青空の見える場所
誰も追いつけないほど、遠くまで行きたい。
地平線のその先、大海原の途切れる場所まで。
この町を離れる必要がないのに、それでも強いて旅に出るのだ。
なにか新しいものを見つけるために。この体中を新鮮な刺激で満たすような体験をするために。
そして私は変わる。変化を求めるわけでも強制されるわけでもなく、変わる。
誰もが目を見開いて驚きを隠せないような何者かに。
誰もがうらやむような何者かに、私はなる。誰にも煩わされないような生き方をする。
私はそのために生きている。死ぬためではない。
私は知っている。
急速に過ぎる時間を無為に浪費するやるせなさを。有り合わせの快楽に飲まれて自分を見失う怖さを。
知っている。
だから旅に出るのだ。この町を離れて。
誘惑のない場所へ行き、生まれ変わって人生を始める。
今までの生活なんか屁でもなかったと軽く笑い飛ばせるような生き方を選ぶ。
ここは私には窮屈すぎるから。
排煙の吹き溜まる町。世界一、失明リスクの高い集落だ。工場が吐き出す煙。その煙は風に乗って私たちの町に流れ着く。
この国に工場は五千あるらしい。その煙が全てここへやってくる。
本当かは知らない。だが、ジョージもスパイクもアリスもメアリーも、ここに住む人は皆、目が見えない。
生まれつきではない。儀式のせいだ。年中、排煙の霧が立ち込めるこの町で古くから伝わってきた儀式。赤子の眼球に傷をつけるしきたり。
捨て子だった私は儀式を受けずに済んだ。
しかし、年々視力は弱ってきている。当たり前だ。一日中煙を浴びているのだから。
物心ついた時、私は地上にいた。おぼろげな記憶をたどれば、ビルや車、飛行機などを思い出せる。親が買い与えてくれたおもちゃだ。
しかし親は私を捨てた。谷底の、煙で覆われた町へ。
きっと私はいらない子だったのだ。何か理由があったのだ。そうに違いない。
仕方がないのだと、私は自分に言い聞かせた。言い聞かせながら、目を閉じたまま、私は大人になった。
この町で生まれこの町で育った仲間がいた。目が見えない、言葉と触覚だけがその存在を伝える友人たち。捨て子の私には心優しい家族だった。
それでも私は、脳裏に浮かぶきらびやかな世界を忘れられないでいた。それを知らない友人を可哀そうに思っていた。あの場所が恋しかった。
戻りたい。もう一度あの場所に帰りたい。
だけど、その後どうする? 親と仲良く暮らすのか。そんなことができるはずがない。私を捨てた人間と、一緒になんて。
考えられない。考えられない。
ならば、復讐しようと考えた。
煙で目が見えなくなる前にこの町を出る。元居た場所へ帰って、復讐する。私を捨てた親を、仲間をあんな運命に陥れた社会を呪ってやる。
町を出るのは簡単だった。私には、町で生まれた人々のような煙臭い体臭がなかった。だからいつも香水をつけていた。それを身代わりの人形に振りまいて、町を飛び出した。
外界との連絡通路を上に上に。数十分ほど走ると排煙地帯を抜けた。
眼下には雲海。私は排煙の上に立っていた。
──空が見えた。
息を呑んだ。
鮮烈な青が私の瞳に突き刺さった。震えた。
天頂に向けて集中する青のグラデーション。
それは私の人生の中で最も美しい色だった。
私の人生はこの一瞬のためにあった。そう思えるほどの。
雲が流れている。鳥が高く鳴いて飛んでいく。
いつしか私は涙を流していた。
もう、復讐などどうでもよくなっていた。
バカバカしい。私は今まで、随分とちっぽけな悩みを抱えていたらしい。誰が誰を恨んでいるというのだ。誰が誰の敵を取るというのだ。
そうだ、誰も死んでいない。みんな生きているじゃないか。あんなにも綺麗な空の下で、生きているじゃないか。
呪いも感傷も皆、青の彼方へ消えてしまった。
今はただ、衝動だけがある。
谷底から見る空はやけに遠い。あそこまでたどり着くにはどれほど時間がかかるのか、想像もつかない。
だが、見えている。この目がそれを捉えている。弱り切った目でもわかる。確かにそれはそこにある。
あの場所まで行きたい。そう思った。
走り出す。快晴の空の下をどこまでも。
胸が躍っている。これが自分なのだと確信する。復讐や呪いなんて似合わない。今この気持ちが真実で、それだけが答えで。そしてそれは希望だった。
ひゅるり、風が駆け抜ける。
大地を蹴って、空の果てまで。