第六話
「誠に残念な結果になりました。」
回想の中で黄昏のぼんやりとした光をバックにそう語る医師は、シルエットしか見えなかったが、その言葉には悔しさが滲んでいた。
窓際のベッドは空のままであり、そこに寝ているはずの早苗は、まだICUの中にいた。
「母体は辛うじて助かりましたが、お子さんは・・・」
医師は、その言葉を最後まで続ける事は出来なかった。
荒川は勤務中に、早苗が倒れ切迫流産の危険があるために緊急搬送されたという連絡を受けて、虎ノ門のPRIME日本支局オフィスから搬送先の渋谷へ飛んで来たのだった。
「早苗はどうなったんですか?」
「奥様は今、鎮静剤を投与されておやすみです。ICUは非常用電源で何とか機能していますからもう心配ありませんが、お子さんはシステムの機能回復まで持ちこたえる事ができませんでした。それと・・・」
良い難そうに口ごもりつつ更に衝撃的な事実を言ってから、医師は頭を下げた。
「先生のせいではありません。どうぞ、お手をお挙げ下さい。」
荒川の頭の中では駅の壁面ディスプレイで見た禍々しい顔文字が明滅しながら彼を嘲笑しており、やり場のない怒りに叫び出したいのを必死に自制しながら短く答えた。
その時の絶望を下敷きとするどす黒い怒りは、5年が経過した今でもこうして、まるでその場にいる様に思い出される。
そして、彼のどうしようもなく辛い回想は続く。
ICUから出た早苗はベッドで寝息をたてており、彼は無言でそれを見守っていた。
やがて、軽く身動ぎをした早苗は、ゆっくりと目を開いた。
彼女は傍らに座る荒川に気付くと安堵の表情を見せたが、すぐにその表情の堅さに気付いた。
「ねえ、あの子は?夏美はどうしたの?」
震える声でそう問い掛けながら、必死に頭を起こして視線を腹部にやろうとする。
荒川が止める間もなく、彼女は見てしまった。
そこには、彼女の期待する膨らみは無かった。
絶望以外に何の感情も含まない絶叫が響き渡った。
春香の目の前で目まぐるしく数字が飛び交い、解析が進んでいった。
どうやらほぼ解析が終わり、乱数列が姿を現してきた。
もう頃合いは十分と判断した彼女は、実行中の解析処理に保留を掛けた。
内容的に、チャチャイには見られるのは好ましくない物であろうと判断したので、修了メッセージが出るのを止めて、解析終了を気付かれない様にしたのだ。
春香はその長大なコマンドログを上から順に確認して行く事にした。
まずはログのヘッダー情報に含まれている日時をヒントに、コマンドの履歴をアクセスの開始から修了までの一連の操作に分けて見た。
その大半は、特にどうという事もないごくありきたりなハッキング操作の履歴であったが、所々に他とは異質のコマンドが見受けられた。
コマンドは、対象となるシステム毎に文法が異なる。
細かく見ればハードウェア/基本ソフト(OS)毎に差異があるが、大きく分類すれば幾つかの体系に分類する事ができる。
Windows系・UNIX系・VOS系など、そのOSが原型となるシステムから引き継いでいる特徴があるのだ。
だから、その攻撃対象となるシステムのOS毎に、概ねコマンドの文法は同一となる。
そうやってこの履歴を文法毎に分類してみると、彼女の知っているどのOSとも微妙に文法が異なる操作履歴のグループが所々に出て来た。
それは、一般に公開されているどのOSとも異なる、特殊なOSに対する操作の履歴であると思って良さそうである。
その履歴を抽出して眺めている内に、見覚えのあるコマンドが出て来た。
それは、彼女がまだ塔に閉じ籠っていた頃に使用していた一連のトラップの中で、最後のトラップで使ったログイン認証要求電文であった。
つまりこの一連のコマンドの通信先は、PRIMEだという事である。
彼女のPRIMEに関する知識は、唯一の外部公開仕様(とはいえその公開対象先は外部全体ではなく、ごく限られた公共機関とそれに準ずる団体のみであるが)である認証要求のみであるが、この履歴をみる限りこれを実行した何者かは、PRIMEにログインしてかなり広範囲に渡る操作を行っていた様だ。
恐らくは、管理者レベルの操作まで行っていたと思われる。
彼女は興奮を抑えつつ対PRIMEと思われるログを順に拾い出して、その操作を確認して行った。
それは、何度もログインしてはあちこちと移動して、情報を集めたり様々な動作をテストしていた。
そして、ついに彼女は決定的なログを見つけた。
それは、渋谷区の中心部へ電力を供給する変電所に侵入して、変電所全体をシャットダウンさせるという操作であった。
しかも念の入った事に、あらかじめ変電所内部の各種の制御機構にトラップを仕掛けて、復旧操作を妨害する準備をしてから、シャットダウン操作を実行していた。
間違いない!これはアイツのログだ!
春香は叫び出したい衝動を懸命に抑えて、これからどうするべきかを考えた。
このログを解析すれば、アイツの正体にたどり着けるかもしれない。
しかし、PRIMEへの侵入手段を宿主に見せるわけにはいかない。
この宿主はそれを何の躊躇いもなく悪用するであろうし、そうなればあれ以上の被害が出る可能性もある。
取り合えず彼女は、その解析結果を自分用の外部ストレージにコピーした上で、PRIMEにアクセスしている箇所を別の(比較的)無害なログで上書きした。
そうしておいて、あまり長時間サスペンドしていると怪しまれる恐れがあるので、サスペンドを解除した。
チャチャイは解析処理を自動実行しながら、今日の収穫を求めて探索していた。
予想はしていたが解析処理はかなり時間が掛かり、その間にちょっとした収穫を得ていた。
更に次の獲物を探し始めた時にアラームが鳴り、解析処理の終了を知らせるメッセージが出た。
探索作業を中断して、結果表示のウィンドウを開く。
予想通りそれは、誰かのハッキング操作のログであった。
このログを残したハッカーはかなり高いスキルを持っていた様で、中々興味深い内容ではあった。
ざっと見ただけでも、かなり使えそうな情報が含まれている。
彼は、内容については後で精査する事にして、再び探索に戻った。