第三話
永田は、講義の合間の暇をもて余してコーヒースタンドのスツールの上で冷めて行くコーヒーをぼんやりと眺めていた。
特にコーヒーが呑みたかったわけではなく、単にやる事がなくて座っているだけなので、コーヒーにも殆ど口は着けていない。
頭の中では、昨日の講義の内容が止めどもなくぐるぐると廻り続けている。
もう忘れてしまいたい子供時代の過ちが、折に触れこうやって彼の後悔を誘う。
結局やってしまった過ちから逃げる手段は無いのだ。
今は、こうやって苦い悔恨の念が呼び起こされるだけだが、いずれその過ちそのものが彼を捕まえに来るのではないか、特に根拠はないが、彼はそう信じていた。
「おーい、正弘。」
不意に呼ばれてスツールの上で振り返ると、同じサークルの加藤であった。
「何だ、宏樹か。」
加藤は、苦笑いしつつ話し続ける。
「何だってのはまた随分な言い種じゃないか。何やってるんだ?」
彼は慌てて頭の中の暗雲を振り払う。
「いや、休講で空きになっちゃったんだよ。」
「ちょうど良かった。木田さんが用があるって探してたぞ。」
永田は頸を傾げる。
「何だろう?」
「また部室のPCの調子が悪いらしい。」
それはOBが置いていった物で、表計算ソフトを使ったサークルの会計管理やワープロでの会報の発行に使用されている。
といっても、実際に一番使用されているのはインターネットブラウザだったりするのだが。
テニスを中心にした(本当の活動の中心はコンパだが)お気楽なスポーツサークルなので、彼が入るまでPCに詳しい人間が誰も居なかったが、それでも何とか騙し騙し使っていた。
永田は特にスポーツに興味があったわけでもコンパがやりたかったわけでも無いが、たまたま新入生オリエンテーションで隣に座った加藤と話している内に誘われて共に部室を訪ねた。
その時もこのPCはいつもの様に不調で、三年生の木田が悪戦苦闘していたので、見かねた彼が手を貸した。
新品であった6年前でも大したスペックとはいえないそれは、最早なんとか動いているのが奇跡に近い代物だった。
更には、きちんと管理に責任を持つ人間がいないためOSも二世代も前の物だしセキュリティツールもまともに更新されていないので、マルウェアが入り放題の惨状であった。
彼は心中でやれやれとぼやきつつ、取り合えず必要なデータの内でウィルスに感染していない物を外部メディアに退避した上で、ライセンス開放版の最新OSをネットからダウンロードすると、PCをリセットしてインストールを掛けた。
後は、最新のOSは標準の設定ではこのPCのスペックには重すぎるので、適当にチューニングして何とかまともに動く様にした上で、無料のセキュリティツールもインストールした。
その鮮やかな手並みを見た先輩達は彼をヒーロー扱いし、是非にと引き留められた結果、いつの間にか入部してしまっていた。
初めの頃は、彼のPCスキルが欲しいための打算であろうと斜に構えて対応していたのだが、段々と打ち解けて行く内に、みんなノリが軽いだけで特に打算とかではなく、素直にそれだけのスキルを持った彼を本気で尊敬しているのが判ってきた。
先輩達にとって彼のITに関する鮮やかな手並みは、目にも留まらぬ速さで繰り出される鋭いサービスエースと同じくらい尊敬に価する物だったのである。
そうして彼も消極的にではあってもテニスやフットサルの練習に参加する様になった。
およそまともに運動した事のない彼は、何をやってもへまばかりでその都度失笑を誘ったが、その笑いは常に陰湿さを感じさせない暖かい物であり、彼に対する教えかたも親切かつ丁寧であった。
そして、いつの間にか自分がファーストネームで呼びあえる友人を持っている事に気付いた時、高校時代の同級生(友人と呼べる様な存在は居なかった)はこの話を聞いても絶対信じないだろうな、と自嘲的に思った。
どうやら、またサービスエースを決めに行かなければならないらしい。
永田はやれやれとぼやきつつ立ち上がったが、加藤はその口調の底に満更でも無さそうなニュアンスがあるのに気付いて軽く微笑んだ。
彼女は、終日宿主の後を(気付かれない様に)着いて廻った。
宿主にとってはそれなりに収穫があった様だが、特に高度なテクニックを必要とする様な侵入先はなく、彼女にとって参考となるような技術は見られなかったし、アイツに関する情報もほんの噂話程度の記録が転がっていただけで、そちらの収穫もほぼゼロであった。
勿論、彼女はその侵入先の全てに見付からない様に髪の毛を置いて来たので、それが本日の彼女の収穫の全てであった。
チャチャイが今日の収穫を確認していた時、アラートが鳴った。
アラート用のディスプレイを確認すると、罠を張っておいたサイトを踏んだ奴がいた様だ。
ある程度のアクセスが見込めるサイト、この場合はそこそこ名の通った通販企業のカタログサイトに罠を仕掛けて置いたのである。
誰かがこのサイトにアクセスすると、自動的にアクセス者のPCに対してバナーチェックが行われ、セキュリティツールが古かったりそもそも入っていなかったら、別のサイトに飛ばしてマルウェアをダウンロードさせるのである。
これは、クロスサイトスクリプティングと呼ばれる手法である。
アクセスの多いサイトにマルウェアをダウンロードさせる機能を直接書き込むと、大変目立つので直ぐに見つかって対処されてしまう。
だからこうやって別の目立たないサイトに自動的に飛ばして、そちらからダウンロードさせる。
更に、アクセス者をダウンロードサイトに飛ばすかどうかは事前にセキュリティツールのバナーチェックを行って判断し、攻撃を検出しそうな相手には誘導を行わない事で攻撃の発見を遅らせ、対処されるまでに多くのPCにマルウェアを送り込む事を可能としている、
このマルウェアはそのPCの持ち主に関する情報を収集して情報集積用のサーバに送信しつつ、彼の指示を待つ。
そして、いつか彼から指示を受けると、彼の手先となって攻撃に参加するのだ。
彼女は、秘密の拠点から攻撃用のツールが新しい犠牲者の所へ送り出されるのを見ていた。
この宿主はこういう拠点を随所に用意して、様々なツールを自動的に送り込み、日々その支配領域を拡大している。
勿論それらのツールは既に彼女が全て把握しており、その全てに髪の毛を挟み込んである。
これにより、宿主の支配領域は全て彼女の潜在的支配領域となっており、時が来ればそれらは全て彼女の一部となるのだ。