第二話
荒川は不快な目覚めとともにベッドで上体を起こし、悪夢を振り払うかの様に頭を振った。
ベッドサイドのカーテンを開けると、明るい陽射しが射し込んで来た。
キッチンに立って簡素な朝食の準備をしつつ、今日のカリキュラムを整理する事で、黒く焦げ付いた後悔の念を無理に頭の隅に追いやろうとした。
彼は、明峰学園大学部で総合情報工学科の準教授として情報セキュリティを中心に教えている。
この畑には学究一筋でやって来た人間はまず居ない。
情報工学はその技術の進歩の過程に産業と直結しない特別な研究施設を要するジャンルが少ないので、その進歩の大半は在野の企業・団体によって達成されるし、またその進歩のペースが速すぎて純粋に学究の対象となるレベルにまで整理され落とし込まれた情報は、その時点で既に過去の物となっている。
だから、この分野で学究一筋でやっていけるのは、情報工学史だけといっても過言ではない。
基本的にこの世界で有用な教育者となれるのは、最前線の実務経験者なのだ。
勿論荒川もそういう実務経験者上がりであり、その点では他の教育者と異なる所はない。
ただし荒川の前職は、民間企業ではなくPRIME委員会であった。
彼はその東京支局でセキュリティを担当していた。
だから、ビットバレー事件では職務上でも大きなショックを受けたが、あの事件ではそれ以上に個人的な面で大きな痛手を負った。
そして、その余波(彼の中ではこっちが本当の衝撃だったが)がついに耐えがたい程に大きい痛手となって彼を襲った時、丁度ビットバレー事件に関して警視庁のサイバー捜査課と協同して捜査を行っていたが、とうとう精神的な限界が来たために職務放棄も同然の形で辞職した。
それは、対外的には引責辞任と受け取られた。
荒川はその時点では責任者ではなく現場担当者の一人に過ぎなかったのでこの見方は根拠が無い。
しかし、セキュリティはいずれは破られる物だという認識は、プロにとっては常識であっても世間一般で通る話ではないのだ。
だから、実務上の対処とは別に何とかして世論を宥めるための生け贄を切実に必要としていたPRIME委員会は、各種の取材の場でその誤解を解こうとはせず、むしろ消極的ではあるが肯定と取られかねない回答すら敢えてした。
荒川自身はあの事件に起因する不幸による精神的痛手のためにぎりぎりまで追い詰められていたので、委員会の不当な責任回避にとても抗議する余裕もなく、暗黙の内に認めた様な次第となった。
その結果、彼はスケープゴートとしてあの事件の穢れを一身に背負って荒野に放逐されてしまった。
その後は、穢れを背中一杯に背負った彼を積極的に雇用しようという団体はなく、ようやく彼が見つけた仕事はぱっとしない私大の講師であった。
それも事件から二年が経過してほとぼりが冷めた頃に、かつての同僚達が個人的に運動した結果だったのだ。
だから大学のパンフレットで彼の経歴を見ると、本来なら太文字で記載されて然るべき前職が、その末尾に目立たぬ様に小さな字でそっけ無く書かれているだけである。
しかし、大学側は彼の実力を公正に評価してくれたので、わずか二年で準教授に昇格した。
またそれは、彼の心を折った過酷な体験である伴侶の喪失という痛みを忘れる手段が、仕事に没頭する事しか無かったからでもある。
チャチャイは朝食を終えると、タッチパネルに手を伸ばした。
昨日のドローンの報告の中で有用そうだと目星を付けてた辺りを順に探ってみるつもりだ。
彼女は扉が開くのを見ると、そっと外を窺った。
宿主の足跡が点々と延びて行くのを見て、取り合えず跡いて行って見る事にする。
お手並み拝見という所である。
やがて、その足跡は古びた扉の前で止まった。
それは結構立派な扉だが、かなり前から開かれた形跡がなく、手入れもされなくなって久しい事が見てとれた。
勿論、しっかりと錠が掛けられている。
どう見ても利用している人間は居ないし、錠から警報装置に延びている筈のケーブルも千切れて垂れ下がっている。
だから、バールか何かを使って力ずくで破りにかかるだろうと思っていたら、何と丁寧にピッキングを始めた。
この扉の外見が何らかの罠である可能性を疑っている様だ。
改めて宿主の慎重さに舌を巻いた。
やがて錠が外れる音が響き、扉が開いた。
実に鮮やかな手捌きではある。
彼女は、気付かれない様にそっと着いて中に入った。
今日の目標は、見棄てられて久しいと思われるデータクラウドのストレージである。
もうセキュリティ関係のアップデートは全く行われておらず、最新のアクセス履歴も5年以上前のものしかない。
軽く探って見たが、ファイヤーウオールが送り出すハートビートチェックと呼ばれる正常稼働中を示す報告電文も全て送達不能となっている。
つまり、報告先は既に稼働していないという事だ。
この状態なら、セキュリティを踏み越えて無理矢理アクセスする(その結果瞬時に不正アクセスが探知されアラート電文が送信される)強制アクセスツールを使って力ずくで侵入しても問題無さそうだが、彼はそうせずに稼働中のセキュリティシステムに気付かれない様にハッキングを掛けた。
もし万一見えない所でセキュリティが活きていたら強制アクセスツールを使った途端にアラートが鳴り響く羽目になるし、強制アクセスツールというのは詰まる所様々な不正アクセス手段を自動化した物の集合体であるから、それらを片端から試してみるので、意外に時間がかかる。
彼のスキルなら、この程度のセキュリティはむしろ自分で判断しながらハッキングした方が早いのだ。
見た目通りセキュリティは大した物ではなく、ほんの数分で屈伏した。
侵入すると、早速中を見回してみた。
大仰に【社外秘】という透かしがスタンプされたドキュメントが大量に転がっている。
どうやら、現在は中堅どころの企業に吸収合併された某企業が創成期に社内情報の共有と管理に使用していた社外秘レベルの情報のクラウドストレージだった様だ。
その後は企業の合併と規模拡大に伴ってより大きく統合されたストレージに移行したのだろうが、その際に忘れ去られて情報がそのまま残された物らしい。
こういう物は、ライバル企業にとっては競争で優位に立つために有用な材料になり得るし、流出を恐れる当事者企業にとっては金を払ってでも回収したい物である。
どちらに転んでも金になる。
これはちょっとした収穫である。
朝一番からこれなら、幸先が良いと言えるだろう。
宿主は手早く倉庫の中身を確認すると、値打ちのありそうな物を次々と拾い上げ、手元の袋にしまい込んでいった。
その間に彼女は、髪を一本抜いて目立たない様に倉庫の隅に落とすと、宿主が気付かない内にそっと外に出た。
彼はめぼしいデータをメディアにダウンロードすると、元通りにロックを掛けた上で最寄りのストレージ上を検索して、目につく限りのここへの接続情報を削除しておいた。
たまたまデータを拾った善意の第三者が通報するという体で、穏やかな交渉で本来の持ち主から金を引き出せるのは最初の一人だけであり、それ以降は脅迫の様な穏やかでない方法に訴えなければ持ち主から金を引き出す事は出来ない。
そうなれば交渉の過程で通報される危険率が格段に跳ね上がるし、それ以外の人間に売り付ける場合は、闇マーケットを通じて買手を探す必要があるが、探すにもそれなりの手間がかかる上に表沙汰には出来ない性質の物だから買い叩かれる可能性も高いので、金銭化するための交渉が終わるまでは出来るだけこのデータの存在を他の奴等に見付けられない様にしなければならないのだ。