第一章 二話 マイクのお姉さんと妹
「…えー…マジで、何もないんですけど…」
転移したチナは、呆然としながら目の前の平原を見渡していた。
高い、陽。 穏やかな、風。
生い茂るイネ科の植物は、ひざ上の高さほどか。
行楽に来たのなら、帰るまでその場で寝っ転がりたい。
そんな、すがすがしい場所だ。
だが…ここは、見ず知らずの土地。 まして…帰る場所もない。
呆然。 ただ、呆然。
と…待機時間が設定された時間を過ぎたのか、チナの右の視界に半透明のウィンドウが表示される。
『グラスホッパー平原』。
そこに書かれていた文字だ。おそらく、ここの地名なのだろう。
それ自体は大きく驚くべきことなのだが。
「うわっ! …あ、そうか。 あたし、異世界に転移したんだった!
じゃあこんなのも出て当たり前か」
いわゆるVRMMOのごとく右の視界に半透明のウィンドウが出て、所在地を教えてくれるという現象。
それを当たり前のことと捉えることができるこの娘は、きっと大物になる。
もしくは、頭が優しいだけなのか。
「とりあえず…移動しよっか…ここ、なんもないしね…」
そう呟いて、静かに歩き出すチナ。
…基本的に、遭難した場合に移動するのは極めて危険だ。
が…なんとチナのシステムにはオートマッピング機能が装備されていた!
「あ、これいーね。
じゃあ視点を移動して…って、行ってないとこは表示されないか。
え~…結局、闇雲に歩くしかないのかぁ…」
とりあえず、西方向に進むチナ。 右目の網膜に表示されたマップも同様に、西方向に伸びてゆく。
オートマッピングとか網膜投影とか、自分の体が魔改造されていることも平然と受け止めながら、チナは歩く、歩く、歩く。
と。
「あ、なんか…海が見える!! 後は海沿いに行けば…港くらいあるよね」
そう言いながらチカは走り出していた。
同様に、便利な便利なオートマッピング様も地図を更新していく。
だが…残念ながら、敵の表示はしてくれなかった。
・
・
・
それは、一瞬だった。
「え…わぁっ!」
ぱくん。ずざー。ぐるんぐるんぐるん。
…ちょっと適当すぎるので補足する。
それは…巨大な、蛇だった。
胴の直径は50センチほど。
ちょうど下草の高さくらいだ。
それが、いきなり飛び上がり、ほぼ真上からチナに襲い掛かったのだ。
グラスホッパー。
それがこの蛇の名前であった。
体のわりにどれだけ口が開くのか…ほぼ垂直に跳躍したグラスホッパーは、チナの上半身を真上から丸呑みし、長い体でチナの体を締め上げていた。
だが。
「ぷっふ…よかった、顔横にしたら息できたわ。
ぺっ、ぺっ!! あーびっくりした。
何がグラスホッパーだ! バッタじゃなくって蛇じゃないの!」
視線の操作でウィンドウを起動すると…そのまま視線で、『肉体強化』を選択する。
するん、ぶちん!!
すさまじい力で締め上げる大蛇の拘束の中、チナはするりと両腕を抜いた。
おそらく、チナが巨乳さんだったら、腕は抜けなかったであろう。
なんて恐ろしい身体能力!!
同時に…チナが開いていたウィンドウの中、『肉体強化』の文字が、白く輝いていた。
それをもう一度選択すると…表示が、『肉体強化+1』と変わった。
そのまま腕を蛇の口の中に滑り込ませると、顔の両隣に手を置いた。
「せーの、ぽん!」
いつの間にか伝染った掛け声で両腕を伸ばすと、大蛇の口が内側からゆっくりとこじ開けられてゆく。
驚いた大蛇が、チナの体を締め上げる力を強くする。
「きゅ!? 中身出ちゃう! 中身出ちゃうから! このやろー…こうだ!!」
チナは、開いていた掌を、強く握りしめた。
ぐしゅっ!! にゅるにゅる。
それは、指の間をミンチ肉がすり抜ける感触。 ハンバーグを作るときの、あの感じ。
「もう一丁! せーの、ぽん!」
左手を支えに、右手を振りかぶって…チナの、渾身の拳。
それは…大蛇の上あごを、完全に貫いていた。
と。
びくびくびくん!!
締め上げられているため、ダイレクトに伝わる痙攣。
大蛇の体が細かく痙攣したかと思うと、そのままゆっくり弛緩してゆく。
やがて、大蛇の拘束はほどけてゆき、ずるりとチナの体を解放した。
「っあー!! 大蛇の類はほとんど無毒らしいけど…死ぬかと思った!!」
解放されての第一声。
そして、大蛇の体に座り込む。
すでに全身が返り血まみれだ。
そのまま…チナはステータスをのぞいてみた。
LV:20
HP:10/200
MP:15/300
攻撃:200
防御:200
魔法攻撃:300
魔法防御:220
速攻性:300
「なんかレベル上がって…って! あたし死にかけてんじゃない!
文字、赤色だし!?
あ…なんか急に眠たくなってきた…これが噂のMPの枯渇、かな…ぐう」
ぱたん。
チナはそのまま大蛇の上に倒れこんだ。
規則的な寝息が聞こえてきたのは、数秒後だった。
頭の優しい彼女は…気付いていなかった。
実質ノーダメージで敵をせん滅していた事に。
レベル一なのに上位スキル『肉体強化+1』を使い、一〇分の同スキル使用不可と動作不能のペナルティを食らっていたことに。
そして…彼女の周りの下草が一斉に揺れだしたことに。
成長速度倍化
肉体強化+1
(OverHeat!!CoolTime:0days00:09 BeyondTheLimit!!Penalty:0days00:09)
全裸待機無効化
ハーレムエンプレス
????
????
????
????
・
・
・
二、三十分は経過した、と思われる。
漠然としているのは、どれだけ眠っていたのか計る手段がないためだ。
便利な便利なオートマッピングにも…時計機能がついていなかった。
寝ている間に、『一〇分間行動不能』というペナルティは消化されたようだ。
…まあ、そのまま寝続けていたということらしい。
誰かが、耳を甘く噛んでいる。
「ん…やめてよ…チカ…まだ眠いよ……」
寝ぼけたままのチナは、そう言って寝返りを打とうとした。
…打てなかった。
全身を、大小さまざまな蛇に、がっしり拘束されていては。
「えっ? ちょ…えっ!? なにこれ!?」
蛇玉、というものがある。
春先など、山間部でたまに目撃されるものだ。
何十匹もの蛇が互いに絡み合い、文字通り、蛇が塊になっているものだ。
父方の実家の裏山の奥で、チナは何度か見たことがある。
それに向かって石を投げるのは、田舎の子供の嗜みであった。
「これって…ままままままままさか……ここここっこここここ…っ!!」
交尾。
まさしくそれは、蛇の交尾だった。
「ぎゃあああああああああああ!!!!!
おおおおおかおかおかおか…こんなのいやだああああ!!」
肉体強化+1。
チナは容赦なくそれを行使した。
蛇が…空を飛ぶ。
まさしく、ちぎっては投げちぎっては投げ、だ。
チナは体に巻き付いた蛇を無理やり引きはがしては、全力で投げ捨てる。
噛まれないよう頭をつかんでいるのは触った経験があるためらしかった。 田舎の中学生、おそるべし。
ある程度の数の蛇を体から引きはがしたが…チナはふとあることに気付く。
投げ捨てた蛇が、再び自分に絡みつこうとしているのだ。
「ひいいいい!」
チナは再び足に絡みつこうとした蛇を何とか引きはがすと、全力で走り出した。
走りながらほかの蛇を引きはがしてゆくと、ようやく全身の蛇を取り除くことができた。
しかし、蛇はぴょんぴょん飛びながらチナの体に巻き付こうとする。
らちがあかない。
…なんとか今度は使用レベル超過のペナルティは喰らわなかったようだ。
走ること数十分。 それでも追いすがる蛇から全力で逃げるチナの前方。
その先に、明らかに人工的な石の砦と、多くの家屋が見えた。
「…街だ! 助かっ…あれ?
これって、トレインってことになるのかなぁ……」
トレイン。 MPKとも呼ばれる行為だ。
大体のオンラインゲームではプレイヤーがプレイヤーを殺すことはできないが、強いモンスターに追いかけられた状態のまま他のプレイヤーに近付くことでそれは可能になる。
中でもトレインは…大量のモンスターに追いかけられている状態をさし、モンスタートレインともいう。
ゲームの世界では忌避される行為の一つだ。
つまり、チナがこのまま街に逃げ込めば、この大量の蛇も街の中に入り込むこととなる。
「ううう……もー…いいかげんにしなさいよ、もー! もー!! もー!!!
いいから止まってよ!!」
チナの、心の底からの絶叫だった。
と…その時だった。
制服のポケットの中から、ハンカチが落ちた。
「わっ……も、知らない!!」」
そのまま駆け抜けるチナ…と、ふいに。
今まで聞こえた蛇の行進の音が、一斉に止まった。
「…え?」
立ち止まって、振り返る。
そこには…チナのハンカチに群がり、蛇玉を構築しつつある蛇たちの姿があった。
「…なんか聞いたことがある。
全部の個体がメスばっかりの種類の生き物がいるって。
で、時々現れるオスにメスが群がる…ハーレム制の生き物が…。
あたしが倒したのが、オスだったのかなぁ…?
そんなに匂いがするかな…うぉえ!!」
チナは、自分の服のにおいを嗅いでみて、嘔吐しそうになった。
生臭い…どころの話ではない。
考えてみれば当たり前だった。
生き物の血を大量に浴びたまま、陽気が良い日に天日干し。
腐敗もそうだが、妙な病気どころか、寄生虫をもらってもおかしくない状態だった。
「と、とにかく…街に行かなきゃ…うぉえ!!
その前に、この匂いを何とかしたいけど…うぉえ!!」
腐敗臭をまき散らす血みどろの少女。
少なくとも、女の子にあるまじき姿である。
「…いい!? もう、ついてこないでね!!
前フリじゃないからね! 絶対ついてこないでね!!」
その言葉がわかるはずもあるまいが…今のところは蛇玉が解かれる気配はない。
そのままチナは…街に向かって走っていった。
・
・
・
町だ。
名前も知らない町。
チナはそこにたどり着いていた。
その外壁に沿い、チナは歩いていた。
城塞都市…というほどではないが、一応数メートルの高さの壁が街を取り囲んでいる。
その外周を歩いて行けば、いずれ門に行きつくだろう。
「ほえー…立派なもんねえ…あ、だじゃれのつもりはないんだけど…」
誰も突っ込む人はいないけど、とりあえず言ってみた感じだ。
「………」
なぜか恥ずかしくなり、チナは、少しだけ赤面していた。
前方に、大きな門。
その前に、防具を着けた門番がいる。
いかつい顔…その若い男は、もろにアングロサクソン系の顔立ちだった。
「さて…どうしようか」
立ち止まり、思案顔を見せるチナ。
話しかけ、街に入れてもらう。それだけだ。
場合によっては入場料だか税だかをとられるかもしれないが、それならそれで仕事を紹介してほしい…いい加減、腹も減ってきていたこともあるし。
しかし。
交渉しようにも、言葉がわからない。
異世界ものの定番では、言語の問題がクリアされている。
それはスキルであったり、魔法であったり色々である。
だが、チナは、その辺のスキルも魔法も取得していなかった。
だが…チナには、一つ、心当たりがあった。
チナは、思いきってそれを実践してみた。
「え、えきすきゅーずみー、さあ?」
「May I help you?」
「やっぱ英語やないかーい!」
チナは、思わずつっこんでいた。
思い出す。
先ほどの、グラスホッパー平原と言う名前。
メグルの言葉。
そして、昔から気になっていた、異世界物の創作世界の地名や人名は…どうして、ドイツ語風や、フランス語風、あるいはそれらが混じり合ったものが多いのかという疑問。
何のことはなかった。
そもそも、地球からの転生者が自分しかいないわけではないのだろう。
おそらく千年万年の昔に転生者が、この地を拓き、その遺産として言語を遺したのだ。
もしくは、その逆も考えられる。
つまりこちらの世界から地球へ転生し、ドイツ語やフランス語を伝えた、と。
むしろ、地球の言語のほうが、海賊版なのかもしれなかった。
チナはかなり運が良かったといえる。
日本人の第二言語と言えば、基本的には英語しかない。
が、欧州圏は、フランス語が主要な第二言語だった時代が長かったはず。
そんな歴史の中でたまたま英語ユーザーが、たまたま転生し、英語を残した。
なんという幸運なんだろう! どうせなら、日本語で良かったのに!!
「どうかしたかい、おじょう…うわっ! 怖っ!
そして、臭っ!」
門番の男はチナに声をかけようとして、絶句した。
全身、血まみれの少女が、異臭を放ちながら自分に話しかけている。
ちょっとしたホラーだった。
チナの数少ない自慢は…姉と同じ、サラサラの長い黒髪だ。
顔だけ見れば見分けがつかないほど似ているため、識別記号としてチナは少しだけ髪を切り、後ろで束ねている。
その髪留めも外れかけ、髪も乱れたまま、血の地でべっとりと張りついている。
虐殺された死体が甦ったように見えたのはやむないことであろう。
ホラーの登場人物は、言葉を続ける。
「あの、あの、あの、私の名前は、チナ・イトウです。
私は、十三歳です。
ヤマイ中学の一年生です。
あの、あの、これはペンです。
じゃなかった。
あの、あなたはマイクのお姉さんですか?」
「ま、マイクってだれだ?」
異国人とおぼしき少女が、必死で、練習中のこの国の言葉を話そうとしている。
それはきっと、ほほえましい光景なんだろう。
人相がわからないほど血まみれで、腐敗臭を放っていなければ。
「はわわ…あの、わたし空腹、とても空腹。
食べたい、食べたい。
仕事、仕事。
私。力持ち。
教えて下さい。
あなたはマイクのお姉さんです」
「だからマイクって誰だよ! 勝手にお姉さんにすんな! 俺、男だし」
「はわわわわわ…わ、私はマイクではありません。
どんな事でも働きなさい。私はとても空腹ですか?
あなたはとても役にたちます。
私の空腹に終わりはありません。
仕事、仕事!
見て下さい」
と…チナは門番が立てかけていた短槍を手にとった。
そして、短槍をバトンを扱うように、はじめはゆっくりと…やがて勢いをつけて回す。
その姿は、意外と様になっていた。
だがそれは、槍術と言うよりバトントワリングだった。
小学生のときに、経験者の友達に教えてもらったものだ。
パフォーマンスは練習が必要だったから、回すことだけ。
それ以来……掃除の時間ごとにモップを回して怒られたり、ほうきを回して怒られたりしていた小学生時代である。
短槍とバトンでは取り扱いが異なる、と思われそうだが…実はバトンの重心は、真ん中ではない。 少しずらしてあるのだ。
そういう意味では、バトンも短槍も同じ。
実際、バトントワリングの熟練者は手にした一瞬で重心を感じ取り、棒なら何でも綺麗に回す。
そしてチナには肉体強化のスキルがあった。
やがてブンブンいいながら高速で回りだした槍を、チナは最後にピタッと止める。
先端を、門番に向けて。
チナはそのまま、笑顔を見せる。
大蛇の、返り血まみれのその顔で。
「私、空腹。あなた。よい仕事できる。とてもとても。
食べたい。食べたい。
マイクとお姉さんのように」
「けっ、警戒ーー!!」
門番の若い男が、恐怖にかられたように走り出し、門の内側に駆け込む。
突然の叫びに、先ほどまで中の詰所でくつろいでいた男たちが一斉に飛び出す。
「危うく食われるところだった!
大変だ、マイクとマイクのお姉さんが、奴に食われた!」
「マイクって誰だよ!?」
「知らん!
だが、あれは魔物かなにかだ。 相当槍を使うぞ!
相当やばい!
そして、とても臭い!」
「本当だ、とても臭い!
伝令ー! 伝令ー! 非常呼集だー! 配置につけー!
マイクとお姉さんの仇をとってやれー!」
この街の守備隊は非常に訓練が行き届いていた。
警戒をあらわす角笛が吹かれる。
途端に、街の中が一斉に動き出した。
街の人々は一斉に避難を始め、非番の男たちが鎧や兜を身に着けながら担当する地域に走ってゆく。
物見櫓の兵士は弓をつがえ、門番たちがファランクスよろしく槍と盾を構えて密集陣形をとり、チナに相対する。
そして…槍を立て、棒乳切を敷石にぶつける。
何十本という槍が敵を威嚇するように…石畳の上で規則的なリズムで音を立てる。
がん! がん! がん! がん!
それはハカと呼ばれるものを連想させた…もしかしたら、過去にこの世界に転生したものの中には、ニュージーランド出身のものもいたのかもしれない。
「…えー…」
あまりの出来事に、チナは呆然と立ち尽くす。
そして、呆然とつぶやく。
「……マイクは…私の友だち…です…か?」
このあと、滅茶苦茶投獄された。
・
・
・
怒られた。
すっごく、怒られた。
無論、チナだ。
その罪状は…凶悪なアンデットモンスターのふりをして、街を騒がせたというもの。
結局、罪には問われなかったが、一晩反省しろと言われ牢にぶち込まれた。
色々未発達なことで、子供扱いされたようだった。
未開の土地での子供扱いなら、ぶん殴られて放り出されて終わり、だっただろう。
しかし、この町での処罰はこの通り。
ある程度発展し、人々の生活に余裕があり、他人を気遣う余裕がある。
そういう街であるようだった。
この町は……その名を、『ポートグラスホッパー』と言った。
訓練されたnarrow系読者の想像通り、それはいかにも『異世界』といった感じの中世風の町であった。
近代風の蒸気機関や、工業製品を思わせる均質的なものは街角のオブジェや町の人々の衣装にさえ、ない。 ……なのに、重化学工業の象徴というべき窓ガラスだけは、何故か透明だった。
そしてその町の守備隊の詰め所に、チナはいた。
その長い取り調べが終わりここにいる。
チナはなんとか、スキル『成長率倍化』のおかげで取り調べ中にこの国の言葉を覚えることができた。
ちょっと、おそかったけど。
なお。
英語…学校で習った英語とはだいぶ違ったのには驚いた。
覚えていた単語が、少なからず違ったのだ。
何百年かの歴史で、この土地で変化したこともあるのだろうし、そもそも過去の転生者自身の英語も現代とはだいぶ違ったのだろう。
この大陸の名は…ニューフロンティア。
命名した転生者の意図など知らないが。
その西部にあるグラスホッパー地方。
命名した転生者の意図など知らないが。
その端の、西グラスホッパー王国。
命名した転生者の意図など知らないが。
さらにその外れの沿岸の町…ポートグラスホッパー。
…まんまじゃねえか。
きっと魚は全部なになにフィッシュかなんとかトラウトで……普通名詞のほとんどが外来語か、動名詞プラス名詞なんだろう。
命名の適当さを、小一時間問い詰めたいところだった。
そして…一応、腐敗臭がとれるくらいには洗われた。
最初は女とも思われていなかった。
…服を脱がされそうになった時にあげたチナの悲鳴に、奥さんだか女性職員だかから男たちが袋叩きにされる、というハプニングはあったが。
ちなみに温情的な判決は、この時の女たちの声も一役買っている。
可愛いが正義なら、かわいそうは無敵だ。
そして…牢内。
チナは、必要以上に全身くまなく洗われて、脱力しきっていた。
「ふふふ…大変でしたね」
慈愛あふれる声と表情で声をかけてきたのは…同じく投獄されていた少女だった。
彼女もチナの洗浄を手伝った一人だ。 なお着ていた制服は今、女たちが洗っている。
腐った匂いがする女子の制服、というと、なにか誤解されるかもしれない。
ちなみに、現在の着衣は女たちからの借りものだ。
どんな服装なのかは想像に任せるが…チナに言わせれば、スースーするとの事だった。
なんのことだかどこのことだかまったくもってわからないったらわからない。
…異世界モノには『衣装は中世風、でもぱんつだけは現代』というものが多々あるが…もしかしたらこの世界、そもそも『ぱんつ』というものがないのかもしれない。
『(そもそも)パンツがないから恥ずかしくないもん』などと言うと一部の人に怒られるので、一応、カボチャを連想させる下着はある、とだけ言っておこう。
「全く…まったくよ、ほんとにもう。
そりゃ日本にもアカスリはあるけど…たわしはないでしょ、たわしは!
男どもはいったい、何考えてんだ」
フンガイしながら言うチナに、同室のもう一人の少女が困ったような笑顔を見せる。
「あ、最初に悲鳴は、そっちだったんですね。
ティナさんの国は、ニホン、というのですか」
ティナ、というのはチナのことだ。
なるほど、TINAと書けばそうとしか読めない。
最初、CHINAと書いてチャイナと呼ばれたり、THINAと書いてみてティーナと呼ばれたり、いろいろ試行錯誤を繰り返して…今の形になった。
日本人の英語の習得が困難であるいい見本だった。
で…最終的にはどうでもよくなった感じだ。
「うん……まぁ正確には、異世界から来たんだけどね」
「まあ……ふふふ、異世界だなんて、文学的な表現ですね。」
またか。
チナは、憮然とするしかなかった。
ここの人は、アナザーワールドと言っても違う文化の国ぐらいとしか認識してくれない。
とはいえ、チナの語彙力では状況を正しく説明する事は不可能だった。
そもそも、異世界の存在を証明したり説明したりすることができない。
この辺りは、取り調べの時も苦労した点だ。
かくしてチナは、外国からきた親なし金なしおっぱいなしのティナさんになった。
外国どころか、蛮族扱いされてそうだが。
「でも…ダメですよ、ティナさん。
いくら子供と言っても、女の子なんだから。 いろいろと…用心しないと」
「あはははははは、あはははははは…………はぁ」
とりあえずこんな風に笑っているのは……後はとある曲の歌詞になるので割愛する。
「……はい、面目ない」
「ふふふ。素直なのは、とても良いことです」
素直に折れるチナ。
応じて女性は言いながら、どこからか取り出した古い櫛で、チナの髪をときはじめた。
修道服にふさわしい慈愛に満ちた表情で子供の髪をとく姿は、聖母とさえ言ってよい。
女性は、金髪碧眼で十五歳で癒し系…ここまで言えば、美人で巨乳であることは言うまでもないので割愛。
名を、ジェーンといった。
「ジェーンってさ。なんでこんなところに入れられたの?」
チナはストレートに聞いてみた。
ジェーンの服装は修道服…まあ間違いなく神に仕える職業であろう。
それがなぜ牢へ? それは至極、当然の問い。
「じ、実はその…公共の建物に、傷をつけてしまって」
しまった…どじっ娘属性だったか。
金髪碧眼で十五歳で美人で巨乳であれば、その可能性を考慮しておくべきだった。
全裸待機無効化のスキルを持っていればいいが…チナは思わず彼女の将来を心配した。
「私も、明日釈放なのです。
よろしければ、わたくし達の教会…」
と。
言葉が数秒詰まったので、チナは振り返ってみた。
そこには、先ほどと同じ聖母の笑みがあった。 何か少し、違和感があったが。
「わたくしの家にいらっしゃいませんか? 歓迎しますよ」
「ジェーン、ちょっとこい」
ふいに、二人の会話に看守の男が割って入った。
檻の外からジェーンを手招きで呼び寄せると、怒気の混じった小声で言った。
「見ず知らずのガキを招くとか…お前はどうしてそう無計画なんだ。
お前のところの孤児院は、もうかつかつじゃないか、ばか。
これ以上、ごくつぶしを増やしてどうする」
全部丸聞こえなんですけど。 チナはひきつった笑みを見せた。
が、あえて何も言わなかった。
さっきもらったパンは硬くてまずかったが…なんか、少しだけお菓子っぽいものも付けてくれた人だし。
「それに今、お前のところは…いろいろと大変なんだろ?」
「しかし、困っておられるようですし…。」
「ああ、もう…全く…」
男はそういうと牢の前を離れた。
詰所と思われるところで、なにかやり取りしているのが聞こえる。
そして帰ってくると、何枚かの銀貨をジェーンに握らせる。
「悪いが、これが精いっぱいだ。 うちにも苦労させてる嫁がいるからな。
お前のとこはガキどもが多いが…数日は困らんだろ。そのうちにさっさと追い出せ。
冒険者ギルド…は、ガキだから無理か。 下働きの口でも探させろ。
いいな?」
「こんなに過分に…」
その言葉に大きく息をのむジェーン。
そして…顔を隠すように深く頭を垂れると、祈りの言葉を捧げた。
ぱたぱたっ…小さな水滴が、牢屋の床に落ちる。
その水源は、間違いなくチナではなかった。
ええはなしや…目の前のその光景に思わずもらい泣きしそうになったチナだった。
なので、怒鳴られても怒る気にはならなかった。
「なに盗み聞きしてんだ!
い、言っとくが、し、心配なんてしてないんだからなっ」
「はぁい。 ごめんなさい、看守さん」
良いツンデレに目くじらを立てるのは、紳士淑女の嗜みではなかった。
・
・
・