第14話 決行、極大魔法『浄化の黒炎(クリーン・インシネレーター)』 〜その一撃は、領収書より重く〜
上空一〇〇〇メートル。
成層圏に届こうかという高さで、俺は風に煽られながら浮遊していた。
眼下には、紫色の毒ガスを撒き散らす「廃棄物巨人」。
そして、その周囲を飛び回る無数のドローンカメラ(使い魔)。
『視聴者数、魔界人口の6割を突破! 過去最高記録です!』
シルフの興奮した声がインカムから響く。
今、世界中の視線が俺の一挙手一投足に注がれている。失敗は許されない。失敗すれば、俺の魔王としての威厳も、そして「損害賠償保険」の適用等級も吹き飛ぶ。
「……ふぅ」
俺は懐から、分厚い紙束を取り出した。
苦労して各省庁を回り、頭を下げ、ハンコをもらった「決裁済み申請書」の束だ。
「いけ」
俺が紙束を空中に放り投げると、それらは風に舞うことなく、意思を持ったように静止した。
カッ!
一枚一枚が幾何学的な光を放ち、俺の周囲を取り囲むように整列する。
そして、それらは複雑に連結し、空を覆い尽くすほどの「立体魔法陣」と変貌した。
『うおおおお! 何だあれ!』
『紙が……魔法陣になった!?』
『演出凝りすぎだろwww』
コメント欄が流れる速度が上がる。
見た目は神秘的だが、その実態はただの「行政手続きの可視化」である。
俺は右手を掲げた。
魔法陣が呼応して唸りを上げ、大気中のマナを吸い寄せ始める。
(……集中しろ。ここからは、コンマ1秒のズレも許されない)
俺は厳かに口を開いた。
表向きは、世界を震わせる「禁断の詠唱」。
しかしその脳内で走っているのは、膨大な術式の「最終チェック(デバッグ)」だ。
「――冥府の扉よ、現世の理を喰らいて開け」
(脳内処理:Target_Select... 「廃棄物巨人」の核を固定。周辺のゴブリン住居を「保護対象」に指定。ロックオン完了)
「虚飾に塗れた万象を、原初の無へと還さん」
(脳内処理:Range_Setting... 有効半径500メートル。環境省コード774に基づき、熱量を運動エネルギーへ変換。オゾン層への被害予測、0.00%)
俺の言葉に合わせて、魔法陣の色が漆黒へと染まっていく。
太陽の光さえも飲み込む、絶対的な闇。
そのプレッシャーに、地上で見守る古龍が身を震わせた。
「ぬぅ……! なんという密度じゃ……! おい若造! ワシの新しい家に傷一つつけてみろ! 末代まで祟るぞ!」
『魔王様ー! カメラ目線くださーい! キメ顔で!』
外野がうるさい。
俺は額に浮く脂汗を隠しながら、必死に座標の小数点以下の数値を調整していた。
(うるさい! 今、ミリ単位のトリミング設定中なんだよ! 話しかけるな!)
脳が焼き切れそうだ。
前世でデスマーチ中にエナドリを飲みすぎて心臓が早鐘を打った、あの感覚が蘇る。
だが、逃げるわけにはいかない。
俺の背中には、この国の未来と、俺の「平穏な老後」がかかっているんだ!
「……照準、固定」
全ての準備が整った。
俺は、掲げていた右手を、断頭台の刃のように振り下ろした。
「――消え失せろ。『浄化の黒炎』!!」
瞬間。
世界から「音」が消えた。
ドカーン! という爆発音も、
ズズズン! という地響きも、
バリバリ! という破壊音もない。
ただ、巨人がいた空間に、音もなく「黒い球体」が出現しただけだった。
それは、フォトショップの「消しゴムツール」のように、あるいは動画編集ソフトの「カット編集」のように、現実空間の一部を切り取った。
黒い球体は巨人を飲み込み――そして、シャボン玉が弾けるように「プン」と小さな音を立てて消失した。
後に残ったのは、突き抜けるような青空と。
綺麗サッパリ何もなくなった、平らな大地だけ。
巨人も、ゴミ山も、悪臭も。
最初からそこになかったかのように、消滅していた。
しかし、そのすぐ隣にあるゴブリンのボロ家や、古龍の新しい洞窟には、傷一つついていない。
あまりに完璧な、あまりに静かな「事務的処理」だった。
「…………」
静寂。
誰もが、何が起きたのか理解できずに口を開けていた。
数秒後。
「……き、消えた?」
「あの巨大なゴミの山が……一瞬で!?」
「しかも、俺たちの家は無事だぞ!」
ワァァァァァァァァッ!!
爆発的な歓声が地上から巻き起こった。
『えっ? 今のなに? ラグ?』
『いや、処理落ちするレベルの魔法を一瞬で終わらせたんだ……!』
『神業だ!』
『破壊じゃなくて「消去」……魔王様、異次元すぎる!』
SNSのタイムラインが高速で流れていく。
大成功だ。
俺は空中で、ほっと息をついた。
「……終わった」
その瞬間、極度の緊張からの解放と、脳の酷使による反動が襲ってきた。
視界がグラリと回る。
「うぷっ……」
強烈な吐き気がこみ上げる。
座標計算で脳の糖分を使い果たし、さらにプレッシャーで胃酸が逆流しかけている。
俺は慌てて口元を手で覆い、うずくまるように身を屈めた。
(やばい、吐く……! カッコ悪いところ見せられない……!)
しかし、その姿さえも、地上の信者たちには美しく補正されて伝わった。
「見ろ……! 魔王様が、力の反動に耐えておられる……!」
「あれほどの大魔法を、被害を出さずに制御しきったのだ。その負担は計り知れないはず……!」
リルが目を潤ませて呟く。
シルフが、ここぞとばかりにドローンを接近させる。
『見てください皆さん! 憂いを帯びて口元を隠す魔王様! セクシーすぎます! 今がスクショタイムですよー!』
パシャパシャパシャ!
シャッター音が鳴り響く中、俺は必死に嘔吐感を堪えていた。
(帰りたい……早く帰って胃薬飲んで寝たい……)
その時、頭の中でファンファーレが鳴り響いた。
『ピロリン♪』
『ピロリン♪』
『ピロリン♪』
連続する通知音。
視界のウィンドウが、凄まじい勢いで更新されていく。
【クエストクリア:ゴミ問題の解決】
【周辺住民の支持率:MAX】
【環境省からの感謝状を獲得】
【古龍からの信頼を獲得】
そして、最も重要な数値が、音を立てて上昇した。
【現在支持率:35.0% → 55.0%(▲V-RECOVERY!)】
「……やった」
55%。過半数超えだ。
これで、俺の命は繋がった。
強制処刑の恐怖に怯える夜は、もう来ない。
俺はふらつく足で空中に立ち上がり、民衆に向かって手を振ろうとした。
その時だ。
視界の端に、新たなウィンドウが割り込んできた。
真っ赤な、緊急警報のアラートだ。
【警告:高エネルギー反応、接近中】
【個体識別名:勇者エミリア】
【到着まで:あと5分】
「…………は?」
俺の思考が停止した。
勇者? 今? このタイミングで?
俺は、今まさに吐き気をこらえ、魔力を使い果たし、疲労困憊の状態だ。
そこに、人類最強の戦士がカチコミに来る?
「ふざけんな……! 労基署に訴えてやる……!」
俺の悲痛な叫びは、民衆の大歓声にかき消された。
歴代最強の魔王の受難は、まだ始まったばかりだったのだ。




