一話 『ヴァルハタ王と魔術師ハツナ』
ヴァルトゥナ王国、その王城の地下収容所。
国賊や死刑囚を閉じ込める為の、この国一番の収容施設。
この日も当たらない不気味な空間の一角に、ある一人の男が収容されていた。
その者に食事を届ける為、国王軍所属のクルバッカという男はこの地下収容所に来ていた。
辺りからおどろおどろしい呻き声や悲鳴が聞こえる。
クルバッカはそれらを不快に思いながら、やがてひとつの牢屋の前に立つ。
「ゼツコウ、食事だ」
そう言って、クルバッカは牢屋の中を覗く。
瞬間、目を見開いた。
囚人がどこにもいないのだ。
「そんな馬鹿なっ」
脱走したのか。だが、牢屋の中は窓もなく広くもない。定期的に巡回も来ているはずだ。
クルバッカは辺りをキョロキョロと見回して、焦りを隠そうともしない。
「嘘だろう、ふざけるな、なんでよりによって私の番の時に脱走なんかするんだ」
そう呟いて頭を抱えていると。
「上だ、上」
突如牢屋の天井から声が聞こえ、見上げた。
そこには人がぶら下がっている。囚人服を腰に巻き、はち切れんばかりの筋肉をまとった男が。
天井のわずかな隙間に指を入れ、握力だけで天井にぶら下がっていたのだ。
「き、貴様! ふざけているのか!」
クルバッカが胸を撫で下ろすと同時に激怒した。
「ふざけてなんかねえよ、ただ修練してただけだい」
男はそう言うと、そのまま懸垂をし始めた。
それを見たクルバッカはピキピキと青筋を立てる。
「なるほど、食事はいらんと言うのだな」
そう吐き捨てると、踵を返して戻ろうとする。
「待て待て! 悪かったよ、悪かった! 冗談が通じない奴だな、二度としないよ」
男はそう言うと、スッと地面に着地した。
男の名はゼツコウ。
国王軍の元総長であり、反逆の罪で独房に入れられていた。
体格に恵まれており、ただでさえ狭い檻の中がさらに窮屈に見える。
長い収容でヒゲも髪も伸び放題だったが、この薄暗い檻の中でも輝く凛々しい眼光を持った男だった。
彼は人呼んで、『最強の剣士』と呼ばれていた。
「元国王軍総長だったからって調子に乗るなよ。貴様は囚人なんだ、それも最悪のな。本当なら処刑されていてもおかしくはないんだぞ」
「分かってるよ、へいへい」
そのおちゃらけた態度にイライラしながら、クルバッカは食事を差し出した。
「食事と看守をからかうのが、ここで唯一の楽しみなんだ」
そう笑いながら、食事に手をつけるゼツコウ。
塩気はないが、肉を中心に栄養を最大限に考えた飯だった。
他の囚人とは明らかに待遇が違った。
クルバッカは立ったまま、ゼツコウを見下ろす。
「そうしていつまで無駄飯を食らうつもりだ」
「おっと、食事中に真面目な話をする奴は嫌われるぜ。こういう時はこう話すんだ、最近彼女とはうまくやってる?」
「彼女など私にはおらん。いや、そんな話はどうでもいいだろう!」
クルバッカはため息を吐くと、ゼツコウの瞳を見つめる。
「いい加減この檻も飽きはしないのか。そうやって陽気ぶってはいるが、孤独と暗闇はいずれ精神を殺す」
檻のあちこちから、地獄の釜のように呻き声が響く。
ここに正の感情などない。皆が恐怖に壊れていく。
「……国王に忠誠を誓え。いつまであの反逆者の忠臣のつもりだ」
クルバッカが冷たくそう告げると、ゼツコウの食事の手が止まった。
瞬間、クルバッカの背筋が凍った。さっきまでのおちゃんけらな瞳が、急に獲物を屠る狼の目になったからだ。
これこそが国王軍総長の瞳だった。
「拷問をした事があるか? ああいうのって折れる奴はすぐに折れるが、折れねぇ奴はいつまで経っても、それこそ死んでも折れねぇもんさ。何がそいつらの心を支え続けていると思う?」
クルバッカは固唾を飲んだ。
「──愛さ」
「……愛?」
何を言っているんだとでも言いたげなクルバッカの顔を察して、ゼツコウは鼻でふっと笑った。
「平たく言えば、信念と忠誠心さ。己の尊敬する事の為になら命さえ捧げれる……そういう者は例え地獄の釜にぶち込んでも自分を保てるだろう。俺はそいつらに惚れ、畏れだってしたよ」
彼は一息ついて、クルバッカの目を改めて見つめる。
「……そして俺はまだ、あいつの忠臣だ」
そう静かに語ると、最後にニヤリと笑ってこう言った。
「お前は王の為に命を捨てられるか?」
○●○●○
クルバッカは自室で紅茶を飲んでいた。
日の光を浴びながら、先ほどのゼツコウの言葉を脳内に繰り返していた。
(王の為に命を捨てられるかだと? そんなの、捨てる訳がないだろう)
クルバッカは頭を抱える。
クルバッカには騎士の矜持や忠誠などはない。ただ安寧が欲しくてこの立場についただけだ。
ここにいれば、自分は虐げられずに済む。この安寧が崩されるのであれば、自分はあっけなく王を裏切るはずだ。
なのに何故、ゼツコウは今は亡きあの反逆者の為にいまだに忠誠を誓い、屈辱を耐える。
何故、現国王に忠誠を誓わない。さっさと乗り換えてしまえば、楽に済むものを。
だからこそ、ゼツコウの考えは理解できなかった。
腹の底から噴き出る憤りを鎮めようと、紅茶を一口飲んだ所で、扉を叩く音が聞こえた。
「どうぞ」
そう言うと、扉越しに声が聞こえる。
「陛下がお呼びだ。早急に向かわれよ」
クルバッカはため息を吐いた。
○●○●○
そこは闘技場だった。
王城には闘技場が備わっている。度々ここで催しを開催し、観客を集め、奴隷達に演劇や殺し合いをさせるのだ。
そして今、その観客席に警備兵が配置され、最前列に先王ヴァルガルムと年老いた男が座っている。
舞台には、一人の男がいた。辺りには剣と盾が落ちている。
それ以外の人はいなかった。静かな空気が辺りに立ち込める。
男は煌びやかな装飾が施された剣を引き抜き、上着を脱いだ状態で深呼吸をする。
傷ひとつない鍛え上げられた肉体が呼吸に呼応する。
彫りの深い厳格な顔付きをしており、目元に落ちる影が鬼のように見える男だった。
闘技場の奥の門が開く。
そこからのしのしと現れるのは、彼よりも何倍もの巨体を誇る猛獣、虎だった。
男と虎は互いに向き合う。
丁度そんな場面に、舞台の隅からクルバッカは現れた。
「何をするつもりだ」
その衝撃の光景にクルバッカは目を細めた。
この闘技場に陛下はおられると伝えられたが、はたして一体どういう状況なのか。
そう考えていると、虎は男に向かって走り始めた。
(殺されるぞ)
クルバッカはそう思った。
虎の鋭い爪が男に振り下ろされる。
それをすんでの所でかわすが、さらに第二撃が飛んでくる。
それすらもかわすが、虎の猛攻は止まらない。
次々と攻撃を仕掛ける虎。しかし、全ての攻撃を男は羽根のようにかわしていった。
やがて、怒り狂った虎がなりふり構わずに突進してきた。
男は咄嗟に盾を拾うと、地面に突き刺し虎に向かって突き立てる。
激しい音が響き渡った。
ガリガリと牙を立てる音が盾の向こうから聞こえる。
盾を支える身体に血管が浮き出る。
「っ。うおおおおおおお!!」
男が獣のように叫んだ。
次の瞬間、盾を押し込み、虎の身体を跳ね除けた。
よろけながらも虎は立ち上がると、男に飛びかかる。
男は剣を構えて、虎の懐に潜り込み、全身全霊の力を込めて虎の喉元から腹にかけて剣を突き立て、引き裂いた。
空中ではらわたが舞い、血の雨が男に降りかかる。
虎は地面に倒れ込むと、暴れる暇もなく、ぐったりと力が入らなくなり、絶命した。
「……なんて奴だ、勝っちまったよ」
一部始終を見たクルバッカは目を疑った。
剣と盾を持っただけの人間が、凶暴な猛獣の虎とたった一人で立ち向かい、傷一つ負う事なく勝ったなんて、誰が信じるか。
しかし、それが今目の前で起こった。あの男一人の力で。
あの男こそがヴァルトゥナ王国の王、ヴァルハタ王。
暴君ヴァルハタ、その人だった。
「さすが我の子だ。まさに真の王よ」
ヴァルガルム先王が見物席の上で誇らしげにそう言う。
あっけに取られたクルバッカは、ヴァルハタ王がこちらに気付くのを見てさっと跪いた。
血まみれの純白の髪を風に靡かせながら、静かに歩み寄る。
「何者だ、名乗れ」
「はっ、国王軍騎士団特別総隊長クルバッカ・ランブリアと申します」
顔を伏せたままそう放つクルバッカを見て、少し考えると。
「ああ。貴様か」
表情は変わらなかったが、その血に塗れた鬼のような顔付きに見下ろされ、クルバッカは内心心臓を握られている気分だった。
「本日は私のような身分の者に直接お……」
「前置きはいい。鍛冶屋の件はどうなった? あれはこの国最高峰の腕と聞く。うまく引き込めたのか、ん?」
クルバッカは心臓がズキリと痛んだ。
「それが……申し訳ございません。先日、ガンダイを迎えに行ったのですが、既にその姿はなく……血眼になって探している最中でございます」
「では、《火の民》だ。そっちの件はどうなっている?」
クルバッカは冷や汗を頬に垂らす。
「そちらの方も、尽力してはいますが、いまだ拠点も知れず……」
「だろうな。鍛冶屋には逃げられ、《火の民》にも逃げられる。貴様に一体何が出来ようか」
クルバッカは深々と頭を下げる事しか出来なかった。
クルバッカは国王によって直接編成された特別部隊の総隊長だった。
この特別部隊は小規模ではあるが、一般軍隊とは異なった特殊な任務を任されていた。
特に、《火の民》の捜索。これに力をかけていた。
「まあ貴様だけに言えた話ではないがな。我が軍は実に鈍っている。いまだに反乱分子を根絶やしにできておらんとは」
ヴァルトゥナ王国はその圧政により、多くの反政府組織を抱えている。
ヴァルハタ王は兵を使い、それらを潰そうと試みるも中々反乱分子は減らずにいた。
「ふざけた話だ。奴隷解放だの宣って好き勝手暴れおって、おかげで我が民は飢えてしまっているぞ。これでは微税もままならん」
「──だが、何より優先すべきは《火の民》です」
突如、クルバッカの後ろから声が聞こえた。
クルバッカは内心驚きながらも、平伏を続ける。
布を地面に擦る音が背後から近づいて、耳の横を通り過ぎる。
長いロープに身を隠した、骨のような老人がヴァルハタ王の隣に並ぶ。
彼は魔術師と名乗る老人、ハツナだった。
突如現れたこの老人に、クルバッカは喉元を死神に撫でられたような不気味さを覚える。
(魔術師ハツナ……ついさっきまで見物席にいただろう。いつのまに)
この老人は魔術師と名乗るだけあって、奇妙な術を使う。
昔、遠い国からやってきたこの怪しげな老人。
最初は街を歩き、占いで日銭を稼ぐ小汚い浮浪者だったが、いつのまに王に取り入ったのか、気がつけばこうして王の補佐を勤めるようになった。
「《火の民》はいずれ、このヴァルトゥナ王国を滅ぼします。現に、あの時の殲滅戦の生き残りが反政府組織の一員ともなっているでしょう」
ハツナは淡々とそう話す。
(迫害なんかしたから反政府組織に加担したんじゃないか)
クルバッカは内心思った。
この魔術師は過去、「《火の民》はいずれこの国を滅ぼすだろう」と予言した。
《火の民》とは、この国に生きる少数民族である。
この予言に懸念を覚えた国王は、兵達に《火の民》を皆殺しにせよとの命令を出した。
しかし、その際一人だけ取り逃がしてしまい、今その者は復讐を誓ってか反政府組織に加入している。
この《火の民》殲滅戦は戒厳令を敷き、秘密とされた。
「狙うべきは『自由解放団』だ。奴は今その組織に身を置いている。……最悪その《火の民》の生き残りさえ始末できれば、自由解放団なんぞ放っておいても良い。私の懸念はそれだけだ」
王はそう言うと、血に塗れた剣をクルバッカの首元に突きつけた。
「国を挙げて指名手配しても良いが、我には敵が多い。その《火の民》を懸念していると知れれば、よからぬ事を考える輩に匿われる可能性だってある。だから貴様達に頼んでいるだぞ」
クルバッカは冷や汗を全身に垂らしながら、ひたすら頭を垂れるしかなかった。
「我々も尽力を惜しまず努めます。ですから、何卒時間を!」
必死になって平伏する時間は、クルバッカにとっては数時間にも思えた。
やがてその剣が喉元から離されると、血液が全身を熱く駆け巡るのを感じた。
「……まあそう怯えるな。無能な貴様に手掛かりを与える為にわざわざ呼んでやったのだ」
ヴァルハタ王はニヤッと笑った。
すると、横の魔術師が枯れた口を開け、予言を放つ。
「バズバルドへゆけ。そこに火は現れるだろう」
静かに言い放たれた予言を、クルバッカは眉をひそめながら心の中で反復した。
バズバルド。そこは第二の王都とも呼ばれる、この国における重要区。
今はちょうど、奴隷達を集めヴァルハタ王の像を建設している所だった。
「よいな。バズバルドに《火の民》もとい自由解放団が現れる。貴様の全力を持って、奴を……スレイブを打ち砕け! 《火の民》の血を絶やすのだ!」