今日からわらわは、そなたの妻じゃ!
我々はよく知っているのだ。
神とは人間の欲望の化身であると。
第一話 今日からわらわは、そなたの妻じゃ!
これは本当によくある話、ちまたで転がっている日常茶飯事。毎日が同じ事の繰り返し。朝起きて、ご飯を食べて、登校して、授業を受けて、帰宅して、夕ご飯を食べて、風呂に入って、テレビを見て、寝る。生活は、その繰り返しだと思っていた。いつもどおり帰宅した午後4時、玄関先で俺を出迎えた見知らぬ少女の、第一声を聞くまでは。
「今日からわらわは、そなたの妻じゃ!」
「…は?」
少女は十歳程度、おかっぱ頭に、鈴の飾りが付いている。大きな黒い瞳な印象的で、白い着物に赤い袴、いわゆる巫女の格好だ。俺には妹もいないし、従姉妹もいない。十歳の知り合いに当てもない。俺はすぐに彼女を警察に連れて行った。
「だ〜か〜ら、妻だと言っておろう」
パイプ椅子にふんぞり返った少女は不服そうに、頬を膨らませた。彼女が背中を伸ばす度に、髪飾りの鈴がシャラシャラと揺れる。
「夫婦喧嘩には基本、、立ち入らないんですよね」
調書を取り終えた警官が、顔を上げた。明らかに面倒くさそうな表情である。取り急ぎ用事もないから、話だけは聞いたよ、と言わんばかりだ。
「お引取り願いますかね」
ちょっと待て。どこをどう見たら、十歳の少女と16歳の俺が夫婦になるんだ。少女の方はさもありなんと、満足そうに首を振っている。
「夕げの支度は出来ておる。帰るのじゃ」
いやいやいや、君が俺の家の玄関から出てきた段階で立派に不法侵入でしょこれ、捕まらないの?
ちょっと待ってください、と言いかけた俺の手を取り彼女は耳元で囁いた。
「これ以上は時間の無駄じゃ」
「じゃあ後は、二人でよく話し合ってくださいね」
な、な、な、何を言っているんだ。俺と君が夫婦?
5分前まで顔も見たことがないのに?
そもそも名前も知らないのに?
この年齢差で夫婦は無理有りすぎでしょ?
「では帰るぞ、保名」
「俺の…名前…」
どうして、と呟く俺の手を引き、少女はふわりと椅子から舞い降りた。その滑らかな動きは、巫女の衣装も相まって天女のように優雅だった。
「夫婦なのだから、当たり前じゃ。清瀬保名、16歳。血液型はA、星座は…」
「ちょっと待って、君…どこかで会ったことある?」
このままだと道端でプライベートまで暴露されそうだ。とりあえず交番を出た俺達は、自宅に引き返した。警察に断られた以上、頼るツテもなかったのだ。
少女はキョトンとした顔で俺を見上げた。意外そうな表情だった。
「毎日会っておったであろう」
「ま、毎日?」
咄嗟に電車やバスの中を思い描いたけれど、一向に心当たりがない。頭の中は完全にパニックだった。
突然玄関に現れた、妻と名乗る少女。
警察は俺たちが夫婦だと言って取り合わない。
彼女とは毎日、会っていた?
「君は…一体…」
「申し遅れたのじゃ。わらわはイナ、稲荷の化身じゃ!
ふつつか者ではあるが、お願いしますのじゃ!」
いつの間にか、俺たち二人は自宅の玄関に戻っていた。出逢ったばかりの少女が玄関先で、三つ指をついて、正座している。完全に嫁入前の儀式だ。
「稲荷? 君は、あの‥お稲荷様?」
通学路の三叉路に祀られている、古ぼけた小さなお稲荷様の事を俺は思い出した。そういえば毎日、手を合わせていたような‥。
彼女は床から指を離すと、立ち上がって微笑んだ。はにかんだような、照れた、満面の笑顔だった。
「末永く宜しく頼むのじゃ!」
「え、ちょっと、待って‥え〜!?」
毎日お稲荷様に拝んでいたら、神様が少女になって、
お嫁に来ちゃった?
どういうこと、これ?
やっぱり、夢?
夢にしては、リアルな夢だなぁ?
「そんなにほっぺを、引っ張って欲しいのか?」
「痛っ、ギヤ〜!」
お稲荷様こと、イナに思い切り頬を引っ張られ俺は玄関先で悶絶した。一体さっきからずっと、何をやっているんだ。ジンジンする頬を擦ると、腕組みをしたイナが満足そうに口角を上げていた。してやったり、の顔だ。
「何って、夫婦漫才じゃ!」
「違〜う! 絶対違〜う!」
俺の絶叫も虚しく、イナはくるりと踵を返す。彼女が動くだけで鈴の音がなる。これは紛れもない現実だと言わんばかりに。
神様、俺、何か悪いことしましたか?
毎日、通学前に祠に手を合わせただけですが。
「お賽銭…入れればよかった…」
どこをどうすれば、何がどうなれば、神様が少女の姿で嫁に来るのか、俺はまだ何も知らなかったんだ、彼女の行く末も、俺たちの運命さえも。
「さぁ、保名。 夕げを食べるのじゃ!」
シャラリ、シャラリと鈴の音が遠ざかって行く。俺は、痛みの残る頬に手を当てながら渋々、スニーカーを脱いだ。押しかけ女房の神様にどう穏便に帰って貰うか、その方法は検討もつかなかった。