月を見上げる
後見役が決まってしばらくがたった。
実績も何もない、妾腹の男に不安の声を上げるものは少なくなかったが、予想以上に有能であったらしく、周囲の人々は徐々に彼を信頼するようになっていった。暁も最近では「叔父上、叔父上」と彼にすっかりなついていた。
「美月もすごいと思うだろ!?」
暁本来の明るさが戻ってきたことはよかったと思う。だが、美月はどうしても東也という男が信頼できなかった。
何度か顔を合わせたが、まともに口を聞いたことはない。せいぜい使用人としての必要最低限の会話のみだ。それでも気になってしまう。彼は時々鋭い視線を自分に向けてくるから。
――彼に近づいてはいけない。
カン、としかいいようがなかった。だが彼を目の前にすると、自分が飢えた肉食獣の前で座っているような気がして落ち着かない。
「そうね」
しかし、この言いようがない不安を口にすることはできない。屋敷の人々は大分好意的になりつつある。彼の悪口を口にしようものなら白い目を向けられるだろうと推測できるほどには。
「だろう!僕よりもずっと優秀で……父上はそれをわかっていたから、叔父上を指名したのだと思う。叔父上が領主になればいいのに」
「そのつもりはないのでしょう?」
東也は暁が成人した後に権限を帰すと主張している。彼を領主に、という声が上がっても、当の本人が興味を持っていないのだからどうしようもない。暁は不思議で仕方がないというが、美月には何となく男の心情が分かる気がする。
彼の生母は身分の低い女性だったという。早くに亡くなったそうだが、身分の低さゆえに、心労が多かったようだ。屋敷に迎えられて間もなくひっそりと息を引き取ったらしい。一人、彼は幼少期この屋敷で過ごした。
認知はされていても、正妻の子である異母兄の扱いの差は歴然。周囲は母親を理由に下げずみ、嘲笑う。そんな環境で過ごせば後継ぎになりたいと思うことはないだろう。実際、彼は屋敷に居を移すことなく、町はずれの屋敷に暮らしている。彼はここの主になる気などさらさらないのだ。
いやむしろ。
「興味がないのかも」
「え?」
「何でもない。独り言」
どうでもいい。と思っているのかもしれない。
母が死んだのは14の秋のことだった。仕事中に倒れ、医者が呼ばれた時にはもう息を引き取っていた。あまり苦しまずに行けたことがせめてもの救いかもしれない。早くに夫を亡くし、幼い私を育てるために使用人になった。苦労をかけるばかりで、親孝行すらまともにできなかったことは悲しい。
葬儀も使用人数人で行われる質素な代物。暁からお悔やみが述べられたが本人は葬式に参加しなかった。学業が忙しすぎて、とのことだった。
私は泣くことができなかった。悲しいのかどうかもわからなかった。ぼんやりと母の遺体を見下ろす私を、大人たちは気味の悪い子だという。以前はまだ表情が動いていたはずなのに、それから私の表情はほとんど動くことなく過ごすことになる。
母亡き後も私は使用人として屋敷で暮らした。まだ14歳の私に一人で生きていくことはできない。話し合った結果、使用人頭を後見人として、私は成人までは屋敷で暮らすことを許された。成人後は屋敷で働くなり、外に出るなり好きにしていいらしい。
屋敷に来たのが五歳の時。十年近くを屋敷で暮らしてきた私に、本当の意味で外に出たことはなかった。外に出たいか、と聞かれれば怖いと答えるだろう。両親には身内と呼べる人間が皆無で天涯孤独の身の上であるということにも恐怖に拍車がかかる。
どちらにせよ、考える時間はある。この問題は棚上げにしておくことにした。
母を亡くして一週間。喪失感と戦いながら働いていたある日。
「美月」
名前を呼ばれて振り返ってみれば、暁がこちらに歩いてきた。
「どうしましたか」
「供についてきてほしい」
「……それは構いませんが、琢磨はどうなさいました?」
琢磨とは暁に仕える侍従のことで、暁がどこかに出かけるときは、必ず付いていた。私はもっぱら裏方の女中の一人として働いている。まず、ありえないことだった。
「今日出かける先は社なんだ。いかつい琢磨より、女性の美月のほうがいいと思って」
社とは、この町に一つだけある大きな神社のことだ。一年に一度、祭りを主催することでも知られている。また、祭りの目玉となるのが一週間踊られる神楽。毎年その年一番の舞い手が選ばれ、その舞い手は「神楽の舞姫」と呼ばれる。
社にはまいてたちが神楽を学ぶ稽古場がある。そこには多くの若い女性たちが稽古に励んでいる。その場に、男性としても大柄な琢磨を連れ歩くことは得策ではないと判断したらしい。
「わかりました。使用人頭様にお話ししてみます」
厳格な彼女に了承を取らなければならない。
「頼んだ」
数時間後、私は暁とともに社に向かった。
これが、後の運命への導きとなることを、まだ誰も知らなかった。