兄ちゃんは、私のだから
朝の通学路。
「……なんでついてくるの」
前を歩く美咲が、振り返りもせずに言う。
「いや、一緒に学校行くだけだろ」
「一緒に来ないで」
ぴしゃりとした声。
周りの視線を気にしてか、距離をさらに離される。
それでも俺は、少し後ろを歩き続けた。
“兄”だから。それくらいは許されると思っていた。
教室の前まで来たとき。
「じゃあな」
そう言おうとした瞬間。
「……来ないで」
ドアに手をかけたまま、美咲が小さく言った。
「ここまででいいから」
「え?」
「教室まで来られるの、ほんと無理」
はっきりとした拒絶。
「シスコンって思われるし」
クラスの中から笑い声が聞こえる。
その中に、美咲が入っていく。振り返りもしない。
取り残されたのは、俺だけだった。
昼休み。
廊下で偶然、美咲を見かけた。
「お、美咲——」
「話しかけないで」
即答だった。
「今、友達といるから」
ちらりと周りを見ると、クラスメイトがこっちを見ている。その視線が、やけに刺さる。
「……あっそ」
軽く返して、その場を離れた。
(慣れてるだろ、こんなの)
そう思っても、胸の奥がじわっと痛む。
放課後。
昇降口で、また美咲を見つけた。
今度こそ、ちゃんと話そうと思った。
「なあ、美咲」
「……なに」
明らかに嫌そうな顔。それでも、言葉を続ける。
「ちょっとさ、今度——」
旅行の話をしようとした、その瞬間。
「どうでもいい」
遮られた。
「兄ちゃんの話、興味ないから」
言い切られる。
「それより、帰るからどいて」
肩を押されて、すれ違う。
そのまま、美咲は振り返らずに帰っていった。
その背中を見て、ふっと力が抜けた。
「……そっか」
もういいか、と思った。どうせ何を言っても、届かない。
“兄ちゃん”としてすら、必要とされてないなら
その夜。
「兄ちゃんなんか、大嫌い」
とどめみたいな一言をもらって。
俺は、何も言い返さなかった。
スマホを手に取る。
「なあ、今から旅行とか行かね?」
送信。
理由なんて、どうでもよかった。
ただ、この場所から少し離れたかった。
二泊三日。
楽しいはずなのに、どこか空っぽで。
でも、考えないようにした。もう、考えなくていいように。
「ただいまー」
玄関を開けた瞬間。
ドタドタドタッ——!
「兄ちゃんっ!!」
勢いよく飛びつかれて、そのまま壁に押しつけられた。
「お、おい!?」
「どこいってたの!?なんで何も言わないの!?」
息が荒い。手が震えてる。
「いや、ちょっと旅行に——」
「置いてかないでよ!!」
遮られる。ぎゅうっと、苦しいくらい抱きしめられる。
「……いなくなるかと思った……」
「そんなわけ——」
「あるよ!!」
涙声で叫ばれる。
「兄ちゃん、いないとダメなのに……!」
その一言で、何も言えなくなった。
その日から、美咲は完全に変わった。
「兄ちゃん、どこ行くの?」
朝、部屋を出た瞬間にドアが開く。
「トイレだけど」
「……ついてく」
「いや来んな」
「やだ」
普通に腕を絡めてくる。
通学路。前まで距離を取っていたはずなのに。
「……離れないで」
制服の袖をぎゅっと掴まれる。
「いや、近くない?」
「いいの」
即答。
「兄ちゃん、またどっか行きそうだから」
ぼそっと呟く。そのまま、ぴったり横にくっついて歩く。
周りの視線?もう気にしてない。
教室の前。前は拒絶された場所。
「……入るけど」
「ああ」
「……一緒に来る?」
「え?」
小さく、でもはっきり。
「来ていいよ、今日は」
むしろ、自分から腕を引っ張ってくる。
「兄ちゃん、ここ座って」
クラスのざわめきが聞こえる。
「お、おい……」
「いいの」
きっぱり。
「兄ちゃんは、私のだから」
さらっと、とんでもないことを言う。
昼休み。
「はい、あーん」
「いや食えるわ自分で」
「やだ」
強引に差し出される弁当。
「ほら」
「……はい」
根負け。周りから冷やかしの声が飛ぶ。
「仲良すぎじゃね?」
そのたびに、美咲は少しだけ機嫌が良くなる。
放課後。
「ねえ、今日も一緒に帰ろ」
「毎日だろ」
「うん、毎日がいい」
即答。帰り道。ふと、美咲が立ち止まる。
「ねえ、兄ちゃん」
「ん?」
「……あの三日間さ」
少しだけ俯く。
「ほんとに怖かったんだよ」
静かな声。
「帰ってこなかったらどうしようって、ずっと考えてた」
手が、そっと俺の服を掴む。
「だから——」
顔を上げる。
「もう、どこにも行かないで」
まっすぐな目。逃げ場なんてないくらい、真剣な顔。
「……ああ、行かないよ」
そう言うと。ぱあっと表情が明るくなる。
「ほんと?」
「ほんと」
その瞬間。また抱きつかれる。今度は、優しく。
でも、離す気はないみたいに。
「約束だからね、兄ちゃん」
「破ったら?」
「……一生許さない」
ちょっと笑いながら。
でも目は本気。そして、小さく付け足す。
「だって——」
少しだけ照れて、でも離れずに。
「……好きなんだから」
聞こえるか聞こえないかの声。
でも、確かにそう言った。
俺は何も返せなかった。ただその体温を、振りほどけなかった。
夜。
部屋の電気を消して、ベッドに入る。
ようやく一人になって、少しだけ息をついた。
(……疲れたな)
天井を見ながら、今日のことを思い返す。
あいつ、変わりすぎだろそう思った瞬間。
コンコン、と小さなノック音。
「……兄ちゃん」
ドアの向こうから、控えめな声。
「どうした?」
「……開けて」
仕方なく起きて、ドアを開けると。
そこには、枕を抱えた美咲が立っていた。
「……何それ」
「……一緒に寝ていい?」
即答だった。
「は?」
「やだ?」
不安そうに見上げてくる。昼間みたいな強気な感じはない。
「いや、やだっていうか——」
言いかけたところで。
「……一人だと、怖い」
小さく呟かれる。
「また、いなくなりそうで」
ぎゅっと枕を抱きしめる手が震えている。
……断れるわけなかった。
「……少しだけな」
そう言うと。
ぱっと顔が明るくなる。
「ほんと?」
「ほんと」
ベッドに並んで横になる。思ってた以上に、距離が近い。
「……もっとこっち来て」
「いや狭いだろ」
「いいから」
ぐいっと腕を引かれる。
そのまま——ぴったりくっつく。
「おい」
「……安心する」
ぽつり。
胸元に顔を埋めるみたいにして、ぎゅっと掴んでくる。
「兄ちゃん、あったかいね」
「普通だろ」
「……普通じゃない」
小さく首を振る。
「兄ちゃんじゃないとダメ」
その言葉に、心臓が強く鳴る。
しばらく沈黙。静かな部屋に、二人分の呼吸だけが響く。やがて、美咲がぽつりと呟く。
「ねえ」
「ん?」
「……また、どっか行ったら」
少しだけ顔を上げる。
「私、壊れるかも」
冗談じゃない声。真っ直ぐすぎる目。
「……行かないって言っただろ」
そう返すと。安心したみたいに、またくっついてくる。
「約束、だからね」
「しつこいな」
「だって大事だもん」
少し笑う。でも腕は離さない。
「……兄ちゃん」
「ん?」
「おやすみ」
小さな声。
それから
「……大好き」
今度は、はっきりと。心臓が止まりそうになる。
でも。
「……おやすみ」
それしか返せなかった。
しばらくして。規則正しい寝息が聞こえてくる。
完全に眠ったみたいだった。
それでも服を掴む手は、離れないまま。
(……ほんと、ずるいよな)
天井を見ながら、ため息をつく。
でも、その手をほどこうとは思わなかった。
行く場所はきちんと伝えよう。




