カエルの哭(ウタ)
春先に、雨が降った。
冬よりは暖かく、春よりは寒い、そんな雨だった。
雨が道路を叩く音、時折自動車がサアァ――ッと滑走しては遠ざかっていく音。
窓越しにそんな音が聞こえる中、skypeを起動させて、久しぶりに地方の友人と
たわいないやり取りをしていた。
――最近は、便利になった。
家に居ながらパソコン一つで、こうして遠くにいる友人の様子を、
近くにいるように見ることができる。
パソコンの電気代だけで、通話料はタダ。
便利なものだ。
暖房の効いた部屋でひざ掛けを掛け、パソコンデスクの前に張り付くようにして、
手元にコーヒーを置いてたわいない会話をしていた。
これが、週末の楽しみだった。
手が、コーヒーカップに伸びた。カップは、空になっていた。
「ちょっと待って、コーヒー淹れてくる」
そう言い残し、キッチンへ向かった。
インスタントコーヒーの容器は、空にだった。
(しょうがない)
私は、すぐにコートを羽織り、友人に「また後で」と一言かけると、
傘を持って外に出た。
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ビニールの手提げに瓶のインスタントコーヒーひとつを片手に、
コンビニから帰ってくる時のことだった。
歩く音とビニールの音に混じって、誰かに呼び止められたような音がした。
足を止めて、後ろを見る。
静かに、注視する。
しかし、誰もいなかった。雨の音だけが聞こえる。
気のせいか。
一歩前に出そうとすると、また呼び止められたような音が聞こえた。
周りには、誰もいない。
雨が地面を叩く音、パイプが雨水を排水する音だけが聞こえる。
――やはり、気のせいだろう。
踵を返そうとした時、
キコキコキコ、ウェイ、ウェイ
自転車のペダルを回すような高い音と、何かを吐き出すような
低い音が、交互に足元から聞こえた。
辺りのアパートからこぼれた、鈍い灯りを頼りにじ~っと足元付近を
かがむようにして、覗きこむ。
体一つ分置いた所に、黒い影があった。
瞬間、ビクッとした。
そこには、大人の手のひらのサイズに勝るほどの、大きな黒いカエルが
居たのである。
キコキコキコ、ウェイ、ウェイ
そのカエルは、喉が脈打つように、鼓動を打つように膨らんだり、
縮んだりしている。
ある日を境に、子供の頃に平気で触っていたものが、途端に怖くなる。
カブトムシ、トンボ、このカエルもそうだ……
いや、アマガエルくらいなら触れないにしても、今でもかわいく感じる
はずだ。この大きさでは、ムリもないだろう。
――大きいと、なぜ怖いのだろうか
犬や猫なら、大きくても可愛いと思うだろう。この、怖いと思うのは、
どこから来るのだろうか。
その大きなカエルを覗き込むようにして、そんなことを考えていた。
目が合っても、雨に打たれても微動だにせず、喉を鼓動させている。
しばらくはそのカエルのたたずまいを見ながら、私はゆっくり踵を返し、
アパートへ向かう。
いくらか遠ざかり、さっきの疑問を抱きつつ、自分の足音しか聞こえ
なくなった時、ハッと映像が浮かぶ。
カエルの筋肉の収縮、昆虫の足の収縮活動……大きさ。
私は……その収縮が怖かったのだ。大きな筋肉の、大きく力強い収縮運動。
その言いし得ぬ原動力、大きなエネルギーに、キョウふシタのダ……。
ソのオオきなキんニク、そノキンにクニひツ要な、エねルぎィの摂シゅ。
そノキンニくの欲ドウ。
増殖、絶エず拡ダいしヨうとスる原ドう力。
――途端に、脈が速くなる。不安が大きくなったのと同時に、核心に
迫った、そう感じた。
核心に迫って、思考が、頭の中で火花がはじけたかのように、衝動となって
そう伝える。
『原動力』この言葉に思考が集約され――ハッと我に返る。
分泌されていたホルモンが、途端に分解されたかのように体中の熱は失せ、
脈も正常になっていく。
思考も正常になり、再び手を交互に振ること、足を交互に前へ、前へ出す
ことを意識しながら、帰路へ向かう。
もう一度、何が怖かったのか確認しようとしても、再度のアクセスは禁止
されたかのように、一言『原動力』と思考は伝えるだけで、再び、あの、体の
自由を奪われるような緊張に、襲われることはなかった。
部屋に帰った私は、何もなかったかのようにリラックスし、コーヒーを
飲みながら遠くの知人と談話した。
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次の日の――昼のことだった。
路上は、昨日の雨の痕跡もなく晴れ上がり、この季節にしては珍しく、
太陽は真上にある程かというくらい、熱いエネルギーを降り注いでいる。
そんな中、今度は冷たい飲み物を買いに、昨日と同じ、いつもと同じ
道順をたどった。
家を出て数メートル先、異様に大きな、黒い影があった。
近づいて見てみると、自動車にでも潰されてしまったのだろう――
そこには、口から内臓の一部がハミ出、焦げ茶色の固形物と化した、
あの大きなカエルの姿があった。
幾分かひらべったくなった体に、伸びて投げ出しにされた両足には、
昨日見た欲動を感じなかった。
――数日後、カエルの死骸は干からび、風や雨によって跡カタが
なくなるまで、そのままにされていた。
キコキコキコ、ウェイ、ウェイ
……哭に馳せる。