角さんは今日は上にジャージ、下は迷彩柄の少しダボッとした感じのズボンを履いていた。この前公民館で会った時とかなり違った系統だなと思いながら、何でなのかなとも思った。
伊角さんは俺の方を見てニコニコ話した。どんな話をしたかは詳しく覚えていない。ただ、取り留めのない会話だったと思う。
俺は話しながら伊角さんの目すら見れないでいた。話しやすい人だな、ニコニコ笑いながら俺に話しかけてくれる人なんだな。同学年の女子のニヤニヤした笑い方とか、ムカついたような目を向ける人ではないんだな、と言語化するならばそんな感じのことを思って、少し安心したのを覚えている。
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「お母さん聞いて!」
勉強会が終わったあと、私は鞄を玄関に放り出し、台所にいる母親に今日あったことを話した。
「昂の家で今日勉強会したの。で、三好に社会の勉強の仕方教わってね、やっぱりできる人は違うなって思った!でね、途中で昂と凛太が外にキャッチボールしに行っちゃって、で、その時三好と2人きりだったんだけど、それがめちゃめちゃ楽しかったの」
自分でも気が付かないうちに饒舌になっていた。私は学校であったことは割と何でも母親に話してしまうのだが、それに拍車がかかっていた。
母親は野菜を切りながら、そうだったの、へー三好くんってそんな子なのね、と相槌をうっていた。そして切った野菜を鍋に入れる時にこう言った
「かなり気に入っちゃったのね、三好くんのこと」
「えっ」
気に入ったとはどういうことだろう、と一瞬考えたがよく分からなかった。けれども核心を疲れたような気がして、慌てて違うよ!面白いだけだよ、と返した。
一通り話し終え満足した私は、玄関に放り出してあった鞄を自分の部屋に持っていった。机の上を見ると、キャラクターのキーホルダーが置いてあった。恐らく父親が買ってきたか、貰ってきたかした物を、机に置いてくれたのだろう。
「これ、かわいい」
キーホルダーは、可愛らしいキャラクターグッズを沢山販売している有名なお店の商品であった。しかし、可愛らしいというよりは、無気力な表情でなんとも憎めない見目だった。コンセプトは卵だろうか、全身は黄色に覆われていて、白身の上に寝転がっていた。
あ、この黄色は三好の学年カラーだ。そして、この無気力でやる気のない顔つきはあいつそっくりだ。
私は三好のいつもの表情と、この、キャラクターの表情を、重ねてみる。似ている。いや、もう本人そっくりな気がしてきた。
三好はきっとどこかにこのカラーを持っている。キーホルダーを見つめながら、少しだけ微笑んだ。
「君のこと、もっと知ってみたい」
休日が終わり、学校は合唱コンクールに向け、それぞれのクラスから一体感が廊下にまで滲みだしてきていた。
私は家に帰るとひたすら合唱の伴奏を練習する毎日が続いた。指揮者と伴奏を合わせたり、クラスの合唱ポスターのようなものを任され、それを書いていると部活に行けない日が続いた。
「部活に行きたい!!!」
クラスで友達の前で叫んだ。友達も、私も行きたい!!だから早く終わらせなきゃ、と続けた。
合唱コンクールが近づき、秋も段々と深まってきたある週の金曜日の事だった。部活に遅れて行くと、三好が疲れた顔でベンチに座っていた。私がベンチの前に行くと、顔を上げてお疲れさまですと言った。
「どうしたん三好。忙しいん?」
「忙しいです。れいかってやつが仕事押し付けてきて、それに追われてあっという間にこの時間です」
時計は部活終了の6時半の15分前を指していた。れいかって誰だろう?とふと思いをめぐらせ、あぁ、あの髪型がタコウィンナーの子かな?と推測した。
「それは大変だね」
「しばらくは続きそうです」
グラウンド整備を終えた部員がベンチに戻ってきていた。整備くらいできる時間に切り上げればよかったと少し考えた。
「奏音、三好、最後の挨拶だけはするぞ」
昂に呼ばれ、ベンチ前に並び、毎回部活の最初と終わりにしているグラウンドへの挨拶をする。グラウンドに向かって昂が号令をし、部員は低い声で“あざっした!”と、皆自分でもなにを言っているのかあまりよく分かっていない挨拶を大声でする。
横には三好がいた。低い声で
「ありがとうございました」
と、少しゆっくり、しかし丁寧に挨拶をした。
ベンチに戻り、私は三好と委員会について話をした。この中学は珍しくナイター設備があり、秋の特定の期間になると自由に使わせて貰える。秋が深まり、6時半の時点で、既にグラウンドの外側の世界は深い暗闇に包まれているのに対して、グラウンドは酷く明るく感じた。
「パートリーダーにもなったけど、男子は全然歌わない」
三好はそんなことを話した。
「私のクラスの男子も歌わないよ。三好はちゃんと歌うの?」
「いや、歌えてるつもりで多分歌えていない」
三好が何を言っているかイマイチ理解が出来ずに、ええ?と言いながら笑うしかなかった。
帰り支度を終えた他の部員は、ベンチから立ち去り始めていた。私も三好と会話を続けながら、エナメルバッグを肩にかけ、ベンチから半分腰を浮かせた。
「合唱コンが終わったら、期末の勉強しなきゃいけないですよね」
ぼそりと三好が呟いた。
「そうだね。丁度2週間前くらいだね」
三好は無気力な表情で、テスト勉強の話を始めた。私も三好の勉強に対する考え方を聞いてみる。いつも一桁の中には入っていたが、三好のように5位以内をキープするのは、私にとってはかなり難しかった。
そのうち、パラパラと雨が降り出した。私は傘を持っていなかったため、気にせず話を続けた。三好の傘はベンチに立てかけてあったが、さほど雨に気を取られていないかのように、話を続けた。
グラウンド居たはずの他の部員は、もうほとんどがグラウンドの外に出て、それぞれの帰路についていた。
グラウンドのナイターは徐々に明るさを失っていき、外は真っ暗のはずなのに、薄暮の時のような空間がグラウンドを取り巻いている。
綺麗だなぁ…と、薄暗くなったナイターと、グラウンドの周りの田んぼの景色に少し目を移した瞬間、雨が大降りになった。
「何週間前くらいにテスト勉強始めます?」
雨など全く気にしていないかのように話を続ける三好。サッと傘をとり、開いた。
「2週間前にはやりたいけど、いつも何だかんだ本気で完成させに行くのは2・3日前になっちゃう」
風が吹き、かなり横殴りの雨になったが、雨が降りつけてくる方向に三好はほんの少しだけ足を動かして移動した。
「そんなもんですよね。今回技術家庭科あるから、めんどくせぇ」
かなり雨は降っているが、私にはほとんど当たらなかった。
私はこの時瞬間的になぜか、まずい、と思った。
傘が雨から守ってくれる範囲の中に、私と三好がすっぽり埋まっていた。それ以外の場所からまるで隔離されているかのように。
三好、相合傘みたいになっちゃってるよ。あなた、そんなキャラじゃないでしょ。それとも、私が変な位置にいるのが悪いのだろうか。
平然と話す三好にこの心の中の動揺がバレないように、私も努めて平静を装った。
心が感じたことの無い、締め付けられたような感覚になった。私の目の前は、あの時に感じた不思議な黄色い色でいっぱいになった。そのフィルターは薄くて、触ってもすり抜けそうで、けど所々ラメのようにキラキラしていた。
このキラキラ光る鋭利なものは、見ていたら少しでも気を抜いた瞬間に、私の心臓に強く突き刺さってきた。
何分間だったのか、どんな話をしていたのか、もうよく覚えていない。ただ雨はその後、横殴りに降っていたのが嘘のように止み、丁度ナイターも消えてしまったので、そろそろ帰ろうか、と2人でグラウンドを出たのだ。
三好の家の近くの曲がり角に来て、じゃーねーと言った。三好が背中を向けて家に帰る。私も自転車のペダルを強く踏みしめた。
あぁ、この人が、好きだ。
唇を少し噛み締めた。柔らかい感触が歯に伝わり、少しだけ視界がにじんだような気がした。透明な黄色が、まだ自分の周りに残っていた。