第57話 秘書リルの限界。壊れたクールビューティー 〜「ばぶー(訳:システム・エラー)」と彼女は言った〜
魔王城、執務室。
窓の外は茜色に染まり、やがて群青の夜へと沈もうとしていた。
だが、この部屋に安息の時間は訪れない。
空間を埋め尽くすのは、ひっきりなしに鳴り響く念話の着信音だ。
『プルルルル! 財務省です! セレスティア様がまた屋敷の家具を捨て始めました!』
『プルルル! 国防省です! ヴォルカン将軍が倒れたまま起きません!』
『プルルル! 労組です! 無意味な書類の山が届きました!』
四天王全員が機能不全。
俺――魔王アルスは、満身創痍で執務室のドアを開けた。
「……リル。戻ったぞ」
返事はない。
部屋の隅、書類の塔の陰に、彼女は立っていた。
「おい、リル? どうすればいい。対策案は……」
俺は言葉を失った。
彼女の様子がおかしい。
常に背筋を伸ばし、完璧な姿勢を保っていた彼女が、今は小刻みに震えている。
両手には5枚のタブレット端末を抱え、それでも足りずに空中にウィンドウを展開している。
「……予算……調整……却下……承認……」
うわ言のように呟いている。
その瞳は、画面を滑っているようで、どこにも焦点を結んでいない。
「リル!」
俺が彼女の肩に触れた、その瞬間だった。
「……あ」
彼女の口から、空気が漏れるような音がした。
瞳から、理性の光が消失する。
ガシャン!
抱えていたタブレットが手から滑り落ち、床で砕け散った。
同時に、彼女のトレードマークである「銀縁眼鏡」がずり落ち、カチャンと音を立ててヒビが入る。
「おい、しっかりしろ!」
糸が切れたように崩れ落ちる彼女を、俺は慌てて抱き留めた。
軽い。
こんな小さな体で、魔王軍の全てを支えていたのか。
彼女をソファに寝かせる。体は熱い。
魔力回路が焼き切れそうだ。
「……えらー。……さいきどう、します……」
機械のような呟きと共に、リルの目がゆっくりと開かれた。
「気がついたか! よかった、俺だ、わかるか?」
俺は覗き込む。
だが、そこにいたのは、いつもの冷徹で有能な秘書官ではなかった。
眼鏡のない、無防備で、あどけない瞳。
彼女は俺の服の袖をギュッと掴み、とろんとした目で笑いかけた。
「……あるす、さま?」
「え?」
「おしごと、おわり? ……あそんで?」
「…………は?」
俺の思考がフリーズした。
舌っ足らずな甘えた声。無邪気な笑顔。
そこに「知性」や「義務感」といった大人の鎧はない。
俺は震える手で、彼女の状態を【鑑定】した。
【対象:リル・アスマデウス】
【状態:精神崩壊(一時的)】
【モード:セーフモード(幼児退行)】
《備考:過度なストレスと魔力負荷により自我が破損するのを防ぐため、OSを「責任のない時期(幼少期)」までロールバックしました》
「幼児化……だと……?」
俺は愕然とした。
システム障害だ。彼女の心というサーバーがダウンし、緊急回避モードに入ってしまったのだ。
「きゃはは! とんだー!」
リルがソファの上で跳ねる。
彼女は机の上の重要書類(国家予算案)を手に取り、ぐしゃぐしゃに折って紙飛行機を作り始めた。
「待て! それはダメだ! 財務省に出すやつ!」
「ぶブー! ひこーき!」
リルは楽しそうに、予算案を窓の外へ飛ばした。
ひらひらと舞い落ちる、国の未来。
「ククク……傑作だな」
背後から、嘲笑うような声が聞こえた。
振り返ると、執務室の闇の中に、先代魔王ガルドノヴァの亡霊が浮かんでいた。
「ガルドノヴァ……! 貴様、何をした!」
「わしは何もしておらんよ。きっかけを与えただけだ」
亡霊は、無邪気に遊ぶリルを見下ろし、鼻で笑った。
「あの『鉄の女』と呼ばれた才女が、ただの雌豚に成り下がるとはな。
見ろ、あの顔を。責任も、義務も、何も背負っていないマヌケな面だ」
「……」
「貴様が使い潰したのだ、アルス。
『頼りにしている』などと甘い言葉をかけ、その実、全ての負担を女一人に押し付けた。
部下を守れずして、何が王か。笑わせる」
図星だった。
俺が「効率化」にかまけて、彼女の限界を見過ごしていた。
悔しさと、申し訳無さと、そして――
どす黒い怒りが、腹の底から湧き上がってきた。
「……黙れ」
俺の声が低く響く。
部屋の空気がビリビリと振動し、残っていた窓ガラスにヒビが入る。
スキル【魔王の威圧】ではない。
俺自身の、本気の殺気だ。
「俺を罵るのはいい。俺が無能なのも認めよう。……だが」
俺はリルを背に庇い、亡霊を睨みつけた。
「こいつを……リルを侮辱することは、許さん!!」
ドォォォン!!
俺から放たれた魔力の奔流が、ガルドノヴァの霊体をかき乱す。
「ほう……」
ガルドノヴァが目を細めた。
「少しは王らしい顔になったか。……だが、遅いな」
彼は霧のように拡散し、消えていく。
「絶望するがいい。貴様にはもう、手足となる部下も、頭脳となる秘書もいない。
あるのは『孤独』だけだ」
亡霊の気配が消える。
部屋には再び、電子音だけが残された。
『プルルルル!』『プルルルル!』
鳴り止まないトラブルの電話。
決裁を待つ書類の山。
暴動寸前の城下町の喧騒。
それらを処理できる人間は、もうここにはいない。
「あるすさま……」
服の裾が引かれる。
振り返ると、リルが不安そうな顔で俺を見上げていた。
眼鏡のない大きな瞳が、潤んでいる。
「こわいかお、しないで……。あるすさま、すき。だっこ……」
彼女は両手を広げた。
その仕草は、あまりに無垢で、残酷なほどに愛らしかった。
「……ああ」
俺は膝をつき、彼女を抱きしめた。
温かい。
だが、その温もりが、今は鉛のように重かった。
彼女の眼鏡の奥にあったクマに、なぜもっと早く気づいてやれなかったんだ。
彼女がカフェイン剤を噛み砕く音を、なぜ見て見ぬふりをしたんだ。
「ごめんな、リル……」
俺の心の中で、何かが折れる音がした。
(もう、無理だ)
(俺一人じゃ、この国は支えきれない)
心が折れかけた俺の耳元で、再び悪魔の囁きが聞こえ始める。
『楽になれ』と。
『壊してしまえばいい』と。
『ピロリン……』
視界の端で、警告ウィンドウが赤く明滅した。
【現在支持率:30.0%(▼DANGER)】
【警告:危険水域に突入しました。強制排除イベントまで、あとわずかです】




