第四話
教官室のデスクで所在なく脚を組んで机上のカレンダーを見ていた荒川は、来月には早苗の命日がまたやって来る、と気付いた。
二人は大学で出逢い、共に情報工学を学ぶ内に意気投合して、やがて交際する事になった。
早苗は荒川の目から見ても恐ろしく優秀な研究者で、とても勝てる気がしなかった。
だから社会人となってプロポーズした時に、彼女からこのまま仕事を続けるという条件を出されても、特に抵抗なく受け入れた。
その時点で彼女は、経産省に属する国立情報工学研究所(NIIT)の人工知能プロジェクトで研究者としての地歩を固めつつあり、それを棄てる事は大袈裟に言えば国家的損失ともなりかねなかったのだ。
人工知能を構築する上での難問は、一般的なイメージでは【学習能力】の実現だと思われる事が多いが、実際にはそうではない。
学習とは詰まる所、特定の刺激『S』に対する適切な反応『R』を結び付ける事で、新たなS→Rのペアをその内部に構築する事である。
この時、特定のSに対して結合可能な各種のR(R1~Rn)の中から適切なRxを選択するには、それぞれのRを選択した際に予想される結果を評価し、その評点が一定水準を越える物を選べば良い。
この評価機能自体の実装は、それほど困難ではない。
最も困難とされているのは『フレーム問題』の解決なのだ。
フレーム問題とは、一言で言えば『どうやって常識の枠組みを人工知能に実装するか』である。
例えば『猫の蚤を退治する』という問題を想定してみよう。
猫にシャンプーをするとか蚤取り剤を使うとか、余りに酷ければ一度毛を全て刈ってみる等が考えられるが、そういった手段よりも遥かに低コストかつ確実に蚤を根絶する方法がある。
それは、猫の首根っこを掴んで焼却炉に放り込む事である。
目的が『蚤の退治』であり、なおかつその評価基準がコストを低く抑える事と問題の再発を防止する事だけであれば、効率の点でこれを越える手段はない。
勿論それを選択する飼い主は居ないわけだが、それは『猫の手入れはその健康を大きく損なわない範囲で』実行されるべきだという常識があるからだ。
しかし、人工知能にこの問題解決を任せてなおかつ猫が死なない様にするためには、この認識を制約条件として予め与えておかなければならない。
コンピュータにデフォルトでビルトインされた『一般常識』は期待できないのだ。
そして、こういう風に人間が特定の教育に頼らなくても各種の選択の過程で無意識に働かせている常識は、非常に多岐にわたる。
だから、それらを全て事前に明示的な制約条件として呈示する事は不可能であると思われていた。
しかし、これらの広範囲にわたる制約条件の集合体(すなわち『常識』)を、随時参照可能なライブラリとして実装する(これは単にアクセス可能な情報として保有する事だけでなく、その膨大なライブラリから適宜に妥当な情報を選択・抽出して参照する事で適切な反応速度を実現するための高度なアルゴリズムが内包されている事を意味する)技術的ブレイクスルーが実現され、人工知能自体は現実的な存在となってきた。
ただし、それによって実現された人工知能は、常識の枠組みを越える事が全く出来ない『石頭』としか言い様のない代物であった。
小は家庭用空調管理から大は完全自動化工場の運営に至る『一定の状態を静的に維持する』事を目的とするシステムであればこれで十分なのだが、そこには成長は望めないし急激な状況の変化にも対応できない。
そこで常識の制約により低レベルの危険を回避しつつ、必要に応じて常識を越える発想の飛躍を行う余地のある柔軟さを併せ持つ、発展性のある知能の有り様を求める取り組みが企画された。
それは、WGICCの主導でオーソリティ計画と名付けられ、各国の在野を含めたあらゆる研究機関に対して、そのブレイクスルーを求める呼び掛けとして始まった。
人間が特定の教育に依らずに一般常識を持つ事ができるのは、それが生得的にビルトインされている(これを本能と呼ぶ)からではなく、成長の過程で周囲から様々な暗黙的教育が施されるからであり、そうやって成長段階毎に少しづつ獲得されていくからである。
この作業は、一般的には子育てと呼ばれる。
つまり彼女のアプローチは、一言で言えば『人工知能とは、作る物ではなく育てる物である』という事であった。
これは、一見すると迂遠ないしは非効率な手法の様に見受けられるが、それは人間における人格がその一個人のみで完結する物である事による誤解である。
コンピュータ上で構築された物は、何であれ詰まるところデータの集合体であり、任意に複製が可能なのである。
つまり、本当に有能な人工知能を完成させる事ができたなら、後はそれを必要なだけ複製すれば良いので、最初の一つを造り出すためのアプローチのコストが高くても、十分に補いが着くのだ。
また、早苗の発想自体はそこまで特殊な物ではなく、むしろ常識的なアプローチであると言えた。
従ってこの『人工知能を育てる』という実験は、彼女のチーム以外でも、様々な場所で行われていた。
しかし、この要求に対する様々なアプローチの中で、彼女のチームが構築していた人工知能モデルは、その学習能力や応用力と良識的な自制力が高度なレベルでバランスしており、その有望さは群を抜いていた。
つまり、柔らかい頭と優しい心が共存していたのだ。
HALCA(オーソリティ計画のための推論的論理複合体・ヒューリスティック アルゴリズム コンプレックス フォー オーソリティ)と名付けられたそのモデルは、子供の様な柔軟な姿勢での学習能力を持ち、目を見張る様な成長を見せて人工知能プロジェクトの成功例として大きな期待を寄せられた。
あるとき、荒川は彼女のアプローチがその他の研究者のそれと何が違うのかと尋ねて見た事がある。
早苗はしばらく頸を捻っていたが、やがて半ば照れ笑いをしながら答えた。
「うーん、やっぱり『愛』かな?」
それは到底満足できる答ではなかったが、彼女自身もそれ以上の回答は持っていない様であった。
多分それは『母性』と呼ぶ方がより適切なのではあろう。
この件に関しては研究者の資質として、豊かな母性と最先端技術に対する深い理解力が非常に高い水準でバランスしている事が求められるのではないかと、彼は理解した。
広く世間を見渡せば、どちらか一方を十分に持っている人間はさほど珍しくはない。
早苗よりも豊かな母性あるいは深い理解力を持っている人間も、探せばいくらでも見つかるだろう。
しかし多くの場合、ある点で突出している人間は、その他の点ではむしろ水準以下となる傾向がある。
人間という物の容量は本来それほど大きいものではないのである。
特に、この二つの資質が同時に高い水準にある事を求められる研究分野は他にはまず無い。
つまり今までそういうタイプの人材が積極的に求められた事が無いという事を考えれば、他にこの点で彼女と並ぶ人材が居らず、彼女が他の研究者の追随を許さない程の成果を挙げている事は不自然ではないのだろう。
荒川は、この頃の早苗の輝く様な生き生きとした表情を、昨日の事の様に思い出せる。
今日は『春香』(早苗にとっては、それはHALCAという無味乾燥なプロジェクト成果物ではなく、可愛い娘なのだ)がこんな会話をした、こんな勉強をした、と毎日嬉しそうに語っていた。
そうしてこの『娘』の誕生や成長を迸る情熱と共に語った後、彼女はいたずらっぽく笑って、こう付け加えた。
「でも私は、子供を作る古い方のやり方も好きよ。」
ある時、早苗のあまりの思い入れの強さに、荒川はいたずらっぽく言って見た。
「君の娘なら、僕も会って見なきゃいかんな。」
その言葉に早苗は、何故それを今まで忘れていたのか、という表情になり、手を打って言った。
「そうよね!パパに会って貰わなきゃ。」
そして、早苗に促されて、仕事を脱け出して春香に対面する事になった。
こうして荒川は、娘(といっても彼の心情的には早苗の『連れ子』である)と対面した。
NIITの入場はともかく最先端研究へのアクセスは、さすがに早苗の顔パスでというわけには行かなかったが、早苗の実績と荒川のPRIME委員会職員という肩書で何とかなったようだ。
そのための膨大な書類作業を、早苗は嬉々としてこなした。
父親(例え義理であっても)との対面は、母として是非とも実現しておかなければならない事だったのだろう。
対面当日、研究所の玄関前で早苗から入館証を受け取った時、荒川は驚いた。
それは、良くある来客への貸し出し用の臨時入館証ではなく、彼の顔写真と姓名の記載された、正規の物だった。
「ここは、臨時の入館証の貸し出しとかは無いのか?」
早苗は軽く笑った。
「そんなわけ無いでしょ。パパにはこれから春香に一杯会いに来て貰わなきゃいけないんだから、その度に来館手続きをしてちゃきりがないわ。」
早苗の先導で研究室に入ると、五人の男女が待っていた。
「ええと、太田さんは知ってるわよね。」
先頭の初老の男は、胡麻塩頭の襟足を短く刈り込んでいるが、どう見ても風采に気を使っていないのは明らかであった。
恐らく短く刈っているのは邪魔にならない様にであって、その上がもつれ放題になっているあたりを見ると髪型を整えるという発想では無さそうで、見映え良く染めようなどとは思いもしていない様子である。
たしか以前ここの創立記念日のパーティーの時に挨拶した事があるプロジェクトリーダーである。
ギーク(コンピュータオタク)がそのまま年齢を重ねた様な印象の人物で、早苗に言わせれば『上司というよりは頼り甲斐のある先輩』だそうだ。
この世界だけで生きてきたと言って良い、多少取っ付きにくいが表裏の無い人だと言っていた。
「こっちは平井君。」
これも話は聞いた事がある。
早苗の同僚の中でもいわゆるイケメンだし、アメリカ留学の経験もあり(彼女以外では)特に優秀な男で、HALCAの方針に関しては良く対立したそうだ。
如才の無さも折り紙つきで、NIITの外部に幅広い交遊関係を持っており、これまでに何度かプロジェクトを襲った予算枯渇の危機は、彼がその都度顔を使って外部企業からの寄付金を引っ張って来た事で回避出来たのだそうだ。
互いに挨拶を交わしたが、その整った笑顔の中でなんとなく爬虫類を想像させるその目だけは笑っていなかった。
そうして紹介が一通り終わると、太田が口を開いた。
「HALCAの情操教育という観点から父親が必要である、という荒川君の提案で、貴方に参加して貰う事になりました。これからよろしくお願いします。」
この言葉に、荒川は思わず後退りしそうになった。
ほんの軽口を叩いただけだったのに、いつの間にか正式メンバーにされてしまっている。
彼は早苗を軽く睨んだが、いつものいたずらっぽい笑顔が返って来ただけだった。
そして、一行は端末室に入った。
そこには、作り付けのカウンターにありきたりのPCが数台置かれており、その横の壁面には大きなはめ殺しのガラス窓があった。
そして、その反対側の壁は書棚で覆われており、その棚は何かの資料で埋まっていた。
「本体はあっちですか?」
荒川が窓の向こうの機械と配線でぎっしりと詰まった部屋を指すと、平井が事務的に答えた。
「ええ、そうです。HALCA自身の本体となるコンピュータと、それを取り巻く疑似環境を制御するコンピュータ群が置いてありますが、あちらはクリーンルームになっていますから、立ち入りはご遠慮願います。」
彼はそのつっけんどんな言い方にやや鼻白んだが、この件に関する限りでは自分は素人でしかないので、その警告を一応は言葉通りに受け取っておいた
しかし同時に、全員が彼を歓迎しているわけではないという示唆である事も理解していた。
荒川がPCの前に立った時、画面にはローティーンくらいの少女が映った。
彼は、その少女には見覚えがあった。
それは、二人が出会うずっと前の早苗の中学時代の姿だった。
まあ早苗の『娘』なのだから、まずは妥当な容姿であろう。
以前に彼女のアルバムで見た事があったのだが、その記憶している姿と今目の前に映る映像との間に、なんとなく齟齬を感じた。
少女は彼の顔を見ると、少しはにかんだ様子で口を開いた。
「始めまして、お父さん。」
些か緊張を含むその声に、荒川まで緊張してきた。
軽く戸惑いながらタッチパネルに手を伸ばそうとすると、早苗が笑った。
「やだ、何してるのよパパ。春香はちゃんと耳が聴こえるわ。」
「え、ああ、そう。始めまして春香ちゃん。」
ちょっとしたヘマを取り繕う様に愛想笑いをしながら彼が返事を返すと、早苗はやれやれという風に頸を振った。
「随分と他人行儀な親子ですこと。」
親子と言ったって連れ子との初顔合わせなんだから、最初から打ち解けられる筈がない。
しかも相手はAIなので、どのくらい人間並みの反応をするのか想像が着かないのだ。
それに、彼が以前ローティーンの少女と話した時は、彼自身が十代だった。
目の前の少女が見た通りのローティーンなのどうかはさておいても、どう話したら良いのか、皆目見当も着かない。
早苗が間に割って入って話の継ぎ穂を提供する事で、何とか話を続けている内に、少女はだんだん打ち解けた様子に変わって来た。
春香は、無邪気そうな様子で様々な事に興味を示していたが、注意して見ると、その受け答えの端々に利発さが窺えた。
それはAIだからというよりは、彼の知らない少女時代の早苗が恐らくそうであったのだろうと想像される様な自然な物だった。
そして、しばらく対話を続けていると、最初に感じた齟齬の正体が判った。
この少女の顔にあるそばかすは、彼が覚えている写真のそれよりもかなり薄かった。
少しでも理想の自分に近付けたいという女心か、娘の外見上の欠点は低減させてやりたいという母心か、恐らくはその両方なのではあろう。
この最初の対面以降、荒川は(義理の)父としてしばしば春香と対面していった。
そうして春香の成長が彼にも判る様になってきて、HALCAプロジェクトに概ね完成の見透しが立った頃、早苗は自分の中にも新しい生命が宿っている事に気付いた。
彼女は、新しいやり方と古いやり方の両方で子供をそのしなやかな腕に抱こうとしていた。
やがてお腹の中の子も女児である事が判った時、彼女は荒川と春香の前でその目立ってきたお腹を撫でながらこう言った。
「この子の名前は『夏美』にしようと思うの。」
予定日が8月である事による命名なのは勿論だが、彼女の中ではその子は春香の妹だったのである。
そうして、荒川はその年の夏には早苗の『連れ子』である春香ではなく本当の二人の子供である夏美を抱ける筈であった。
あの悪夢が無ければ。