四話 『じゃあな』
陽がほんのりと落ち始め、ただでさえ薄暗いこの街もさらに影に身を潜める。
スレイブがこつこつと足音を響かせながら歩いていると、奥の方でスレイブを待つティーマを見つけた。
彼女はいつもこうして待っているのだろう。
連絡手段の乏しいこの国では、はたしてスレイブがいつ来るのかも分からない。
淡い期待を抱いて、ただここで待ち続ける以外に選択肢がなかった。
だから、たまにこうして会えた日には、彼女は嬉しそうに笑った。
「バルター様! 来てくれたんですね」
ティーマはスレイブに気づくと、尻尾を振ったように近づいてきた。
しかし、スレイブの儚げな表情を見てか、その歩みはゆっくりと止まった。
「あの、バルター様……? 何か嫌な事でもありましたか?」
そう心配をかけるティーマに、スレイブは優しく微笑んだ。
「ああ。実はな、もうこうして会う事はできないかもしれないんだ」
そう言うと、ティーマの顔に影がかかった。
「それは、どうしてですか?」
「それがな、遠い所に引っ越しする事になったんだ。もう会えないような程に、遠い場所に。だから、お別れを言いに来たんだ」
意外な事に、ティーマは何も言わなかった。
ただスレイブの瞳をじっと見つめ続けていた。
そのまっすぐ貫くような瞳に、思わずスレイブは唾を飲み込んだ。
「あ、ああ! それでな、老婆心ながらにな、ティーマの事が心配だからさ、これをと……」
若干早口になりながら、スレイブは懐から布袋を取り出した。
「じゃじゃーん! ほら、いつも一緒に飯を食べに行ってただろ? 俺がいなくても、これでうまいものでも食ってくれ」
チャリンと袋を揺らすと硬貨の音が鳴る。
スレイブはその布袋をティーマに差し出すが、彼女は一向に受け取ろうとしなかった。
「……どうした?」
そう尋ねると、穏やかで気弱なティーマの目が、様変わりして鋭くなった。
「あなたは、嘘をついています」
不意に、スレイブの顔からひょうきんさが無くなる。
「嘘……っていうと?」
「遠い所に引っ越すなんて、嘘ですよね。私には分かります。いつも目元をサングラスで隠しているのも、何か知られたくない事があるからですよね」
彼女の瞳は、まるで全てを見通すかのような輝きがあった。
透明な肌に白い長髪が、かすかに差し込む陽の光にきらめき、風に揺れる。
「目元を隠しても、顔に浮かんでいます。貴方のその顔は、戦に向かう男の顔です。命をかけて何かを救う、戦士の顔です」
その時の少女の姿は、あまりにも気品に溢れ、美しかった。
偉大なる女神の御前にいるかのようで、スレイブも思わず口を開けなかった。
「私には分かるんです。己が命をかけて、私を生かしてくれた兄様達と同じ、戦士の顔。……バルター様は、きっと戦をしに行かれるのでしょう?」
スレイブは驚いた。
わずか十三のいたいけな少女が、スレイブの何もかもを見通していた。
その上品な佇まいも合わさって、今の彼女はまさに王女に見えた。
「……ティーマ。アンタは、一体?」
その時だった。
「ようよう。こら、モクモク野郎」
いつぞや聞いたガラの悪い声が、二人の間に割って入った。
にやにやと笑いながら、三人の男がスレイブとティーマに近づく。
(こいつら、あの時の……)
先日、ちょうどここら辺でティーマと遊んでいる時に絡んできた三人のチンピラだ。
一人の男が、口角を上げながら嘲笑した。
「挨拶くらいしたらどうだよ。俺らの縄張りだぞ?」
その男は、ヘラヘラと笑いながら、スレイブに顔を近づける。
怖がっていないかと、スレイブはチラリとティーマを見た。
すると、意外な事に、あまり怯えた様子ではなかった。
「まあいいや。とりあえず、小遣い。置いてけや」
男はそう言う。
先日の件で、完全に舐め切っている様子だった。
「悪いな、今取り込み中なんだ。渡す金もない、帰ってくれ」
「金がないって事ぁないだろ。さっきチャリンチャリンって袋を取り出してたじゃねえか。なあ、嬢ちゃん。こいつにさっきの袋を渡すように言ってやれよ」
ティーマに絡む男を見て、思わずスレイブは言葉を荒げた。
「おい。その子に手を出すな」
その言葉に、飼い犬に手を噛まれたような顔をした男が、憤りを隠そうともせずにスレイブを睨んだ。
「誰に向かって口聞いてんだ、こらっ!」
そう言って男はスレイブの頬を殴りつけた。
ゴンッと鈍い音が鳴り、スレイブの目元を隠していたサングラスが飛んでいった。
「バルター様!」
男は完全に骨を砕く気で拳を振るった。
しかし、スレイブは巨岩のようにピクリとも動かなかった。
口の中で滲んだ血をペッと吐き出すと、スレイブは目の前の男を殴り飛ばした。
「なっ!」
後ろにいた男達が驚きの声をあげる。
スレイブは流れるように二人目に近づくと、有無を言わさぬ速さで男の顔を蹴り飛ばした。
どさりと地面に倒れる。一撃で二人とも意識を失ってしまった。
一瞬のうちに仲間の二人が倒された男は、おろおろと後ずさった。
「な、なんなんだお前は!」
完全に尻込みながら戸惑う男に、スレイブはこつこつと歩みを進める。
そのスレイブの豹変ぶりに、ティーマもどうしてよいか分からず手を胸に当てている。
ちょうどその時だった。
この騒ぎを聞きつけたのか、奥の方から一人の人影がこちらに向かって近づいてきた。
「いったい何の騒ぎだ。喧嘩ならよそでやってくれ」
その人影の胸元には、国王軍の紋章が刻まれている。
憲兵か、騎士団か。何にせよ、自由解放団のスレイブにとっては今一番会いたくない人物だった。
「あっ、へ、兵隊さん! こいつ、いきなり俺達の仲間を殴りかかってきたんです!」
男は兵士にすがりつく。
兵士は面倒くさそうにため息を吐いて、スレイブとティーマを見ると息を詰まらせた。
「……驚いた。どういう顔ぶれだ」
そう呟くと、すがりつく男を払いのけて、すぐさま抜刀した。
それに合わせてスレイブも即座に短剣を抜き、構える。
「バ、バルター様! やめてください!」
ティーマが叫ぶが、すでに戦いの火蓋は落とされた。
兵士が勢いよく長剣をスレイブの首元に振り下ろし、スレイブはそれに短剣をぶつけうまく軌道を逸らす。
その隙に兵士の腕を短剣で切り裂いた。
痛みで思わず後ずさる兵士に追い打ちをかけるように、スレイブはさらに短剣を投げ飛ばした。
それを見た兵士は咄嗟に片方の腕で胴体を庇うと、短剣が腕に深く突き刺さった。
両腕が血が飛び散り、力が入らなくなる。
これでほとんど兵士の両腕は使い物にならないだろう。
スレイブは兵士を思いきり蹴り飛ばした。
手離された長剣をスレイブは空中で奪い取ると、とどめを刺す為にぐんと間合いを詰めた。
長剣を兵士の首元に構える。
その時、兵士がプルプルと震える腕で、何かを取り出した。
「……っ! ティーマ、伏せろ!」
それは銃だった。
即座に兵士の腕を蹴り飛ばすと同時に、パンと発砲音が鳴り響く。
ズレた弾道は、チンピラの男に向かっていった。
「え」
男は反応する間もなく、頭を撃ち抜かれた。
どさりと倒れ、そのまま血の海の中、動く事もなく息を絶えた。
スレイブはその光景に目もやらずに、目の前の兵士に剣を突き刺す。
首元を抉り、内臓を穿つ。
最後まで兵士は抵抗しようと、なけなしの力を振り絞り、刃を握りしめ、こちらを睨んでいたが、やがて目から光が無くなるとそのまま力が入らなくなった。
スレイブはひとつ息を吐くと、額の汗を拭った。
「ふぅ……ただの一兵がこんな物まで持ってやがったとは。危なかった」
スレイブはそう言って、兵士の銃を蹴り飛ばした。
チラリと、頭から血を流して倒れるチンピラを見る。
「……悪い事をしてしまったな」
その目に哀れみを抱きながら、そう呟いた。
「そうだ、ティーマ。無事だったか」
スレイブはティーマにそう呼びかける。
ティーマは泣きそうになりながら、暗い顔を浮かべていた。
スレイブは幻滅やら警戒やらされると思っていたが、意外にも現実を受け止めた上で、彼女はスレイブと向き合っていた。
「なぜ、殺したのですか」
「俺を殺そうとしてきたからだ」
ティーマは口に力を入れる。
「……今までずっと騙してきて、すまなかった。あの時、アンタは俺の事を優しいお方だと言っていたが、実はぜんぜんそんな事ないんだ」
屈んでティーマに目線を合わせながら、いつもの優しい目でそう語る。
「バルター様……」
「……実はな、俺の本当の名はバルターじゃないんだ。本当の名はスレイブ。スレイブっていうんだ」
「……何もかも、嘘をついていたんですね」
スレイブのその儚げな赤い目にティーマの顔が映る。
「アンタの言う通り、俺はこれから戦場に行く。だから、アンタはもうこれ以上俺に関わってはいけないんだ。ティーマ、アンタはこれからの人間なんだ」
それでもなお心配そうなティーマに、スレイブは優しく諭すように言葉を選ぶ。
「アンタもこれから普通に生きて、いずれどこかの誰かと恋をして、やがて老いて死ぬ。そういう側の人間だ」
しんと静まり返った街の中、スレイブの声が響く。
辺りには気絶をした二人の男と、二つの死体が散らばる。
「対して俺は、こう言う界隈の人間なんだ。俺は多分、復讐の為ならアンタだって殺すと思う。……悪い人間だろ?」
スレイブは懐から硬貨の入った布袋を床に置くと、そのまま立ち上がり踵を返した。
「じゃあな、ティーマ。もう溺れたりするなよ?」
「ス……バルター様!」
そう呼びかけるも、スレイブは立ち去っていく。
こつこつと足音が鳴り響き、やがてスレイブは点になると見えなくなった。
一人残されたティーマは、うつむく。
やがて、ぽろぽろと涙が溢れ出した。
また、こうして愛する人が戦場に行ってしまう。
なんでもない平凡な日が今日も訪れるはずだったのに、唐突な血の匂いに少女は泣くしかなかった。
(……あの赤い目、どこかで)
初めて見たスレイブの赤い目を思い浮かべる。
自由解放団のスレイブは、人攫いや奴隷達の間では有名だが、生憎この少女はその噂を知らなかった。
(何故、この兵隊さんはバルター様を殺そうと……)
ティーマは兵士に近づく。
首元に突き刺さった剣から、流れるように血が溢れる。
そんな中、国王軍の紋章が刻まれた胸の近くに、一枚の紙がちらりと見えた。
ティーマはそれを拾い上げる。それは切符のようだった。
血に塗れて使い物にはならないだろうけれども、なんとか文字を読み上げる事はできた。
(切符……バズバルド行き……)
第二の王都と言われる、バズバルド行きの切符。
この兵士はバズバルドへ行こうとしてたのだろうか。
スレイブと兵士を脳内で照らし合わせる。
スレイブの、これから戦場に行くと言う発言が、どうにも引っかかる。
(……バズバルドに行けば、何か分かるかもしれない。分かるかもしれないけど……)
ティーマは涙を拭うと、その場から立ち上がる。
スレイブが置いていったお金と、念の為に銃を回収すると、急いで最寄りの国立職業斡旋所まで駆け込み、受付に向かって鼻息を荒立てた。
「あっ、あの! ……バズバルドで仕事はありませんか!」
兵士が持っていたバズバルド行きの切符。
その兵士が、クルバッカ率いる特別部隊の兵士とは、最後まで知る事はなかった。