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絶対上位侵略体(前編)

落語のネタを考えていたはずなのに……

「猫」「作家」「ホラー」の三題話でなぜかこうなってしまいました

 

 あの運命の日。

 とっぷりと更けた夜の帳の中に、私は一人灯りもつけずにいた。

 いつもなら日暮れと共に締め切る雨戸も開け放して、そこからわずかにだが月明かりが庭に反射して室内をうっすら照らしている。

 梅雨は過ぎたが本格的な夏にはまだ遠く、何かは知らぬ小虫の鳴き声。

 夜風はやや肌寒いが、私は半袖シャツにジーンズと言う軽装で正座の姿勢を崩さず、ただただ庭に目を向けていた。


 私は、待っていた。

 ただ、やつを待っていた。


「…………………………」

「………………」

「…………」




 私がマルスを拾った当時、私の精神状態は生涯で最悪であった。


 私の名は小暮真人こぐれまさと。本名ではなく、筆名、ペンネームである。

 私は文筆業を生業なりわいとする、いわゆる物書きなのだ。と言ってもデビューから今まで純文学一筋、お世辞にも著名な作家とはいえない。


 私の著作の中でもっとも売れたのは、締め切りに追われた揚句に妻との出会いから結婚までを書き綴った短編であり、これがどういうわけか実写映画化されて、それが私の生涯においてもっとも華々しい時代だといえるだろう。

 もっとも、私自身はあまりにも私的な部分を前面に出したこの作品を、あまり評価してはいない。プライベートの切り売りをしてしまった、という後悔の念ばかりがいまでも先に立つ。


 いや───そんなことはどうでもいいのだ。

 これは私の作家としての悪い癖だ、前書きばかりが長くてなかなか本題に入ろうとしない。

 とまれ、五十半ばになんなんとなっても文壇の末席を汚しているだけの私にも、長年連れ添った糟糠そうこうの妻と言うものがいた。

 名を、初枝はつえという。

 初枝は若いころからある持病を患っていて、五十を過ぎた頃から急にその病状が悪化し始めた。

 若いころと違い、人生の下り坂にある老人の病は、残酷なまでに無慈悲である。

 初枝は病状の悪化から半年と待たずに、あっけなく逝った。


 妻を喪った私は、文字通り抜けがらであった。


 何人かの馴染みの編集者はずいぶんと私を心配してくれていたようだったが、私にはどうでもよかった。

 私の半生は文字通り妻との半生であり、その片翼をもぎ取られたいまとなっては、もはや創作意欲などなく、ただ無為な毎日を過ごしていた。

 幸いにして多少の蓄えはあった───例の映画化の際に入った臨時収入に、妻はほとんど手をつけていなかったのだ。私は妻の内助の功に感謝すると同時に、恨めしくも思った。この蓄えが尽きるまで、私はおめおめと生きながらえばならぬのかと。


 そんなときだった、マルスを拾ったのは。


 私たち夫婦は父が遺した古い日本家屋に居を構えていた。

 移り住んだのは母が逝去してからだが、賑やかな町から距離のある、ここの静かな雰囲気を私たちは好んでいた。

 マルスは、うちの軒下でただ一匹「にーにー」と鳴いている、哀れな子猫であった。


 猫と言うのは存外に非情なもので、何匹か産んだ子のうち、発育の不良なる者は切り捨ててしまうことがあるという。

 だがこれはより強い子孫を残すための知恵と言うやつで、人の尺度で無情と断ずるのは短慮と言うものであろう。

 そして、軒下にこの小さな生き物を発見した時の私もまた、「これは厄介なことになったぞ」とまず思ったのだった。


 なにしろ私は金魚くらいしか生き物を飼ったことがない。

 一軒家なので犬でも猫でも飼えるのだが、そんな機会にただ恵まれなかっただけだ。

 薄暗がりの中でか細く、けれど懸命に鳴いている子猫を見て、私はふと思った。

(初枝ならどうするだろう)

 身体的な事情で子を為すことが出来なかった私たちだが、初枝なら、私の妻ならいまにも消え入りそうなこの生命をはたして見捨てるであろうか。


 気がつけば、私は軒下に手を伸ばしていた。

 子猫は見た目の小ささに比べて「どちゃっ」と重く、温もりがあり、そして手の平から確かに鼓動が伝わってきた。

 なにはともあれタオルでその身体を包み込み、書斎に上がった私はPCを立ち上げた。

 いまどきは売れない純文作家でもネット環境くらいは必要とされる。さっそく、子猫を拾った場合の対処法を検索した私は、ひとまず子猫を安全な環境に置いてやり、動物病院に向かったのであった。


 さて───そこよりあとのことは端折らせていただこう。

 実際に猫を拾ったことのある方、猫を飼っている方などにとっては自明の話であり、私の場合も特別変わったこともなく、かくして「マルス」は我が家の猫となった。

 マルスとはローマ神話の軍神の名であり、火星の象徴でもあるが、彼の場合は───マルスはオスであった───それほど格調高い名付け理由ではない。

 最初は頼りなげに見えた顔が、意外に丸々とあどけない印象だったからだ。


 マルスの毛並みは全体的に黒かったがまっ黒と言うわけではなく、左後脚の先だけが灰色だった。

 古来、魔女は黒猫を使い魔とするというが、足の先っぽだけが目立つこの風体では、とても使い魔は務まりそうもない。

「ははあ、お前の母親は魔女の使い魔で、それでお前は見込みなしと思われたのか」

 もちろん彼はきょとんと私を見つめ「にー」と鳴くばかりであった。


 それからも私は、相変わらず小説の一行すら書いてはいなかったが、決して暇ではなかった。

 生まれて初めての子猫との生活は、驚くほどの目まぐるしさと新鮮な驚きに満ちていたからである。私を飼い主……いや「同居人」と認めたマルスは、すっかり我が家を己の縄張りと定めたようであった。

 目覚めた彼のすることは、まず己の寝床である二階のパトロール。

 そこを一回りすると階段を器用に駆けおりて、次に一階をくまなく巡回して後、ようやく私の寝床に来て朝餉をねだるに至るのであった。


「小暮先生、飼い猫は室内飼いがよいそうですよ」


 そう言ったのは、ある出版社の編集、富田くんであった。

 まだ三十になったかならぬかの若さだが、なかなかに有能な編集らしく、一方で私のようなロートル作家の個人的ファンであるという稀有な人物である。

 ファン云々は世辞半分としても、初枝が逝去したとき、その葬儀関連でも彼にはずいぶん世話になった。意気消沈していた私が最近猫を飼いだしたと聞きつけた彼は、さっそくご機嫌伺いにやってきたというわけだ。


「しかし君、うちは見ての通りの古い家でね。マンションのようにはいかんよ」

 そう言って目を転じると、縁側の外には小さいながらも庭が広がっている。

 妻亡き後、なかなか手入れも行き届かないが、やはり緑を見ると落ち着くものだ。

「かの内田百閒や漱石も猫にはずいぶん癒されたと言いますからね。今後の小暮先生に注目すべし、と編集部内でも持ちきりです」

 いくらなんでもそれは持ち上げ過ぎだろう、と私は苦笑する。

「そのためにもマルス氏にはせいぜい元気でいてくれないと」


 そのマルスはと言うと、障子の蔭から顔を半分覗かせ、じっと富田くんを凝視している。

 私が客人を迎えるのは、週末に来るホームヘルパーの東海林さん以外には初めてのことだったので、かなり警戒していると見える。

 さしずめ「我が領内に立ち入りしは何者ぞ」といったところだ。

「なに、ああしてあけ放していてもあれは大丈夫なようだ」

 どうやら富田氏を害なしと判断したのか、マルスはすたりと縁側から庭に降り立った。

 そうしてまだチビの体躯を出来るだけ大きく見せようとするがごとく、のっしのっしと庭を右に左に行き来を繰り返すのだった。


「にゃっ」


 私と富田くんが歓談していると、不意にマルスが鳴いたので、私たちはあわてて振り向いた。

 見ると後足先だけが灰色の黒猫が、毛を逆立てて唸り声をあげている。だが現れたる敵はその威嚇に動じる様子もなく、マルスはさらに威嚇の声を上げた。


「にゃぎゃ!」


 突き出した鼻面をしたたか引っ掻かれたマルスは、軍神の威厳なんぞはついぞ感じさせぬ勢いで反転し、脱兎のごとく縁側に逃げ帰って来たのである。

「なぁんだ───あれじゃあほっといても外になんか逃げたりはしませんね、先生」

 あきれた富田くんの視線の先には、悠然と大鎌を構えた小さな蟷螂かまきりがいるばかりだった。


 それから十か月ほどがたち、マルスはみるみる大きく成長した。

 丸っこい顔や手足もスマートになり、猫族の持つ優美な姿に私は見惚れるほどであった。

 ただし内弁慶なところは相変わらずで、彼の縄張りの外縁は庭のせいぜい安全そうな範囲に限られるようだったが、それでも家の中では彼は領地を守護する堂々たる軍神であり、私のよき同居人であった。


「そろそろマルス氏も発情する時期だそうです。去勢手術を受けさせた方がいいですよ」

「ああ、来週頭に動物病院に予約を入れてあるよ」


 富田くんとそんな会話をしていたのは、あるエッセイについての打ち合わせの後だった。

 飼い猫と言うのは本人いや本猫の意志に反して、子孫を残す権利を制限される。だがそれは仕方のないことだ。


 そのころ私は富田くんにせっつかれるままに、いくつかの随想などを発表していた。

 まだ小説を書く気にはならないが、なにそう焦る必要もないのではないかと私は楽観さえしていたのだ。

 カタカタとキーボードを叩く私の膝の上で、左後脚先だけが灰色の黒猫が丸まって、静かに寝息を立てている。

 ワープロ時代から使い慣れている私にとって、タイピング自体はそう苦手ではない。もとより悪筆で筆圧が高い私は、すぐに右手の筋を痛めてしまうので、早々にワープロ、そしていまはPCによる執筆に切り替えていた。


「うなぁー」

 目を覚ましたのか、膝の上でマルスが軽く伸びをする。

 老いたる作家と猫一匹、この古い家で静かに暮らすには申し分ない。もしやマルスは私の身の上を案じた初枝が遣わした福猫だったのではないかと心中ひそかに思うほどであった。


 事件は───そんなとき起こった。


 私は夏風邪をこじらせてしまい、数日寝込んでいた。

 最初、たいしたことはないだろうと高をくくっていたのがよくなかったらしい。次第に食事をとるのも億劫になるほどだったが、それでもマルスに餌をねだられると起きないわけにはいかない。

 節々の痛む手足を引きずってマルスに餌をやり、自分もなにがしかのパンを齧り、解熱用の頓服を無理矢理に流し込んだ。


(なに、明日になれば東海林さんが来てくれる。そのときに対処してもらうさ)

 布団に引きこもった私の周りを、マルスはにゃーにゃー鳴きながら何度も行き来していた。

 餌をやったばかりなので空腹なわけではない。私を心配してくれているのだろうか。

 だがほんの少しだけ静かにはしてくれぬか、マルス。

 なあにひと眠りすればまた元通り元気になって、お前の背中を撫でて、喉をくすぐってやるから。

 そうしたらまたあのぐるぐるというご機嫌な音を聞かせてくれればいい。


 そのまま、私は意識を失った。


 結局、私は、体力の低下と薬の作用で翌朝まで眠り続けていたようだ。

 私を発見したのはホームヘルパーの東海林さんであった。

 彼女は私の様子を見るや直ちに救急車を呼んでくれたが、幸いにも私の症状は悪化することなく、栄養点滴のほかは、ほんの検査入院ほどで済ませることができたのだった。


「まあまあ先生、本当に良かった。あたしゃ心臓が止まるかと思いましたよ」

 本当に、彼女には感謝してもしきれない。

 保険証やら入院の手続き、寝巻の支度に至るまで、彼女本来の業務でもないことまでなにもかも面倒を見てくれたのだから。

 だから、たとえ一時にせよ彼女がマルスから目を離し、その存在をすっかり失念していたとしても、私に彼女を責める道理はない。


 そう、家に戻るとマルスの姿が消えていたのだ。


 雨戸を閉めたのは東海林さんであろうか、いちおう戸締りはされていたものの、なにしろ古い日本家屋のことだ。小さな猫一匹這い出る隙間などどこにでもある。

 台所には空になった餌皿、マルスは空腹に耐えかねて外に出て行ったのだろうか。

 なら空腹になったら戻ってくるだろう、と私は自分にそう言い聞かせた。

 だがマルスはおよそ外の世界と言うものを知らずに育ってきたのだ。外で迷ったら、はたして帰って来られるだろうか。

 猫の帰巣本能がどれほどのものかは分からなかったが、私はいつマルスが帰ってきてもいいように縁側は夜でも半分明け放っていた。


 そしてきっちり三日後、マルスは帰ってきた───左目が潰された、惨い姿で。

 

 つづく

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