碧(あお)いずる森にて君を歌う
歌が響く。風を震わせ、木々のざわめきに反響するように歌声が響く。
木々の囁きに水のせせらぎ、静かな歌だけが染めた静寂を、軽快な足音が優しく裂いて、ぱしゃんと水音を立てた。
ふわりと碧がかった白い長髪を風に遊ばせて、森の精――シルウァは、足音の主へ振り向く。
「また来たのか、人の子」
「やあシルウァ、今日も綺麗だね!」
「……昨日の第一声もそれだったな」
「!覚えていてくれたんだね!ついでに、そろそろ俺の名前も覚えてくれると嬉しいな!」
「さて何だったか。そなたもそろそろ、“もう森に近付くな”というわたしの言葉を解してはくれないか?」
「いやだなあ、シルウァ。もちろん明日からも来るに決まっているじゃあないか!」
「……。その執念は何からくるのか……」
「執念?俺は一途なだけだよ。それに理由なんて、それこそ出逢った頃から幾度となく言っているだろう?シルウァが大好きだからさ!」
「……。よもや幼い子供の戯れ言が、十余年も続くとは思わなんだ」
「戯れ言とは酷いなあ。五歳で出逢って十二年。一途に初恋を追いかける俺、けっこう凄いと思うけど」
この少年と話すと面倒くさい、とシルウァは顔をしかめた。それに軽く笑い、彼はシルウァが腰かける大樹の根元に近寄る。
「そうそう、今日はお土産があるんだよ」
「?」
「はい」
シルウァが腰かける枝は低く、背の高い少年が手を伸ばせばぎりぎりシルウァに届く高さだ。
伸ばされた手に咲く一輪の花に、シルウァは目をしばたかせた。
「……白薔薇?」
「そう。綺麗だろ?魔力を込めて育てたから、うっすらと青い光を纏ってるんだ」
「……成る程、そなたが育てたのか。そなたの魔力も青が濃い色をしている」
「ね、綺麗だろう?シルウァの髪色によく似ている」
「……。恥ずかしいやつだな……。しかし、薔薇は気にいった。もらっておこう」
「やった!ありがとう、育てたかいがあったよ!」
喜ぶ少年の周囲で、ふと、風が揺らいだ。
「……もう帰れ」
「えー!まだ来たばかりなのに!……まあいいや、明日も来るしね。あまりシルウァを困らせると、本当に逢ってもらえなくなりそうだ」
「もう来るなと言うに」
「それは嫌だ」
「……。」
少年はふわりと大樹から離れ、シルウァに笑いかける。
「ねえ、シルウァ……。白薔薇の花言葉を知っている?」
「……。さっさと行け」
「あはは、うん!また明日ね、シルウァ!」
ひらりと背を向け駆け出す少年。その背は水音を立てながら遠ざかるにつれ薄れ、風に溶けた。
「……。……愚か者が」
手にした白薔薇に視線を落とし、シルウァが呟く。
白薔薇の花言葉。“私は貴方にふさわしい”などが有名で、他にも色々な言葉があるが……。
彼が指したのはきっと、“約束を守る”。
ふと頭上を見やり、シルウァは目を細めた。
碧がかった豊かな葉に隠れるように実る、不思議な色の果実。それは、生命の樹とも呼ばれるこの世界樹の、強大な力を蓄えた果実。
幼い彼はシルウァに問うた。ずっとこの森にいるにはどうすればいいのか、と。
シルウァは答えた。この場は、この世界に在りてこの世に在らず。果実を口にし、人でなくならぬ限り、人の子が水巡り碧いずるこの森に留まる事は叶わぬと。
幼いなりに、彼は理解していた。とても賢い子供だから。けれど。
『じゃあ、もっと大きくなったら、果実を食べにくるよ。そうしたら――』
笑った幼子の言葉を思い出し、シルウァは笑う。ひどく歪んだ、苦しそうな笑みだった。
「……どうか、早く我にかえれ。果実を口にすれば、後戻りはきかぬのだから」
どうかこれ以上、姿を見せないでほしい。そうでないと……。
シルウァは少年の残した白薔薇を抱き締めるように丸くなった。
元々シルウァは、果実を求める者に忠告以上の干渉はできない。けれど、このままでは……。
果実を求める少年を止めぬどころか、食べてくれと差し出してしまいそうな己を恐れるように、小さく丸まる。
「――……レーベン――。」
生命の森に静かに響く、古い古い言葉の歌。
それが少年にむけた精一杯の想いの形と知れば、彼はどんな顔をするだろう。
――
――。
――――!
――ま!
「――レーベンさま!」
きんきんと騒がしい声が少年の眠りを覚ます。
「……あー……。……おはよう」
「おはようではありません!またお倒れになられて……奥様も旦那様も兄君方もご心配なさっておいでです!」
「あはは、すまない、世話をかけた」
「……。まあ、体調に問題が無いならばよいのです。私は席を外しますが、くれぐれも安静になさって下さいね!」
「はいはい」
心配から声を荒げる従者に苦笑する、少年――レーベン。彼の柔らいだ表情に安堵の息を一つ吐いて、部屋を後にしようとした従者は、ふと気がついたというように声を上げた。
「そう言えば……。レーベンさまが育てておられた白薔薇がありませんね」
「ああ、あれなら魔力の加減を間違って枯れてしまったから、片付けたんだ」
「左様ですか。新しい苗をご用意しますか?」
「いや、いいよ」
「畏まりました」
今度こそ部屋を出た従者の足音が遠ざかり、レーベンは深く息を吐いた。その表情は感情が抜け落ちた無表情である。
「今回も気がつかれなかったな」
世界樹のある、生命の森。それは、巡る魂の還る場所。迷い込む以外に訪れるには、生死の境をさ迷い、意識だけを飛ばす他無い。
だからこそレーベンは、自ら毒を煽る。誰にもそうと気づかれぬ毒を探すために、病弱だが勤勉と評価される程勉強した。幸いこの国はあまり毒の研究が進んでおらず、今まで気がつかれた事は無い。
毎日帰れ、もう来るなと言ってくれる、シルウァを除いては。
レーベンは笑う、未だ痺れの残る身体で。
「もう少しだ」
もう少しでレーベンは十八になり、成人する。果実を食べるのは、成人したその時と決めていた。
「楽しみだなあ、シルウァ。君と一緒に生きられるんだ」
彼の瞳には、彼を案じる家族も従者も映らない。彼等は嫌いではないし、それなりに大切だけれど、シルウァとは次元が違う。あの何より綺麗な存在とは。
初めてあの森に迷い込み、シルウァと出逢ったあの時から、レーベンの心はシルウァのモノだ。
ずっとずっと、焦がれてきた。それは依存や執着、あるいは刷り込みとか、とかく他者に否定される部類のモノかもしれない。少なくとも、このやり方は間違っているのだろう。
けれど、構うものか。
「シルウァ、シルウァ、シルウァ……。もう少しで、君の傍に行ける」
『じゃあ、もっと大きくなったら、果実を食べにくるよ。そうしたら――僕が、シルウァの傍にずっといるから、もう寂しくないね!』
幼い自分の言葉が脳裏に過る。あの頃の綺麗な感情とは、もうずいぶんと違ってしまった。こんなに歪んだ自分は、もうあの美しい森には相応しくないのかもしれない。それでも。
「独りぼっちの寂しさで、これ以上染まってしまわないで」
何をしても、何を犠牲にしても、俺がずっと、傍にいるから。祈るような囁きは、誰の耳に届く事も無く風に溶けた。
それから暫くして。
身体の弱い事で知られていた、ある貴族の三男が、成人の儀の直後に行方をくらませた。
いくら捜索しても見つからず、家族は涙を流して彼を死亡したものとしたと言う。
――
枝葉が歌う、風が踊る。
さらさらと水のせせらぎが響く、碧色の森の中心。世界樹の枝に腰かける影は、二つに増えていた。
そのうちの一つ、シルウァは、己の傍らへ呆れたような、怒ったような、あるいは寂しそうな、複雑な表情を向けた。
「――勝手だな。そなたに向けられた愛を全て犠牲にして、こんな場所で生きる事を選ぶとは」
シルウァと違って、彼は愛に包まれていたのに。けれど、当の本人は軽く笑ってシルウァに寄り添うのだ。
「勝手でいいさ。それでシルウァの傍にいられるなら。それよりさ、そろそろ名前で呼んでくれないか?」
「……。」
「シルウァー。シルウァシルウァシルウァー」
「……煩い」
「ちぇ、なかなか呼んでくれないね、シルウァ。まあいいよ、俺は諦めないからね!」
明るい笑顔からす、と視線を反らし、シルウァは小さく呟いた。
「煩い。――――……、レーベン」
「……!今!今のもう一回!もう一度呼んで!シルウァ!」
「煩い」
鮮やかな笑い声が静かな森を彩る。いつか、自分の歌の意味を伝えられるだろうか、と熱くなる頬を隠しながらシルウァは思った。それは、とても幸せな時間。
他者の想いを踏みにじり、涙を背にして笑顔を咲かせる。彼等の幸せを、否定する者もいるだろう。
それでも、他の何より大事だから唯一なのだ。幸せそのもの、生きる理由。そんな存在を見つけ、想い通わせ寄り添う彼等を、幸せ以外に何と言おう。
間違っていようと、いくら否定されようと、彼等は笑う。
傍らの温もりが、唯一の存在が、いつだって幸せをくれるから。
――
孤独な森を癒して包む、優しく光る人の子よ。
幼い世界を彩り染める、優しく儚い精霊よ。
碧いずる森にて君を歌う、君を想う。
置き去りにした何もかもには背を向けて、
今はただ、君と幸福を心に映す。