第63話 リルの覚醒。「その書類、書式が古いです!」 〜愛のキスより効くのは「エクセルの関数エラー」でした〜
地下下水道、レジスタンスのアジト。
薄暗いランプの明かりの下で、俺たちは行き詰まっていた。
「……ダメだ。計算が合わない」
俺――アルスは、手元の羊皮紙を投げ出した。
現在行っているのは、反撃のための「物資調達計画」と「敵戦力の分析」。
だが、俺の頭脳はLv.1。ゴブ三郎も現場叩き上げで、緻密な計算は苦手だ。
「ここ……ここさえ繋がれば、敵の補給路を断てるはずなんだが……」
俺は頭を抱える。
いつもなら、俺が「あ」と言うだけで、秘書官のリルが「補給路のデータを解析、最適解はルートBです」と即答してくれていた。
彼女がいかに偉大だったか、失って初めて気づく。
「あるすさまー。みてー」
横から、能天気な声がした。
幼児化したリルだ。
彼女は俺たちが必死に広げていた「魔界全図(極秘資料)」の裏側に、クレヨンで楽しそうに落書きをしている。
「じょうずに、かけたー!」
見せられた絵は、角の生えた棒人間(俺)と、眼鏡をかけた棒人間が手を繋いでいる図だった。
可愛い。癒やされる。
……だが、今はその無邪気さが致命的だ。
「可愛いですねぇ……。ですが魔王様、これでは作戦が……」
ゴブ三郎が困り顔で言う。
「ああ。彼女が戻らない限り、我々に勝機はない」
俺はリルを見た。
精神崩壊による幼児退行。治すための魔法を使うMPは、今の俺にはない。
ならば、方法は一つ。
彼女の魂に刻み込まれた「本能」を刺激するしかない。
「……ゴブ三郎。黒板を持ってこい」
「黒板、ですか?」
「ああ。今から俺が、この『予算案』を手計算で作る」
俺はチョークを手に取り、不敵に笑った。
「見ていろ。……ショック療法だ」
◇
カツ、カツ、カツ……。
静かな地下室に、チョークの音が響く。
俺は黒板に向かい、わざと「めちゃくちゃ効率の悪い作業」を開始した。
「えーと、オーク部隊の食費が単価125ゴールドだから……125かける30は……」
俺は黒板の隅で、筆算を始めた。
「ご、ごいちがご……ごさんにじゅう……あ、繰り上がり忘れた。最初からやり直しだ」
黒板消しでゴシゴシ消す。
粉が舞う。
「……ん?」
リルの手が止まった。
クレヨンを持ったまま、ジッと黒板を見つめている。
「よし、次は表作りだ。……定規がないからフリーハンドでいいか」
俺は波打つようなグニャグニャの線を引いた。
枠からはみ出る数字。
揃っていない桁数。
インデントのズレた行頭。
「……あちゃー」
リルが小さく呟いた。
彼女の眉間が、ピクピクと痙攣し始めている。
幼児といえど、彼女は「完璧主義の悪魔」だ。目の前の「非効率」と「雑さ」に、本能的な拒絶反応が起きている。
俺はさらに追い打ちをかける。
「日付はどうするかな。……まあ、西暦じゃなくて『魔平成』でいいか。元号変わったけど覚えてないし」
「……ちがう」
リルが立ち上がる。
その手の中で、クレヨンがミシミシと音を立てる。
「さて、合計が出たぞ。検算は……」
俺は振り返り、満面の笑み(アホ面)で言い放った。
「面倒くさいからしなくていいな! どうせ『大体合ってる』だろ! このまま提出だ!」
――ブチッ。
何かが切れる音が、地下室に響いた。
「だめーーーーーーっ!!!」
バァァァン!!
リルが床を蹴った。
幼児とは思えないスピードで俺に肉薄し、手からチョークをひったくる。
「『大体』で決裁が通ると思っているのですかーーッ!!
財務省の査定を舐めないでください!!」
「えっ、リル……ちゃん?」
「どいてください! 見ていられません!」
彼女の幼児語が消えた。
リルは黒板に向かうと、阿修羅のごとき勢いでチョークを走らせた。
カッカッカッカッカッ!!!
残像が見える。
俺が書いた汚い数字が、次々と修正され、整列していく。
筆算などしない。脳内そろばんで瞬時に解を出し、美しいグラフまで書き加えていく。
「為替レートの変動係数が抜けています!
リスク分散の項目がありません!
そもそも、この書式は先代魔王時代のものです! 古すぎます!!」
罵倒しながら、完璧な資料を作り上げていく。
その背中から、幼児の幼さは消え失せていた。
そして、最後の数字を書き終えた瞬間。
彼女は懐から、予備の「銀縁眼鏡」を取り出した。
シュバッ!
装着。
レンズが冷徹な光を反射する。
曲がっていた背筋がピンと伸び、ボロボロだったスーツのシワさえも、気迫で伸びたように見えた。
「……ふぅ」
リルは振り返り、眼鏡の位置をクイッと直した。
その瞳には、知性と――殺意に近い仕事熱が戻っていた。
◇
「……魔王様」
氷点下の声。
俺は背筋を正した。
「は、はい」
「あの計算式、消費税率が改正前のものです。
私の不在中に、ここまで事務処理能力が低下しているとは……私の教育が足りなかったようですね(怒)」
彼女は指示棒(どこから出した?)で黒板を叩いた。
「お、おかえり……リル」
俺は涙目になりながら言った。
怖い。めちゃくちゃ怖い。
でも――最高に頼もしい、俺の相棒だ。
「……ただいま戻りました」
リルは一瞬だけ表情を緩め、すぐに真顔に戻った。
彼女はゴブ三郎からタブレットを奪い取ると、高速でフリック入力を始めた。
「状況は把握しました。ステータス低下、資金凍結、組織のブラック化。
……なるほど。どん底ですね」
彼女の口元が、ニヤリと歪む。
「腕が鳴ります。……魔王様、スケジュールを再構築しますよ」
「おお、頼む!」
「まず奪還すべきは『軍事力』――ヴォルカン将軍です」
リルは黒板に、ヴォルカンの顔写真を貼り付けた。
「彼は現在、不眠不休で働いています。正面から戦えば負けますが……彼には致命的な弱点があります」
「弱点? 筋肉か?」
「いいえ。『健康診断の結果』です」
リルは悪い顔で笑った。
「彼の直近のデータ……『尿酸値』と『肝機能』が危険水域です。
これを突きつければ、物理的に休ませることができます」
「……えげつねぇな」
「勝つためです。さあ、行きますよ!」
最強の頭脳が帰ってきた。
地下室の空気が、敗残兵のそれから「戦略司令室」の熱気へと変わる。
反撃の狼煙は上がった。
目指すは、魔王城の奪還。
そして――定時退社できる平和な日々の奪還だ!
【戦力増加:天才秘書官リル】
【支持率:計測不能(だが、勝機は見えた)】
【次回予告:ドラゴンを病院送りにせよ】




