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スーツケースの中      :約3500文字

作者: 雉白書屋

「ねえ、いま猫ちゃんの声がしたよー」


 午後三時過ぎの電車内。乗客はまばらで、空席が目立つ車内はどこか緩い空気で満たされていた。窓から差し込む陽の光は柔らかく、床や座席に淡い光の図形を落としている。ただその明るさには、午後特有の寂しさが薄く滲んでいる気がした。

 おれは縦に立てたスーツケースを両足の間に挟み、持ち手に添えた手の甲に額を預けていた。電車の規則的な揺れに身を任せていると、意識が少しずつほどけていく。眠りに落ちる直前、現実と夢の境目に立つあの感覚が心地よい。

 このまま沈んでしまおう――そう思った、そのときだった。ふいに聞こえた声に、おれは顔を上げた。

 向かい側の座席に、小さな女の子とその母親らしき女が並んで座っていた。二人とも、まっすぐこちらを見ている。母親はおれと目が合うと、口元をわずかに引きつらせ、申し訳なさそうに小さく頭を下げた。おれもつられて会釈を返した。


「猫ちゃんいるのー?」


 女の子がおれのスーツケースをまっすぐ指さした。やっぱり、そうか。顔を上げる前から、このことを言っているのだと感じてはいた。

 もちろん、猫など入っているはずがない。おれは口角をわずかに上げ、首を小さく横に振った。


「えー、だって聞こえたもん。ねえ、かわいそうだから出してあげてー。息できないよー」


 母親が「やめなさい」と小声で窘め、娘の肩を軽く押さえた。その声音はどこか硬く、笑顔もぎこちなかった。それが、娘が見知らぬ大人に絡んだことへの気まずさからなのか、それとも、おれが猫を閉じ込めている可能性を疑っているからなのか。おれには判別がつかなかった。


「ほんとにいないのー? ねえ、見せてー」


 ……なかなかしつこい。年の頃は五歳前後だろうか。この遠慮のなさは年齢のせいだけではなく、きっと生まれ持った性質なのだろう。

 母親は困ったように眉を下げているが、おれを見る目には、やはりわずかな警戒心が宿っていた。 

 こんなところで不審者扱いされるのは勘弁してほしい。猫など入っているわけが……いや、可能性はゼロじゃない。数日前、あの女が勝手に飼い始めたのだ。ペットショップで一目惚れしたとかいう血統書付きの子猫だ。そういえば、家を出るときには姿を見かけなかった。

 まさか、この中に入り込んだのか? いや、でもおれは鳴き声なんて一度も聞いていない。

 おれはスーツケースを見下ろし、耳を澄ませた。叩けば何か反応があるかもしれない。だが、もし本当に中に入っていたら……。


「ねえ、見せてよー。ねえー」


 女の子が座席を降り、こちらへ一歩距離を詰めてきた。


「……いないから、猫」


 おれは短く答えた。その響きに何かを感じ取ったのだろう、母親はすぐに娘の腕を掴んで引き寄せ、「すみません」と呟くように言い、また小さく頭を下げた。

 女の子は唇を尖らせ、不満げに足をぷらぷらさせながら、それでもスーツケースをじっと見つめていた。

 おれは再び持ち手に額を預け、スーツケースを足でしっかりと挟み込んだ。耳をそばだてたが、聞こえるのはレールを刻む走行音と他の乗客の話し声。それだけだった。

 おれは小さく息を吐き、目を閉じた。


 ――ねえ、別れてよ! ねえ!


「なあ、今の何の音?」

「さあ? 目覚まし?」


「そこ?」

「たぶん」


 次の駅に停まり、ドアが閉じて電車が再び動き出したときだった。

 顔を上げると、少し離れたドア付近で二人組の高校生がこちらを見ていた。視線がぶつかった瞬間、「やべっ」という浮かべて、そろって窓のほうを向き、小さく笑った。

 どうやらおれのことを話題にしていたらしい。だが目覚まし? なんのことだ……。


「爆弾じゃね?」

「ははは、それはないだ――」


「爆弾!?」


 突然、空気を切り裂くように甲高い声が車内に響いた。視線を向けると、中年の女が震える手で口元を押さえていた。あるいは、そのたっぷりと脂肪のついた頬が崩れ落ちないよう支えているのか。

 花柄のロングスカートに濃い化粧。自意識過剰な気配が全身から滲み出ていた。

 高校生たちは自分らの冗談が引き金になったことに気づき、目を丸くして固まっていた。


「あ、あなた、その中、爆弾が入ってるの……?」


 女が震えながらスーツケースを指さした。答えるまでもない。そんなことあるわけがないだろう。

 おれは軽く微笑み、「違いますよ」と言おうとした。だが喉がひりつき、声が出なかった。そういえば、ずっと水分を取っていない。代わりに咳払いをし、首を小さく横に振った。

 しかし、それだけでは足りなかったらしい。女は納得していない様子で、「ほんとかしら」「本当に爆弾?」「嫌だわ……」と、独り言にしては大きすぎる声でぶつぶつと呟き続けた。

 その不安を煽る囁きに引き寄せられるように、周囲の視線が次第におれの足元――スーツケースへと集まってきた。


「まあ……音はしてた、よな?」

「ああ……」

「さっきのあれか……?」


 乗客たちが訝しげな目つきと小声で言葉を交わし合う。

 まさか本気で信じているわけではあるまい。だが、先ほどの女の子との一件が、無意識のうちにおれへの猜疑心を抱かせたのかもしれない。得体の知れないものを見るような目が、確かに向けられていた。

 だが、おれにはなんのことかさっぱりわからなかった。さっきの音とはなんだ。おれがうとうとしている間に、何かが鳴ったのか。だとしても、おれじゃない。この中には目覚まし時計だのなんだの、音が出るものなんて入っていないはずだ。

 ……いや、スマートフォンが入っている。それが鳴ったのか? 眠りかけていたせいで、気づかなかったのか。いや、電源は切ったはずだ……。


「違うよー! 猫ちゃんが閉じ込められてるんだよー!」


 女の子の甲高い声が車内に突き刺さった。一拍の沈黙のあと、乗客たちのざわめきが一段と大きくなり、「動物虐待?」という言葉がどこからともなく漏れ出した。


「ねえ、あなた。その中、見せてちょうだいよ。やましいことがないなら見せられるでしょ?」

「そうよ、見せてー」


 中年の女と女の子がおれのスーツケースを指さした。母親は女の子を胸元に抱き寄せながらも、疑心に満ちた目でおれを見ていた。


「だから、違うって……」


 おれはそう言ったが、声が喉の奥で絡まり、納得させるどころか届いたかどうかすらわからなかった。


「ほら、また聞こえた! 猫ちゃんだよ!」

「今、動かなかったか……?」


 だからありえない、ありえない……ありえないんだ……!


「うるさい、うるさいんだよ!」


 気づいたときには、おれは立ち上がって怒鳴っていた。

 次の瞬間、車内は空気が凍りついたように静まり返った。ただレールを刻む走行音だけが正確に響いていた。

 おれはゆっくりと腰を下ろし、再びスーツケースの持ち手に額を預けた。目を閉じると、心臓の音がやけに際立って聞こえた。


 ――奥さんと別れて。責任とってよ!


 声が鼓膜の裏側で鳴った。先ほどから少しずつ大きくなっていた。幻聴だ――おれは自分にそう言い聞かせて無視した。

 やがて電車が減速し、次の駅に滑り込んだ。ドアが開き、床を叩く乗客たちの靴音が、太鼓のように響く。その音がどこか心地よく、おれの意識を再び遠ざける。

 そのときだった。足音が、おれの正面でぴたりと止まった。

 席はまだ空いているはずだ。そう思って目を開けると、揃えられた靴先が視界に入った。刺すように、まっすぐこちらを向いている。次の瞬間、肩を軽く叩かれた。

 顔を上げると、そこには駅員と警察官が立っていた。


「すみません。他のお客様から、その……不審物を持ち込んでいるという通報がありまして……」


 駅員は帽子のつばに指を添え、申し訳なさそうなに言った。

 あの中の誰かが通報したらしい。ふと周囲を見回すと、おれは思わず息を呑んだ。この車両から他の乗客の姿が消えていた。


「そのスーツケースの中を、確認させていただいてもよろしいですか……?」


「……なんで」


「いや、その、ないとは思うのですが、猫が閉じ込められているとか、爆弾が入っているとか……」


 駅員の声は低く抑えられ、どこか同情めいていた。彼自身も半信半疑なのだろう。


「それと……女性の声が聞こえた、という話もありまして。ははは……何が入ってるんですか?」

「ちょっと見せてもらえませんかね」


 警官が一歩踏み出し、顔を近づけた。駅員とは対照的に、鋭い目つきをしていた。


「……開けますか? どうぞ」


 おれは呟くように言った。声が掠れて、ちゃんと届いたのかはわからない。だが、もうどうでもよかった。ひどく疲れた。

 開けたければ好きにすればいい。おれ自身、中身がどうなっているのかわからない。

 もしかしたら、猫が入っているのかもしれない。爆弾かもしれない。あの女はまだ息をしているのかもしれない。ひょっとしたら、腹の中の赤ん坊が出てきているのかもしれない。

 開けてみるまで、誰にもわからない。


 ただ……いずれにせよ、何かが出たがっているのは確かなようだった。

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