第75話(最終話) そして、俺たちの「行政」は続く 〜歴代最強の魔王は、今日も元気にハンコを押す〜
小鳥のさえずりが聞こえる。
消毒液と、高級な花瓶の花の香りが混ざり合っている。
「……ん」
俺――アルスは、重いまぶたを持ち上げた。
見慣れない白い天井。魔王城の貴賓用医務室だ。
体を起こそうとして、シーツに手をつく。
ズシッ。
体が、鉛のように重い。
俺は枕元にあったサイドテーブルから、見舞いの品のリンゴを手に取った。
かつての俺なら、指先の力だけでジュースにできた代物だ。
俺は、ぐっと力を込めた。
「……ふんっ! ……ぬんっ!」
リンゴは、ビクともしない。
それどころか、力を込めすぎて指の関節が痛い。
「……ははっ。痛ってぇ」
俺はベッドの上で、リンゴを抱えて笑った。
弱い。あまりにも弱い。
ステータスウィンドウを開く。
【名前】アルス
【職業】無職(元・魔王)
【Lv:5】【HP:15】【MP:3】
スライムに体当たりされたら骨折するレベルだ。
だが、その弱さがたまらなく愛おしかった。
「最高だ……! 俺はもう、山を消すことも、空を割ることもできない!
ただの『一般市民』に戻ったんだ!」
これで、厄介事ともおさらばだ。
責任? 知るか。勇者? もう怖くない(一般人はいじめないはずだ)。
田舎に引っ込んで、晴耕雨読のスローライフを送るんだ。
俺はウキウキで「退職願」を書き始めた。
◇
ガチャリ。
ドアが静かに開いた。
「お目覚めですか、魔王様」
入ってきたのは、秘書官のリルだ。
彼女の後ろには、ヴォルカン、セレスティア、ゴブ三郎、シルフ……四天王全員が揃っている。
さらに、勇者エミリアまで。
全員、神妙な面持ちだ。ヴォルカンに至っては号泣している。
「みんな、来てくれたか。……単刀直入に言う」
俺は書き上げたばかりの退職願を、リルに差し出した。
「俺は力を失った。魔王としての責務は果たせない。
よって本日付で辞任し、隠居する。あとは若いモンで上手くやってくれ」
完璧な引き際だ。
さあ、受理しろ。そして俺を自由にしてくれ。
だが、リルは退職願を受け取ると――丁寧に四つ折りにし、懐にしまった。
「……リル?」
「受理できません。……いえ、その必要はありません」
リルが眼鏡の位置を直す。キラリと光が反射した。
「アルス様。貴方は勘違いをなさっています」
「貴方は最強の力を失いましたが……代わりに、『最強の権威』を手に入れてしまったのです」
「は?」
シルフが、無言でスマホの画面を俺に見せた。
SNSのトレンドランキング。
1位:#ありがとう魔王様
2位:#アルス様万歳
3位:#聖人アルス
「見てください。世界中です。魔族も、人間も、貴方が力を捨てて世界を救ったことを知っています」
エミリアが苦笑いしながら補足する。
「配信、切れてなかったのよ。あんたが『俺はスローライフがしたいんだー!』って叫んで光になったところまで、全人類が見てたわ」
「えっ」
「コメント欄、すごかったわよ。『自分の欲を捨ててまで、俺たちを守ってくれたんだ!』って、感動の嵐」
「ち、違う! 俺は本当にサボりたかっただけで……!」
俺の弁明は、ヴォルカンの咆哮にかき消された。
「うおおおん! ご謙遜を! 力を捨ててでも民を守る……その高潔な魂こそが王の証!
俺は、一生ついていきますぞォォォ!」
「私財を投げ打って国を救う王……。投資価値『ストップ高』ですわ!」
「我々労組も、アルス様以外のボスは認めません!」
四天王たちが次々と跪く。
嘘だろ。
俺は助けを求めて窓の外を見た。
城下町から、地鳴りのような声が聞こえる。
「アルス! アルス!」「世界大統領!」
……詰んだ。
物理的な力は失ったが、政治的な影響力が神レベルになってしまった。
今、俺が野に下れば、俺を神輿に担ぎたい勢力による争奪戦(戦争)が起きるだろう。
「平和を守るためには……座り続けるしかない、ということか」
「はい。観念してください」
リルがニッコリと微笑んだ。
それは、世界で一番頼もしく、そして恐ろしい「鬼上司」の笑顔だった。
◇
――それから、数年後。
魔王城は改築され、今は「魔導連邦政府・大統領府」という名の高層ビルになっていた。
最上階、執務室。
窓の外には、魔法のネオンが輝く「ネオ・パンデモニウム」の夜景が広がっている。
空にはドラゴンがタクシーとして飛び交い、地上では人間とオークが肩を組んで歩いている。
「……ふぅ。本日の決裁、終了」
俺は万年筆を置き、大きく伸びをした。
肩がバキバキだ。HP15の体には、デスクワークも重労働である。
「お疲れ様でした、大統領」
横からスッと、コーヒーカップが差し出される。
リルだ。
彼女はもう、あどけない幼児ではない。完璧な秘書官に戻っている。
「ありがとう。……ミルク多め、砂糖なしだな」
「はい。お好みでしょう?」
俺たちはコーヒーを片手に、窓辺に立った。
眼下に広がる平和な光。
かつては荒野だったこの場所を、俺たちが変えたのだ。
「思えば遠くへ来たもんだ。最初は、いつ逃げ出そうか考えてたのにな」
「はい。正直、私も『この魔王様は3日で過労死する』と思っていました」
「おい」
「ふふっ。……でも、貴方は逃げなかった」
リルは窓ガラスに映る俺を見て、目を細めた。
「ゴミを拾い、頭を下げ、プライドを捨てて、この景色を作った。
山を消し飛ばす魔法よりも、貴方が積み上げた『書類の山』の方が、私には尊く見えます」
俺は自分の掌を見つめる。
ペンだこがあるだけの、ただの人間の手。
「俺はもう、最強じゃない。
スライム一匹倒せない、ただのお飾りだ」
「いいえ」
リルはきっぱりと否定した。
「貴方の一声で、ドラゴンが飛び、吸血鬼が金を出し、勇者が駆けつけます。
世界を動かすその力を、『最強』と呼ばずして何と呼びますか?」
俺は苦笑した。
「……『最強の中間管理職』、ってところか?」
「ふふっ。それが一番しっくり来ますね」
机の上にある水晶玉(通信機)が光った。
中には、小さな妖精――元・神のナビちゃんが浮かんでいる。
『ピピッ。大統領、明日のスケジュールです。
午前8時、人間界の国王とサミット。
午後1時、エミリア大使とのコラボ動画撮影。
午後3時、ヴォルカン長官のジム開きテープカット……』
「わかった、わかったよ。詰め込みすぎだろ」
俺はコーヒーを飲み干し、ジャケットを羽織った。
明日は早い。今日は帰って、録画したアニメを見ながら寝よう。
「帰りましょう、リル。送っていく」
「はい。……明日も、起こしに参りますね」
「ああ。頼むよ」
俺たちは部屋の電気を消した。
暗闇の中、二人の足音が並んで廊下へと消えていく。
俺は、歴代最強の魔王に転生した。
そして今、歴代最弱の、けれど最高に忙しい大統領として生きている。
ポケットの中には、世界樹の胃薬……ではなく、ビタミン剤。
胃の痛みは消えたが、仕事は消えない。
だが、まあ。
みんなが笑って暮らせるなら――この残業だらけの人生も、悪くはない。
俺たちの「行政」は、これからも続いていくのだから。
【完】




