(6)
すっかり日も落ち、暑さに翳りが見え始めた頃、私は目の前の机に携帯を置き、じっとその様子を見つめていた。
時代はすっかりスマートフォンだったが、私はいまだにガラケーと呼ばれる旧式の携帯を使用していた。使い慣れているし、別に不便していないからというのもある。でも大きくはやはり思い入れだろうか。
さゆりとのやり取りが残ったメールや、一緒に撮った写真。そこにはあまりにもさゆりとの想い出が詰まり過ぎていた。5年も経った今、それを頻繁に見返す事はなくなったが、この時期が来るとどうしてもそれを開いてしまう自分がいた。
前に進めない。
みゆきさんの言葉を思い出す。
さゆりとの想い出に縛られているつもりはないが、傍から見ればそう思われても仕方がないだろうか。この携帯を変えて、データを綺麗にしたらどうなるだろうか。そうしたからってそれでさゆりが消えるわけではない。
でも、いまだこの携帯を解約する事は、私には出来なかった。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
目の前の携帯が低音質なメロディーを奏でる。
私は二つ折りの携帯を手に取り、画面を開いて確認する。
『さゆり』
私は当たり前のようにそれを耳に当てる。
「もしもし」
私の呼びかけに、携帯の向こうから懐かしい声が聞こえてくる。
「しゅう君」
紛れもないさゆりの声。
死んでいるはずのさゆりの声。
一年に一度来る、さゆりからの着信。
その為に、私は今もこの携帯を使い続けている。
さゆりが死んで最初のお盆。
その時は、みゆきさんもあゆみさんもまだ本調子ではなく、まだまだ悲しみや辛さを重く引きずっていた。それは私も同様だった。
家に帰り、そんな暗い気持ちを払拭するように、私は缶ビールを片手に一人想い出に黄昏ていた。
その時、急に携帯が鳴り響いた。
画面の表示を見て私の心臓は飛び跳ねる程に驚いた。
「さゆり……?」
これは何の冗談だと思った。
誰かのイタズラか。
私は恐る恐る携帯を手に取り、着信を受けた。
「もしもし……?」
次に私の耳に入った声は、私に強烈な衝撃を与えた。
「しゅう君」
嘘だとか、イタズラだとか、冗談だとか、夢だとか、そんなものは一切感じさせなかった。
私には一声で分かった。それが本物のさゆりの声である事を。
自分が死者と喋っているだなんて事は思わなかった。電話の向こうのさゆりの声があまりにも普段通りだったからだ。
私は嬉しさと懐かしさとを感じながら、彼女と話した。
生前に話していた頃のように。
「あ、ごめん、友達が呼んでるから、切るね」
まだまだ話していたかったが、そうやって電話は一方的に唐突に切られてしまった。
急激に戻された現実で、私は改めて今自分の身に起きた不可思議な出来事を思い返した。
慌てて着信履歴を見るも、そこには今しがたかかってきたはずのさゆりの履歴はどこにも残っていなかった。
恐怖はなかったが、ただただ狐につままれたような心地ではあった。
ただ今が盆の時期と考えればこういう事もあるのかもしれないと思った。
色々考えるのはやめて、私は素直にさゆりと話せたことを嬉しく思う事にした。
しかし、それはその次の年にも続いた。それもまた同じ盆の時期。
去年はどこか夢心地で終わった出来事だったが、二度も続けばさすがに訝しく思うのが正直な所だった。
誰かがさゆりの携帯を使っているのか?でも何の為に?
考えても答えに行き着かず、私は再びそれに応える。
「しゅう君」
同じだ。去年に聞いたあの声。そして生前に聞いた声とまるで同じ。
やはり、さゆりだ。
こうして一年に一度私とさゆりは黄泉の境界を越えた。
残念な事に私からさゆりへの発信は届かず、あくまで盆の時期、さゆりからの着信という条件付きで私達は毎年言葉を交わした。
この出来事を私はみゆきさんにもあゆみさんにも話していない。あまりにも荒唐無稽だし、それを話せば、きっと私の身を心配するだろうと思ったからだ。
私は至って何ともないのだが、人がこれを聞いた時にどう思うかを考えた時、あまり話すべき内容ではないと思った。
まるで織姫と彦星のような、儚いやり取り。
そして今年もさゆりとの時間が訪れた。
さゆりは相変わらず元気そうだった。本当はどこかで生きているんじゃないかと思うほどに、その声は溌剌としている。
毎年こうやって声を聞くのに、忘れろという方が無理な話だ。もちろん私自身にそのつもりもないが。
携帯変えたらどうですか、と職場の人間や周りの級友達からはさんざん言われてきた。
でもそうはしない。
変えた途端にさゆりからの着信が受けられなくなってしまったら。その可能性を考えると、とてもじゃないが手放せなかった。
5年。
確かに早かった。でもその時間の流れの中で、さゆりが自分にとって想い出の人になる事はなかった。
こうやって今も話している。
さゆりと繋がっている。
私にとってさゆりは想い出ではなく、未だそこにいる現実の存在だった。
しかし。
「それでね、今友達の所に着いたんだけど」
さゆりの話すそのフレーズ。
いつものフレーズ。
私は、複雑な思いに沈んでいく。
私がそれに気付き、疑念を抱いたのが三年前の着信。そして確信に至ったのが一昨年。
そして私はそれを伝えるべきかどうか決めきれずに去年をやり過ごした。
さゆり、君は。
「都会ってやっぱりすごいねー。人とか建物がいっぱいなんだよね。すごいなー栄えてるってのはこういう事なんだね。でね、明日……」
私が気付いている事にさゆりは気付いていない。
さゆりは、自分が死んでいる事に、気付いていない。
さゆりは、あの地震の日の、死ぬ前の時間を今も過ごしている。
「さゆり、ちょっといい?」
「ん? どうしたの、しゅう君?」
前に進めないのは自分だけではない。
さゆり自身もだ。
私は、今日こそ伝えなければならない。
ちゃんと、さゆりに。
私にしかそれは出来ないだろうから。
「さゆり、大事な話なんだ」
「え? うん。何?」
さゆり。
「さゆり、君はね、もう、死んでるんだよ」